第4回
ユマニチュード誕生の原体験
2021.08.29更新
フランスで実践されている高齢者のケアの現場を見学させていただけないか、とのお願いをご快諾くださったロゼット・マレスコッティ先生とイヴ・ジネスト先生は、お二人が考案したケア技法「ユマニチュード」を教えている病院や介護施設に私を連れて行ってくださいました。
もともとお二人は体育学を専攻し、ケアや医療とは無縁でした。競技者としても秀でていらして、水泳やレスリングなどで強化選手に選ばれたこともおありでしたが、「試合に出れば勝つのだけれど、あまり面白くない」と感じていたことから、「人生を楽しむための体育学とは何だろうか」をずっと考えていた、と話してくださいました。
あるとき、職場の掲示板に「病院で働く看護師に腰痛予防対策を教える教員を募集する」というフランスの文部省からのお知らせが貼り出されました。患者さんの体を動かす際に腰を痛める看護師さんは昔から現在までとても多く、その対策は重要な課題であり続けています。お二人は「面白そうだ」と思い、その仕事を引き受けることにしました。
とても健康なお二人はそれまで入院したこともなく、看護が難しい患者さんとは一体どんな方々なのかもわかりませんでした。ともかく現場に赴いてみると、看護師さんの働きぶりに感銘を受けた、とその時の様子を話してくださいました。そこで行われていたのは、患者さんに対して献身的な「何でもやって差し上げる」ケアでした。ベッドに寝ている巨漢の患者さんに「じっとしていてくださいね」と声をかけて体を拭いたり、着替えをしたりするその技術はまさに専門家の技で、それにびっくりしていたところ、「では、この患者さんを椅子に移動させる方法を教えてください」と看護師さんから頼まれたのだそうです。
脳梗塞で半身麻痺のこの巨漢の患者さんの移動は、その病院の職員にとってとても大変な作業で、数日前には移動を試みた看護師さんが腰を痛めて休職することになってしまっていました。まさに「病院で働く看護師に腰痛を起こさずに患者さんを移動させる方法を教える教員」の出番です。
しかし、これまで病院で働いたことのなかったお二人にとって、これは大きな試練でした。どうしようか、と考えて、まず「すみません。ベッドからこちらの椅子に移動していただけませんか? 私がしっかり横で支えますから」と頼んでみることにしたそうです。すると、それまでのケアの間、目を閉じて何も話さずじっとしていた患者さんが、目をあけて「ここからあっちへ?」と声をかけてくれました。「そうです。あちらの椅子に。私につかまってくださったら、しっかり支えますから」と答えたところ、その患者さんは体を起こし、ベッドから足をおろして麻痺のない方の足で立ち、腕をジネスト先生の体に回しました。それから二人はゆっくりと椅子の方へ進み、無事に椅子に座ることができました。
「ああよかった」とジネスト先生がほっとして振り返ったとき、看護師さんたちが驚愕してこちらを見ていたことに、驚愕したそうです。
「この患者さんの移動を、こんなにスムーズに行ったことは初めてです。」「一体どうやったのですか?」と看護師さんは次々に口にしました。
「では、普段はどのように移動しているのですか?」と尋ねたところ、いつもは看護師さんが四人がかりで彼を起こして、ベッドから椅子まで抱えて移動している、と言うのです。「私がやったようにご本人に頼んでみる、ということは今までなかったのでしょうか?」ともう一度尋ねてみると、「いいえ、一度も。この方は半身麻痺ですから」という答えが返ってきました。
そういえば、さっき体を拭く時に「じっとしていてくださいね」と言っていたな、とジネスト先生は思い出しました。自分たちは体育を教える時には「動きましょう!」と言うのが普通であるのに対し、病院では患者さんに「じっとしていてください」と言っている。
この患者さんは半身麻痺ですが、別の言い方をすれば「半身は健康」です。「何でもやって差し上げる」ケアは「その人は何もできない人」であると判断してしまっているからではないか。その人のできることに注目し、できるところは自分でやってもらって、難しいところだけを援助するというやり方は、もしかすると病院の中ではあまり行われていないのではないか。そうでなければ、自分が行ったことがこんなに驚きを持って迎えられることはないのではないか。
ジネスト先生とこの患者さん、看護師さんとの出会いは、その後40年以上にわたって実践されている「ジネスト・マレスコッティのケア技法『ユマニチュード』」の原体験です。誰かにケアを行う時に、何でも全部代わりにやってあげることが「良いケア」と思われがちです。私も診察をする時に、親切のつもりで相手のボタンを外して聴診をしたり、横になっている患者さんの手をご自分で動かすようにお願いしないまま、私が持ち上げて診察したりしたことがこれまで何度もありました。
ご本人ができることを、「よかれと思って」ケアをする人が代わりにやってしまうことは、本人の能力を徐々に奪っていく「相手を害する行為」であることを、ケアをする側が理解しておくのはとても大切なことです。ジネスト先生が話してくださったこのお話は、私にとっても忘れ得ぬ思い出となりました。