ダンス・イン・ザ・ファーム2

第12回

暴力が、イヤなんです

2023.02.07更新

 「誰かの内面に入っていくこと」。そもそも「内面」ってなんだ? という疑問で前回を終えていた。「心の内側」というイメージで僕は使っていたのだけれど、イノシシには内面があるのかな。どうだろう。

 そういえば僕には、いつか刺さってなかなか抜けない、気になるトゲのような疑問がいくつかある。そのことが、いつも考えることを要求してくる。

 子どもの頃、いっとき登校がつらくて、家まで一目散に走って帰っていたこと。その気持ちを救ってくれた音楽の世界の果てで、音楽が聴けなくなって、演奏もできなくなったこと。移り住んだ島で、突然橋に外国船がぶつかる事故があって、そのときの揺れ動きが消えないこと。その延長線上に感染症がやってきて、人の心がぶつかり合ったこと。子どもがいっとき学校に行けなくなったこと。また、加害したほうがときに被害者だとしてふるまい、「どっちもどっち」と無効になってしまう、よくある傾向のこと。

 考えてみると、どれにもどこか共通することがあるように感じる。この共通のことが少しでもなくなればいいのに。
 ここには、「目に見えない形での暴力」があるのでは、と思っているのだった。

 「誰かの内面に入っていく」こと、いいかえると、極度の「余計なお世話」をしてしまうこと、これらは人としてやってはいけないことともっと了解されていいのでは? ということを考えた。
 この考えを進めていくと「どうして人は人を殺してはいけないのか」という問いにもたどり着く。どうしてなんだろう。それを考えていたら、先日読んでいたインド哲学・仏教哲学者の故・中村元さんの著書「自己の探求」にも、

 何故に他人の命を尊重すべきであるか?

 とストレートに問いかけられていた。

 そういえば仏教では、戒律の一番最初に「不殺生戒」が出てくる。これは人もそうだし、いのちあるものすべてが対象だ。

 「初期の仏教では、こう教えている」と中村元さんはいう。

 

 人殺すのはなぜいけないか。すべての人は生命を愛し、安楽を欲している。だから自己に思い比べて他人を殺してはならぬ。また殺さしめてはならぬ。自己を守る人は他の自己をも守る。それゆえに自己を守れ、という。

 そして「大乗仏教では」と続けて、 

 存在の究極にまで入って考えるならば、自己、他人というものは相互に連関限定し合って成立しているものである。他人があってこそ、自己というものが成立する。その両者の間には相互に依存する関係がある。おたがいに基礎づけ合っている関係がある。

 そこから、「『生き物を殺すなかれ』という不殺生が説かれる」。

これを踏まえた上で、僕は「どうして人を殺してはいけないか」についての自分なりの答えに行き着いた。それは「人それぞれの経験の機会を奪ってはいけないから」ということだった。この考えは、島に住む友人の苦しみ、遠方の友人の話、僕の親の悩みと議論、「社会人」とされる前の若い人のエピソード、僕の悲しかった出来事などを通って出てきたのだけど、もちろん、すでに多くの先人たちにも言われていることだと思う。そして、僕は物理的に命を取るという意味だけではなくて、見えない形の暴力についても及ぶと思った。
 自分が何かを経験することによって、自分の特性との間で摩擦が起こり、自らで考えることができたり、その特性が磨かれたり、それらを通して結果的に成長する。僕は極度に優柔不断だったのだけど、人と接触して摩擦してきたおかげでかえって慎重な選び方に自信がついて、変わってきた。

 死ぬまでずっと、生まれ変わることができる。そこに生きる喜びがある。そうなっているように思える。そういった機会を、本当は誰もが奪ってはいけないのではないだろうか。

 でもそうなると、何かの間違いで人の命を奪ってしまった場合や、自分や近くの人の身を守る場合は、許されないのだろうか。それに加えて、こういう「禁止」の言い方に対しては「ものが言えなくなった」「息苦しい」という声も出てきそうだ。
 なので逆にどういうことなら「肯定」されて、 どういう言葉が言えるかな? そのことの方を考えたいと思った。

 そうして至ったのは、「内面へ過剰に入っていくこと」ではなくて、「誰かの内面が引き出される」ことは肯定されるのでは? そう思えてきた。

 僕と誰かが会っていたときに、相手が話を聴いてくれるなあと思ったら、自然とこちらから言葉が出てきてしまう。そんな場面も多々あるように思う。子どもと向き合っているときにも、よくある。

 また、別の例では子どもたちは僕が何かをやり始めると必ずいったんは「やってみたい」という。ギターなんかは絶妙な存在で、子どもがいるところで弾いていたらすぐ「やってみたい」といってくる(僕としては若干触られたくないような気もしてしまうけど)。でも、「やってみたい」の一言から引き出される子どもの可能性は、果てしなく広がっている。

