第19回
磯野真穂さんと「徒歩旅行」を考える
2023.11.20更新
早稲田大学で学んでいたころ、時折、山西優二先生の文学部の研究室を訪れた。山西先生の研究室には、世界中のお茶が茶具とともに取り揃えられている。山西先生は、訪れる学生の顔色を見てその人の状態にあったお茶を入れて話をしてくれる。バングラデシュから帰国したときや、結婚し子どもが生まれるとき、人生の要所で山西先生と話しに行くのは僕にとっては大事なことだった。
山西先生が早稲田を退官した2023年の5月。先生の教え子たちが毎年集う長野県別所温泉での合宿に家族で参加した。別所温泉では、山西先生の教え子の小川康さんが「森のくすり塾」を開いている。小川さんは、ダライ・ラマのお膝元で10年間医者として修行した日本で唯一のアムチ(チベット医師)だ。小川さんのチベットの修行体験を綴った書籍『僕は日本でたったひとりのチベット医になった ヒマラヤの薬草が教えてくれたこと』(径書房)は、青春群像劇でありながら、チベット医学の現場を活写したルポタージュ。読んでいると小川さんと一緒にチベットの野山を薬草を見つけるために駆け回ってる気分を味わえる傑作だ(Kindleでも読めます)。
僕は自身のバングラデシュでの体当たり体験を記した処女作『前へ!前へ!前へ!』(木楽舎)と同じ匂いを感じた。合宿で小川さんと出会ってみると、意気投合。奇しくも同じ弓道部出身ということで、森の弓道場で弓を引いたり、巻藁(弓道の練習のための藁を締め上げた俵のようなもの)の作り方を教えてもらったりと大盛り上がりした。小川さんは自分の仕事場を、大工の力を借りて自力で建ててしまったり、大地のあおちゃんとも共通する「なんでも自分でやってしまう精神」の持ち主だった。そんな彼が縁側でお茶を飲み、おやきを食べながら、勧めてくれた一冊がある。『急に具合が悪くなる』(晶文社)という本だ。
可愛らしい豹がピッチャー姿でこちらをまっすぐに見つめるイラストの表紙。帯には「もし明日、急に重い病気になったら――見えない未来に立ち向かうすべての人に。」とある。人類学者の磯野真穂さんと哲学者の宮野真生子さんの手紙のやりとりらしい。やっちゃんが教えてくれた。「この手紙のやりとりが進む中で、共著者の宮野さんが、だんだん具合が悪くなっていく。そして、最後の手紙は亡くなる直前に書かれたものなんだ」。僕はこの本を手に入れ、翌週のドイツ出張へ向かう機内で読み始めた。
「もし自分が重病にかかって残り僅かな命と言われたらどうするか?」
「もし自分の友人が死と向き合うことになったら、何を語りどんな時間を過ごすのか?」という問いを、読んでいて何度も考えた。
「そもそも、人が生きるということは一体? 生きて行くなかで、他者と出会うこの『偶然』とはなんなのか」
哲学と人類学という2つの学問に20年間取り組んできた宮野さんと磯野さんの真剣勝負の言葉の投げ合いは、宮野さんの具合が悪くなっていく後半にかけて一層スリリングになっていく。
「いま、私は大量のモルヒネを摂取して生活しています。大量のモルヒネは抗いようのない眠気と、不確かな身体感覚をもたらします。つねに世界とのあいだに一枚皮膜が挟まれているような、薄皮の感覚が私の身体を覆っています。そんななか、痛みは不思議な役割を果たします。たしかに痛みは私の身体を「モノ」にし、一点に集注させます。しかし、病むことで私は自分の身体を思い出し、自分を強く感じます。
