雨宿りの木

第28回

ノックはなぜ必要か

2023.10.30更新

 こんにちは。

 イヴ・ジネスト先生とロゼット・マレスコッティ先生は1979年に病院に招かれて、職員が仕事中に腰を痛めずにケアを行うにはどうすればよいか教えて欲しい、という依頼を受けました。二人は体育学の専門家で、患者さんの体をどうしたら腰に負担をかけずに移動させることができるかを教えるために病院に赴き仕事を始めました。二人の指導は単なる移動技術にとどまらず、「ケアをする専門職とはいったいどういう存在か」「人間とはいかなる者なのか」を考えながら、ケアを受ける人が常に自分に決定権を持ち続ける「自律」と、できることは自分で行う「自立」を実現させるための哲学と技術を創り出しました。そしてそのケアの技法を「ユマニチュード」と名付けました。

 ユマニチュードは数多くの施設や病院に導入されました。施設の管理者はユマニチュードを職員教育に導入することによって、施設内の雰囲気が良くなったこと、入居者・患者の満足度が向上したこと、職員が仕事を辞めなくなったこと、入居希望者や入職希望者が増えたこと、何より自分たちが誇りをもって仕事をすることができるようになったことなどを経験しました。そして、自分たちの施設が「良いケアの場である」ことを客観的に評価したい、という要望が生まれました。

「良いケアの場」の評価基準を作ろう、と2011年にフランスで始まったのが「ユマニチュード施設認証:Humanitude Label」です。ユマニチュード施設認証では、前回ご紹介いたしましたように5つの原則を満たしているかどうかについて、詳細な検証とケアの実践を評価します。

5つの原則とは

1: 強制ケアをゼロにする。しかし、ケアをあきらめない
2: 本人の唯一性とプライバシーを尊重する
3: 最後の日まで自分の足で立って生きる
4: 組織が外部に対して開かれている
5: 生活の場・やりたいことが実現する場を作る

です。

 この5原則のもとに施設や病院にいる方々が市民権を維持した生活ができる場になっているかどうかを評価するのがユマニチュード施設認証で、日本でも昨年度からこの制度が始まりました。今年最初のレベルのブロンズ認証を2施設が取得し、さらに現在27の介護施設や病院がブロンズ認証に取り組んでいます。

 取り組みを進める中で、さまざまな質問をいただくのですが、なかでも多いのがノックについてです。第13回「物語をつむぐケア」でご紹介いたしましたように、ユマニチュードではすべてのケアを5つの要素で構成されるひとつの物語として考えています。名前を①出会いの準備 ②ケアの準備 ③知覚の連結 ④感情の固定 ⑤再会の約束 です。

 ノックはこの①番、「出会いの準備」の最初の行動です。扉でも障子でも襖でも、ノックの音で自分の来訪を告げて自分が相手のプライベートな領域に入って良いかどうか、を尋ね、その返事を待つ、というのがこの出会いの準備ですが、このノックに多くの介護施設や病院の方々から多くの質問をいただきます。

図1.png

 典型的な質問は「相部屋に入る時もノックが必要ですか?」です。

 日本の多くの病院や介護施設では相部屋であることが多いため、4人の相部屋に自分が入る時には入り口ではノックをせず、部屋に入ってから目指す相手のベッドをノックするのはどうでしょうか、というご質問です。

 この質問には、人にとってプライベートな空間とは何かについて考えてみることから始めると良いと思っています。その施設が「相部屋はその部屋にいる人だけでなく誰もが自分の空間として振る舞える場であり、カーテンで仕切られた内側だけがその人のプライベートな空間である」と考えるのでしたら、相部屋は通路だから入り口ではノックをしない、通路に続くカーテンで区切られた空間のみがプライベートな場なのでベッドでノックをする、と説明はつくと思います。

 一方、私が喫茶店のテーブルでお茶を一人で飲んでいる時に、自分のテーブルの空いている椅子にいきなり誰かが座ったら、すごくびっくりします。それは、喫茶店のテーブルは私が座っている間は私のプライベートな空間になるからです。そこにいきなり誰かが現れたら驚きます。4人の相部屋であっても、それは4人で分かち合っているプライベートな空間です。そこに誰かが外から入る時には、「私が来ました。入っても良いですか?」と尋ねることは相手のプライバシーを尊重する行動です。実際私の病院で4人部屋に入る時にノックをすると自分が伺うのではない別の患者さんがお返事をしてくださることもあります。その時にはその方と「お部屋にお邪魔します」と少し言葉を交わしてから、目的の患者さんのところに伺います。ユマニチュードの5原則の2つ目「本人の唯一性とプライバシーを尊重する」がこれにあたります。

 自分たちの施設が「良いケアの場である」ことを実現するためにどうすればよいか、を施設の職員全体で考えること、そして自分たちの行動がどんな意味を持つのか、何が相手に伝わるのかを考えて行動を選択することがユマニチュード施設認証の基本だと考えています。

本田美和子

本田美和子
(ほんだ・みわこ)

国立病院機構東京医療センター総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長。1993年筑波大学医学専門学群卒業。内科医。国立東京第二病院にて初期研修後、亀田総合病院等を経て米国トマス・ジェファソン大学内科、コーネル大学老年医学科でトレーニングを受ける。その後、国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センターを経て2011年より現職、高齢者・認知症患者のケアに関する研究に従事。2011年より『ユマニチュード』の研究・日本への浸透を担い、2019年7月一般社団法人日本ユマニチュード学会を設立、代表理事に就任。

※一般社団法人日本ユマニチュード学会は、フランス生まれのケア技法『ユマニチュード』の普及・浸透・学術研究と会員間の相互交流を通じ、誰もが自律できる社会の実現を目指して様々な活動を行っています。会員としてご一緒に活動いただける方、会の趣旨に賛同してのご寄附など、随時募集しております。詳しくは、ウェブサイトをご覧ください。

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