雨宿りの木

第16回

記憶の仕組みをつかって、相手の不安を取り除く

2022.08.29更新

 こんにちは。

 前回まで2回にわたって、わたしたち人間がどのように情報を取り入れ、それを記憶しているのかという記憶の仕組みについてご紹介しました。

 下の図にお示しするように、わたしたちは外からの情報を感覚器(目や耳、皮膚など)で受け取って、その中から必要な情報を「フィルター」で選び取って大脳で記憶しています。記憶のシステムは2つあって、ほんのわずかの時間だけその内容を覚えておく「短期記憶」と、短期記憶の中から選ばれて長く記憶にとどめておく「長期記憶」があります。「短期記憶」が覚えておける時間は数十秒、覚えておける物事の数は単語では5個ぐらいで、本当にわずかです。その短期記憶の中から選ばれたものが「長期記憶」にとどまります。そして、それを必要とするときに、わたしたちは引き出しの中から文房具を取り出すようにその記憶を取り出して利用します。

スクリーンショット 2022-08-29 11.43.03.png 認知症では、この記憶のしくみのさまざまな場所がうまく働かなくなります。たとえば、誰かが自分に話しかけていることに気が付かないのは、「フィルター」がうまく働いていないからですし、「今何時?」と尋ねて相手に答えてもらったことを1分後にもう一度尋ねてしまうのは、「短期記憶」がうまく働いていないからです。また、お孫さんの顔や名前がわからなくなるのは、「長期記憶」がうまく働かなくなっているからです。

 記憶はわたしたちが生活する上で、とても大切な機能です。記憶がある、ということは別の言い方をすると「わたしは知っている」ということです。「パソコンの使い方を知っている」ので、わたしはこの原稿を書いていますし、「電車の乗り方を知っている」ので、仕事に行くことができます。わたしが自信をもってこれらをできるのはわたしに記憶があるからです。

 しかし、自分が知らないことについては、わたしはとても不安になります。たとえば、誰かがわたしをイスラマバードの街角に連れて行って、そのままいなくなったとしたら、わたしは自分が街のどこにいるかわからないし、看板の字も読めません。周りにいる人に尋ねようと思っても言葉が通じません。わたしは不安でいっぱいになって、どうしたらいいのか途方に暮れてしまいます。

 誰もが自分の知っていることには自信をもって取り組め、知らないことは不安になります。これは認知症をおもちの人にとっても同じです。さらに、この不安な気持ちが、興奮したり、家族が困ってしまうような行動をとるなどの「認知症の行動心理症状」と呼ばれる、さまざまな症状がおこるきっかけになってしまうのです。

 大きな声をあげたり、乱暴な行動をとったり、落ち着かない様子でぐるぐると歩き回ったりする、といったような認知症の行動心理症状は、わたしたちにとっては「どうして急にこんなことをするんだろう」と意味がわからず当惑してしまいますが、実はご本人が感じている不安が原因となっていることが多いのです。ご本人の行動が混乱しているように見えるときには、混乱するほど不安な気持ちになっているのだな、と考え、その不安を取り除く工夫をしてみてください。

 不安を取り除く原則は、ご本人に「あ、大丈夫だ」と感じてもらうことです。その例をいくつかご紹介します。

① 短期記憶がうまく働かないので、「1度にたくさんのことを言わない」
 たとえば、これから一緒に買い物にでかける予定のときに、「さ、お母さん、お買い物にいくから髪を整えて、洋服を着替えて、バッグにお財布を入れて、靴を履いてね」とお伝えすると、ここには①買い物に行く、②髪を整える、③服を着替える、④バッグにお財布を入れる、⑤靴を履く、と5つの行動を一度に伝えてしまっています。冒頭に、短期記憶は数十秒しかもたないことをご紹介しましたが、「靴を履いてね」と言ったときには、もうお母さんは最初の「買い物に行く」ことを忘れてしまっています。

 何か行動をうながしたいときには、一つずつお伝えすることが大切です。
「お母さん、お買い物に行きましょう」→お母さんの返事を待つ→「髪を整えましょうか」→洗面所に一緒に行く→「洋服を着替えましょう」→たんすに行く→「バッグにお財布を入れましょうね」→財布を入れる→「靴を履いてね」→靴を履いてお支度完了。

② 「ご本人がよく知っていて、安心できる話題を選ぶ」
 記憶の仕組みでお伝えしたように、長期記憶には「意味記憶」「エピソード記憶」「手続記憶」「感情記憶」の4つがあります。学校で習ったことは「意味記憶」にとどめられていますが、これは認知症が進むとどんどん忘れていってしまいます。しかし、「エピソード記憶」「手続き記憶」「感情記憶」は意味記憶が失われてもまだ残っています。さらに、記憶は新しいものから順番に忘れられていくという特徴を利用して、ご本人が覚えている、つまりよく知っていて安心できる話題を選ぶと、ご本人の安心につながります。昔のできごと(エピソード記憶)は昨日の晩御飯の献立よりももっとしっかりと記憶にとどめられています。また長期記憶の4つの要素はそれぞれが密接なつながりをつくっていて、とくに楽しかった、うれしかった、というような「感情に関する記憶」は「エピソード記憶」と関連づけられているので、「お父さん、お父さんが小学校の時に、工作で賞をとったときの作品って何だったっけ?」などのように、お父さんがよく話してくれていた「うれしかった出来事」を話題にすることで、ご本人に安心してもらい、落ち着きを取り戻してもらうこともできるかもしれません。

 ご本人の得意なこと(これは手続記憶と関連します)、好きなこと、大切な思い出など、安心につながる手持ちのカードを持っておくことは、介護をするときの大切な技術です。どうぞお試しになってみてください。