 人から引き出されること加えて「道具から」引き出されることや「食べ物から」「匂いから」など、いろいろなことがあり得そう。そして「建物から」引き出されることだってあると思う。
 僕が今、引き取ろうとしている集落の元・公民館も、ここでしか引き出されない何かが確かにあって、それを見てしまった。
 こうしてみると、いろいろな人や物が関わったすべての「場」というものに対していえそうだ。

 前回書いた"失踪気味"のときの山に登った僕は、そこにいる生き物や出来事から、僕の知らない内面が引き出された。山の側は僕に対しては余計なお世話もせず、ただ僕が自ずから変わっていった。そういう経験だったんだなあと思う。

 こんなことを考えていたら、先日ある友人と話ししていたときに全く別の文脈でこんな言葉があってハッとした。

 「立場によって引き出されることもありそう」

 なんと。たしかに、立場も「場」の一つかもしれない。上司という立場になってしまって引き出されてしまう内面。リーダーという立場から。大統領という立場から。それがもし暴力的なものであったとしたら。戦争・・・。
 たとえばもし仮に僕がここで「武器を持って戦え」といわれたら。「家族のために」とか「愛する人のために」とかいわれたら。

 僕がもしそういう力を行使できる立場になってしまったとき、そこで引き出された自分の内面に対抗できるだろうか。でも、何もそこまでの話でなくても、たとえば子どもの「親」になってしまっている今もきっと同じことだ。毎日その「立場」を問われている。

 「誰かの内面が引き出される」ことは、肯定できるのでは? と進めてきたけれど、「立場」から暴力的なものが引き出されるケースは、否定するべきなのかもしれない。これはどう考えたらいいんだろう。
 人間は、立場によって自動的に、ときに抗えない形で暴力が引き出されてしまう。そんなに無防備な存在なのかな?

 誰かの命に対して「過剰に余計なお世話」をする僕たちの内面なのかどうか。その観察がヒントを教えてくれるのかもしれない。傷つくこと、傷つけること。命のやりとりとは。今も考え中だ。

***

 最近、小1の息子と一緒にいると「あそこにトラップがあるよ」と教えてくれる。赤やピンクのリボンが木に結ばれているところに、イノシシを捕える罠が仕掛けられているのだ。その罠は増加中で、道路沿いなど割とアクセスしやすい場所で、ますます見るようになった。獣害に悩む地域で、運んだり捕えたあとの処置がしやすいようにという切実な思いが現れている。でも、子どもやわが家のヤギの目線でみると、その罠はちょっと怖い存在でもある。

 そうしてみると、このトラップが示す境界線はなんだか象徴的に思えるのだ。人の内面と獣の内面が表に出てきているように思えて。

 宮崎駿監督の映画「風の谷のナウシカ」で、目が赤くなった王蟲の大群が突進してくる印象的なシーンがあるけど、あれは王蟲の内面を傷つけられたことから起こった憎悪にも見える。前回までで「入植」のことを書いたけど、植民地の人たちはどうか。捕えられたイノシシはどうだろうか。

 逆に、畑ではいろいろな農法や考え方があって、それぞれの力が引き出される方法が試されている。人間にとっても、誰かの内面が引き出される場は、今すぐそこでもきっと実現できる。じっと静かに、ただそこにいるだけでも達成できることかもしれない。地味だから評価をされにくいことだけど。

 島に来た10年前、「集落に灯がついた」と言ってもらえて「いるだけで肯定される」ことなんてあるのかと思った。それはすごくうれしかった。そんな単純な喜びが、もしかしたら思った以上に足場になるのかもしれない。

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中村 明珍

中村 明珍
(なかむら・みょうちん)

1978年東京生まれ。2013年までロックバンド銀杏BOYZの元ギタリスト・チン中村として活動。2013年3月末に山口県・周防大島に移住後、「中村農園」で農業に取り組みながら、僧侶として暮らす。また、農産物の販売とライブイベントなどの企画を行う「寄り道バザール」を夫婦で運営中。2021年3月、『ダンス・イン・ザ・ファーム』をミシマ社より上梓。

「ダンス・イン・ザ・ファーム」の過去の連載は、書籍『ダンス・イン・ザ・ファーム』にてお読みいただけます!

編集部からのお知らせ

『ちゃぶ台10』に中村明珍さんの寄稿
「ボゴ・ダンス ーー日本語の話者としての」掲載!

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12/10(土)発刊『ちゃぶ台10 特集:母語ボゴボゴ、土っ!』に中村明珍さんによるエッセー「ボゴ・ダンス――日本語の話者としての」が掲載されています! ぜひお近くの書店でお手に取ってみてください。

『ちゃぶ台10』詳細

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