雨宿りの木

第12回

マルチモーダル・コミュニケーション

2022.04.28更新

 こんにちは。

 これまで、自分が大切な人に対して無意識に行っている「見方」「話し方」「触れ方」を使ったコミュニケーションと、生理学的な効果だけでなく「自分がここにいる」ことを感じるアイデンティティとしての重要性をもつ「立つ」ことの合計4つの柱についてご紹介してきました。このユマニチュードの4つの柱は「あなたのことを大切に思っています」と伝えるための手段です。誰かと共にいる時、その瞬間瞬間に私たちは自覚していなくともたくさんのコミュニケーションをしていて、さらに人は体を起こしておくことでより多くの情報を得て、自分らしさを感じることができます。

 ケアを行う時にこの4つの柱はとても重要で、これなしでは相手と良い関係を結ぶことはできません。その一方で、「4つの柱が大切だと学んだので、正面から相手の目を見たのですがうまくいきませんでした」と相談を受けることがよくあります。

 うまくいかなかった理由はいくつか考えられますが、今回はその理由のひとつをご紹介したいと思います。たとえば、アイコンタクトは相手と社会的なつながりを生む行動ですが、アイコンタクトを受けた人が情動的な反応を起こすまでに必要な時間は0.5秒くらいで、さらに無言で誰かが自分を凝視していることを不快に感じるまでの時間はおよそ3.3秒と考えられています。つまり、アイコンタクトがメッセージとして成立するまでには0.5秒必要で、さらに相手に不快な気分が生じないように、目があって3秒以内に「見る」以外のコミュニケーション「話す」または「触れる」ことを始める必要があります。この「見ながら、話しながら、触れる」ことがマルチモーダル・コミュニケーションの基本です。「見る」「話す」「触れる」「立つ」ことを組み合わせることで相手にたくさんの情報を届けることができます。特に、認知症を持つ方は認知力や知覚が低下しているため 一般的な情報量では不十分な場合があります。このため、ケアを行う場合はコミュニケーションの3つのモード(見る・話す・触れる)を常に2つ以上使って、一貫性のあるポジティブなメッセージを提示する必要があります。

 優しいアイコンタクトをとりながら、心地よい言葉を交わして、腕を掴んで持ち上げて着替えを手伝う、という行動は実際にケアを行う時によくありがちです。ここで起こっているのは見る・話すことで伝わるメッセージはとても良いポジティブなものであるのに、3つ目のモード・触れるが強制的な動きによってネガティブなメッセージを送ってしまっていることで、相手が受け取るメッセージに不調和が生じています。このような矛盾した情報は誰もが戸惑いますし、特に認知症をもつ方にとっては混乱を招きます。自分が発しているメッセージに矛盾がないかどうか、考えながらケアを行う視点がケアをする人に求められています。

 また、複数の人が一緒にケアを行う場合にも注意が必要です。同時に複数の情報を処理するマルチタスク能力は年を重ねるとともに徐々に失われていきますが、特に認知症をもつ人は顕著に低下しています。 「話す」柱をたくさん使おうとしてケアを受けている人に2人以上が同時に話しかけると、与えられる情報が多すぎて本人は混乱します。そのため、ユマニチュードでは情報を出す人を1人に限る役割分担を提案しています。例えば、入浴ケアを行うときに「ケアをする人A」は本人の正面に位置してアイコンタクトを取り続け、同時に言葉によるコミュニケーションでケアを受ける人の注意を引きつけ 「ケアをする人B」は言葉を発せずに触れる技術を用いて体を洗うという役割分担です。この技術をユマニチュードでは「黒衣とマスター」と呼んでいます。

 もちろん、「ケアをする人A」と「ケアをする人B」がケアをしながら、次の休日の予定などの個人的な話や、別のケアを受ける人に関する相談を続けたりすることは、あたかもケアを受けている人の存在がないような振る舞いで、「ケアを受ける人が今ここにいる」ことに対する敬意が失われています。自分達の行動すべてが「あなたのことを大切に思っています」と伝えるための技術であることを意識することはとても大切です。

 さて、今後ご紹介できればと思っていることに、ユマニチュードに関する情報学・工学・心理学の専門家との共同研究があります。日本科学技術振興機構の研究費で運営されているこのチームは ユマニチュードがなぜ有効なのか、どうすれば効果の高い教育方法を開発できるか、などについて研究を進めています。

 その中のひとつに、ユマニチュード考案者のイヴ・ジネスト先生の触れる技術を搭載したロボットハンドの開発があります。まだとても単純な動きだけですが、背中を触れられた時、それが人の手かロボットハンドかを触れられた人は判別できないくらいの触れる技術ができあがりました。ケアにおける役割分担を「ケアをする人A」と「ケアをする人B」の組み合わせだけでなく、「ケアをする人A」と「ロボットハンド」の組み合わせができるようになれば、将来的には人が機械の助けを借りて「優しさを伝えるケア」を実現できる社会も誕生するかもしれません。

本田美和子

本田美和子
(ほんだ・みわこ)

国立病院機構東京医療センター総合内科医長/医療経営情報・高齢者ケア研究室長。1993年筑波大学医学専門学群卒業。内科医。国立東京第二病院にて初期研修後、亀田総合病院等を経て米国トマス・ジェファソン大学内科、コーネル大学老年医学科でトレーニングを受ける。その後、国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センターを経て2011年より現職、高齢者・認知症患者のケアに関する研究に従事。2011年より『ユマニチュード』の研究・日本への浸透を担い、2019年7月一般社団法人日本ユマニチュード学会を設立、代表理事に就任。

※一般社団法人日本ユマニチュード学会は、フランス生まれのケア技法『ユマニチュード』の普及・浸透・学術研究と会員間の相互交流を通じ、誰もが自律できる社会の実現を目指して様々な活動を行っています。会員としてご一緒に活動いただける方、会の趣旨に賛同してのご寄附など、随時募集しております。詳しくは、ウェブサイトをご覧ください。

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