本田美和子

本田美和子
(ほんだ・みわこ)

国立病院機構東京医療センター総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長。1993年筑波大学医学専門学群卒業。内科医。国立東京第二病院にて初期研修後、亀田総合病院等を経て米国トマス・ジェファソン大学内科、コーネル大学老年医学科でトレーニングを受ける。その後、国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センターを経て2011年より現職、高齢者・認知症患者のケアに関する研究に従事。2011年より『ユマニチュード』の研究・日本への浸透を担い、2019年7月一般社団法人日本ユマニチュード学会を設立、代表理事に就任。

※一般社団法人日本ユマニチュード学会は、フランス生まれのケア技法『ユマニチュード』の普及・浸透・学術研究と会員間の相互交流を通じ、誰もが自律できる社会の実現を目指して様々な活動を行っています。会員としてご一緒に活動いただける方、会の趣旨に賛同してのご寄附など、随時募集しております。詳しくは、ウェブサイトをご覧ください。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

  • 『中学生から知りたいパレスチナのこと』を発刊します

    『中学生から知りたいパレスチナのこと』を発刊します

    ミシマガ編集部

    発刊に際し、岡真理さんによる「はじめに」を全文公開いたします。この本が、中学生から大人まであらゆる方にとって、パレスチナ問題の根源にある植民地主義とレイシズムが私たちの日常のなかで続いていることをもういちど知り、歴史に出会い直すきっかけとなりましたら幸いです。

  • 仲野徹×若林理砂 

    仲野徹×若林理砂 "ほどほどの健康"でご機嫌に暮らそう

    ミシマガ編集部

    5月刊『謎の症状――心身の不思議を東洋医学からみると?』著者の若林理砂先生と、3月刊『仲野教授の この座右の銘が効きまっせ!』著者の仲野徹先生。それぞれ医学のプロフェッショナルでありながら、アプローチをまったく異にするお二人による爆笑の対談を、復活記事としてお届けします!

  • 戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

    戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

    下西風澄

     海の向こうで戦争が起きている。  インターネットはドローンの爆撃を手のひらに映し、避難する難民たちを羊の群れのように俯瞰する。

  • この世がでっかい競馬場すぎる

    この世がでっかい競馬場すぎる

    佐藤ゆき乃

     この世がでっかい競馬場すぎる。もう本当に早くここから出たい。  脳のキャパシティが小さい、寝つきが悪い、友だちも少ない、貧乏、口下手、花粉症、知覚過敏、さらには性格が暗いなどの理由で、自分の場合はけっこう頻繁に…

この記事のバックナンバー

08月28日
第36回 ユマニチュードを人工知能・拡張現実を使って学ぶ 本田美和子
07月30日
第35回 正しいレベルのケア 本田美和子
05月29日
第34回 ケアがうまくいかないとき 本田美和子
04月28日
第33回 慶應義塾大学病院が取り組むユマニチュード 本田美和子
02月28日
第32回 働く人の体を守るために生まれた技術 本田美和子
01月26日
第31回 コミュニケーションを定量する 本田美和子
12月26日
第30回 救急隊が実践するユマニチュード 本田美和子
11月29日
第29回 ユマニチュードの5原則と生活労働憲章 本田美和子
10月30日
第28回 ノックはなぜ必要か 本田美和子
09月28日
第27回 ユマニチュードの理念が実現する場を作るために ~ユマニチュード認証制度と富山県立大学の取り組み~ 本田美和子
08月29日
第26回 福岡市とユマニチュード 本田美和子
07月26日
第25回 ケアの実践・暑いとき 本田美和子
06月28日
第24回 ケアの実践・入浴 本田美和子
05月27日
第23回 ケアの実践・返事がなく意思の疎通がとれないと感じる相手とのコミュニケーション 2 本田美和子
04月27日
第22回 ケアの実践・返事がなく意思の疎通がとれないと感じる相手とのコミュニケーション 1 本田美和子
03月28日
第21回 ケアの実践・ご本人に安心を届ける技術 本田美和子
02月27日
第20回 ケアの実践・食事 本田美和子
01月30日
第19回 ケアの実践・歩行訓練に誘うとき 本田美和子
11月28日
第18回 どんな記憶が残りやすいのか 本田美和子
09月29日
第17回 ご本人にとっての「今」はどこか 本田美和子
08月29日
第16回 記憶の仕組みをつかって、相手の不安を取り除く 本田美和子
07月25日
第15回 記憶の仕組みを理解する(2) 本田美和子
06月29日
第14回 記憶の仕組みを理解する 本田美和子
05月30日
第13回 物語をつむぐケア 本田美和子
04月28日
第12回 マルチモーダル・コミュニケーション 本田美和子
03月29日
第11回 立つことがもたらすもの 本田美和子
02月28日
第10回 相手と良い関係を結ぶための触れ方 本田美和子
01月30日
第9回 相手と良い関係を結ぶための話し方 本田美和子
12月27日
第8回 相手と良い関係を結ぶための見方 本田美和子
11月29日
第7回 「あなたのことを大切に思っています」と伝えるための手段 本田美和子
10月29日
第6回 「人」らしさとは何か 本田美和子
09月29日
第5回 「ケアをする人」の定義 本田美和子
08月29日
第4回 ユマニチュード誕生の原体験 本田美和子
07月29日
第3回 ユマニチュードを学びにフランスへ 本田美和子
06月24日
第2回 医療を相手に受け取ってもらうための新しい一手 本田美和子
05月25日
第1回 自分を守る 本田美和子
ページトップへ