もちろん、そこで感じられる自分とは、偶然の病がもたらした死の恐怖の淵に立っている存在です。病など罹ることなくありえた『にもかかわらずこのようにある』自分の存在が、痛みと死の恐怖のなかに立ちあがってきます。間違いなく怖いです。『ないこともありえた』などではない、無へと引きずり込まれそうになります。その恐怖をはらうように、私は考え、言葉にするのです。そうやってなんとか生の側に踏みとどまります。痛みと死において自分を取り返し、その自分に立ち止まるために語りを紡ぎ出す。これを哲学する者の業と言わずして何と言うのでしょうか。」
「いまもまた。私は語ります。そこにうごめく生への執着、それこそが、生きようとする力の始まり、偶然性を生きるということなのだと、この病のなかで私は知りました。この痛みは、この語ろうとする衝動は、私だけのものだから、この書簡のエースは間違いなく私です。他の人に投げられるはずもないのです。」
(『急に具合が悪くなる』p176/晶文社)
「宮野さん、なんでそこまでして書くんですか!?」
「磯野さん、宮野さんをもう休ませてあげて!」
と、読んでいて僕は思わず叫びたくなった。
『急に具合が悪くなる』を読み終わったとき、僕はフランクフルトの動物園入り口の前のベンチにいた。時間は深夜の0時に近かった。ジャズバーに演奏を聞きに行こうと向かったのだが、店内のあまりに濃い地元のみなさんの空気に入店できず、ぶらぶらしながら、動物園の前にたどりつき、この本を最後まで読んだ。気づいたら、僕はさめざめと泣いていた。磯野さん、宮野さんの直球を、久しぶりの海外で一人で読んでいたら、涙が堰を切ったように流れてきたのだった。飲み会帰りのドイツ人の若者たちが、動物園の前で涙を流す僕のことをいぶかしみながら、横目で見て歩いて行った。
「人は生きて、死ぬ。死ぬのはいつかわからない。その限りのなかで、僕たちは他者と出会う」。これほど、愉快で悲しいことがあるだろうか。
『急に具合が悪くなる』の第9便で、磯野さんが紹介しているイギリスの文化人類学者ティム・インゴルドの「ライン」の話が面白い。インゴルドは著書『ラインズ』(左右社)で糸、歌、輸送、物語といった色々なラインは、かつて、それぞれが運動とともに描かれていた軌跡だったという。それが、歴史のなかで、点と点をつないでいるだけの直線になっているのではないかと指摘する。「徒歩旅行」と「輸送」の例がわかりやすい。
「インゴルドは、徒歩旅行を最終目的地が決まっておらず、歩みを進めるその度に、世界を知覚し、それと親密に関わりながら通り抜ける運動であると述べます。その結果、そこには運動の伴ったライン、踏み跡が刻まれます。」
「ところがこれが輸送に変わった瞬間に、この運動は奪われると彼は述べるのです。輸送の目的は、出発地点と到着地点という点を、直線で連結し、荷物に変化を加えないよう横断させる行為です。」
(『急に具合が悪くなる』P183/晶文社)
その時のドイツ出張で、僕はスマホのグーグルマップに大いに助けられた。会う予定の人との待ち合わせ場所や、参加するワークショップの会場へ、どのバスに何分後に乗るかまで教えてもらったからだ。ただ、僕は目的地へ向かう間、スマホの画面に注意をとられ、どれだけ周囲の風景や人々、そこにあるものに気づいていただろうか。僕はグーグルマップとスマホによって出発点と目的地を効率的に一直線に移動できた。しかし、その間に一切の運動を伴ったライン、踏み跡を残さなかった。
そんな「輸送的な移動」に最後は嫌気がさし、ホテルにわざわざスマホを置いて外へ繰り出した。僕は、街並みや軒先でビールを飲む人々の空気をのんびり吸いながら、この路地の先には何があるのだろうとドキドキわくわくしながら歩みを進めた。見知らぬ街を、地図なしで歩くのはちょっとした冒険だ。それがきっと「私を取り巻く街並みとともにラインを描く」ということなのだろう。
磯野さんは著書でこの考えを、医療の分野での話に展開していくのだが、僕は「これって、大地であおちゃんが僕たち親に語ることと似ている!」と感じた。大地が仕掛けてくる催しや、投げかけてくる問いは、「あなたは子育てで、どんなライン、踏み跡を残していますか」というものだからだ。
保育園や幼稚園などが発達し、働く僕たちは子どもたちを園に預けやすくなった。僕の友人は新宿区にある24時間子どもを預けることができる子ども園に通わせている。そこでは、夕ご飯まで子どもに食べさせてもらってから、お迎えに行くことができる。仕事柄、そういった園の必要があるのももちろん理解している。しかし、あおちゃんが警鐘を鳴らすのは、子育てがある意味で、保育園や子ども園に任せっきりになることで、親たちが子どもと時間を過ごし、創意工夫をしながら楽しむ余地、余白を狭める可能性もあるのではないか、ということだ。
子育てが「輸送化」すると、あおちゃんが重視する子どもが思いっきり懐いてくれる黄金時代である幼少期の貴重な時間が、保育サービスに巻き取られてしまうこともあるかもしれない。いかに子育てを「徒歩旅行」として楽しめるのか、子どもと楽しんだ記憶、思い出を踏み跡として人生に残していけるのかを、大地は常に問うてくる。
「子育てを『輸送』から『徒歩旅行』にしたらどうですか?」と。
僕はドイツから、磯野さんのホームページの問い合わせフォームに、ぜひ小布施にお招きして、小布施の本屋スワロー亭で磯野さんを囲む会を開きたい旨を連絡した。ホストは僕と、チベット医のやっちゃんだ。
「税所とチベット医の小川」という不思議な組み合わせの小布施へのお招きに、磯野さんは「おもしろそう」と思ってくれたそうだ。2ヶ月後の8月に、磯野さんが小布施にやってくることになった。
8月4日、真夏の太陽が照る小布施に磯野さんは車でやってきた。アムチやっちゃん夫妻も合流。まずは栗あんみつで涼をとってもらう。その後、町の宝、葛飾北斎の鳳凰の天井画がある岩松院へ。住職正巳さんの案内で、中へ入る。お二人に、北斎の最高傑作を堪能してもらう。岩松院には気持ちいい風が吹いている。
夜は町の本屋スワロー亭で磯野さんを囲むブックナイトトークを開いた。県内各地から約20名近くの参加者が詰めかけ店は満員御礼状態になった。トークは、医療、AI、人類学からチベット社会まで大いに盛り上がった。僕が特に好きだったのは、磯野さんにとっての「徒歩旅行のはじまり」のエピソードだ。
学生時代アスレチックトレーナーを志していた磯野さんは、オレゴン州立大学へ留学する。磯野さんは、科学について勉強するなかで、「人間ってこんなに細分化して、数字にしていってわかるのかな」という疑問を抱いたそうだ。そんなときに出会って衝撃を受けたのが人類学だった。学部を変更するときに、ある教授が磯野さんにかけた言葉が背中を押した。
「磯野がいま楽しくないと思ってるということは、なにかが間違ってるってことなんだ。だから迷わず(学部を)変えればいい。楽しいと思う方向へ進めばいいんだ。」
こうして、磯野さんは人類学者への一歩を踏み出したのだった。
ちなみにアムチ小川さんの「徒歩旅行のはじまり」も興味深い。21歳の小川さんは当時、東北大学薬学部で学んでいた。ある夏の日、「ものすごい拒絶反応」が彼を襲った。
「自分は試験勉強を得意としてきたが、実はなにも知らないのではないか。」
それから小川さんはそれまでの既定路線を捨てて、高校の用務員やったり、様々な仕事を経験するなかでチベットへの道につながっていったのだった。
トークは予定時間を超えても続くほど盛り上がった。
別れ際に僕は磯野さんに、『急に具合が悪くなる」にサインをお願いした。
「あっちゃんの徒歩旅行のその先を楽しみにしています。 宮野真生子 磯野真穂」
宮野さんは今も生きている。