第1回
歩く速さで(前編)
2022.04.07更新
島と流行
僕はせいぜい家のリビングから数mくらいしか外に出られなかった。その範囲にヤギ小屋があってそこまではよしとした。ついに新型コロナウイルスによる症状が出て、僕たち家族、みんなで療養生活に入った2022年2月下旬。
本当は外に出てもいけないのだろうけれど、隣の家まで畑を挟んで少なくとも50mは離れているから大丈夫。でも、道路からは見えるのであまり派手に動きたくない。ほとんど感染者がいない島。毎日報じられる県内の陽性者の数字、「周防大島町3名」と出た日のそのうち2名は僕と妻、というぐらいだ。
突然の療養生活突入で、いつものように訪問される人に「家の中に入らないで」というのは二重に厄介なことに気づいた。一つは、ふらっと来た誰かに感染させたくないこと、もう一つは、うちが感染していることが大っぴらに知られること。日常では地域の人、友人、宅配の人・・・家に入ることが普通なのだ。
でも、当初とても心配していたことうちの一つは、杞憂に終わって心からホッとした。
両隣の人たちがとても優しく理解を示してくれたことだ。「知らせるか?」「知らないままのほうがいいんじゃないか?」と迷ったけど、でもよく野菜のお裾分けとヤギの「こむぎ」のエサを持ってきてくれる両隣のおうちの方に、やっぱり電話した。
「それは大変」「何か持っていこうか?」
いつものように冗談交じりの会話で理解を示してくれた。そのことに本当に安心した。お知らせしてよかった、と思った。
そして療養が終わった今も、驚くほど集落の中で感染の話は広まっていない。義理の母が「想像以上に誰も知らないのでかえってびっくり」というぐらいに。数年前に亡くなったうちの大カープファンのおばあちゃんはうわさの「拡声器」と呼ばれる人だったし、そういうネットワークはいいも悪いも含めて地域の特徴だ。なにかのときに知らせるネットワークなのだと思った。ウワサが増幅しすぎて根も葉もなくなり全く別の話に化ける、「あるある現象」は、かなりおっかないけど。
友人、とくに仕事で関わりのある人や職場関係、子どもたちの学校や保育園、そして宅配サービスの方々に絞って、連絡をした。特に学校は広い学区域で統合しているので、島全体にうわさが広まることが懸念された。だけど担任の先生はじめ子どもに関係する方々がとても配慮してくれて、ありがたかった。こちらも、今なお話が広まっていない。(なので自分でこうして記すのはどうなのかとも思ってしまう)
状況を知らせていた近所の友人の1人、このミシマガジンで連載している養蜂家の内田健太郎くんが、毎日のように連絡をくれて、食べ物の差し入れを玄関に置いてくれた。子どもたちも発症したのでご飯があまり進まず、「アイスが食べたい」というリクエストに即座に応えてくれた。なにより困ったのは、ヤギのこむぎの食事。いつもは一緒に散歩しながら草木を取ってくるのだけど、10日以上、それができないことに焦った。でも、その心配にも応えてくれて、こむぎの好みの葉っぱを軽トラでどっさり持ってきてくれた。
「えっと、例えばビワの葉っぱとか、あの、そこらへんに生えてるツタみたいなのあるのわかる? ツルみたいな、びよーんて伸びるタイプの草が何種類かあるんだけど、そうそう、よく見るやつ。どう? わかるかな?」と僕。
わからないよね。普段僕たちはヤギ目線で見ていない。名前をよくわかっていない草木も全部が全部食べるわけではなく、好みがあるので僕はそれを伝えた。そうして見事に持ってきてくれたのだ。さすが農家、頼れる人だ。逆の立場だったら、これは意外とハードルが高い相談だと思った。
ちなみに、こむぎは僕たちが発症している同じころ、いつもと全然違う様子で元気がなくなったのが不思議だった。全く鳴かず、全く食欲がない。便も変。初めてみる状態だった。あれはなんだったんだろう。
ほけん
陽性確定後、毎日保健所から電話がくる。1日1、2回、経過観察のためだ。これも当初想像していたよりもとても安心感のある対応で助かった。担当者も何人か変わっていたけど、皆さん言葉づかいが事務処理的では全然なくて、親身になってくれているトーンだった。これは精神的にかなりありがたく感じた。
ある日、いつもの経過観察の電話の直後に、違う番号からかかってきて電話に出た。
「〇〇です。ほけんの」
ちょっと間がたってから、誰からの連絡か理解した。保険屋さんだった。
実は新型コロナウイルスに感染する10日前に、僕は人生で初めて交通事故を起こしたのだった。しかも島内の目抜き通りで車同士、100%僕の不注意で、動転した気持ちで車の外に出ると、相手は知人の奥さんだった。本当に申し訳ない気持ちで、お互いケガもなかったのが幸いだった。知り合いから直後に「あそこ通ったけど交通事故? 大丈夫?」とメールがあったり、現場検証中に現場のとなりのガソリンスタンドから、状況を知らない店員さんがこちらに話しかけてきた。
「中村さん、お久しぶりです。私ですよ」
マスクを外してあいさつしてくださった方も知人だった。でも、僕はいま、事故を起こしたところで・・・そう伝える余裕がなくて苦笑いと目くばせしかできなかった。パニックなうなんです。
事故直前、本当は家に帰るなら左に行くところ、僕はこの日に限って右に曲がったのだった。1週間前に冒した交通違反の罰金18000円を支払いにいくためだけに。右折した。そしてぶつかった。
もっというと、さらにその2週間前にも実は違反で捕まっていた。
東京にいた頃にくらべ違反の頻度は格段に減っていたので、この短期間で2回もというのは正直「なにやってんだ自分」と落ち込まずにはおれなかった。そして2つの違反ともバイトがらみの道中で、お金を得るために車で出かけていき、そこで得るお金の倍以上の罰金を支払った。「バカか俺は」。自己嫌悪に陥った。「家にいて何もしてない一日が一番よかったのでは」と。どこにも移動しなきゃよかった。働くとは、なんだろうか。
いや、まてよ。ふと思った。
「お遍路をせよ。歩いて」
僕は僧侶だ。この流れはそういうメッセージなのではないか。だって、こんなこと、今までなかったし。
立て続けの2つの違反でさすがに自分に警告が発せられていたので、さすがにいつも以上に気をつけるようになっていた。だから、右折したときもかなり注意していた。自信満々で曲がった。そして事故を起こした。
・・・。
そしていよいよ「お遍路」という話なのだと、事故が一段落したあとに、思った。その10日後に今度は新型コロナが来たという話。
保健所と保険屋さん。なにも間髪おかずに連絡してくれなくてもいいじゃない。
感染
僕たちの療養生活開始前半の時期に、山口県における"まん延防止等重点措置"の解除があった。全国のなかでも今回は早い時点での施行で早く解除された模様だけど、この経緯はどこかで前にもみたような、デジャブ感。だけどここでは触れない。
療養生活が始まった初日に、保健所の方との感染経路についての会話になった。僕からは、
「家族としては、どこで誰からうつったのかわからないんです」
というと、保健所の方はやさしい口調で、
「そうなんです。もう蔓延しちゃっているので、わからないんですよね」
と電話越しに教えてくれた。すでに蔓延中。まんえんの防止とは、措置と解除とは、と思った。
4人の家族のうち最初のころ、1人だけ検査の結果が陰性だった人がいた。6歳の保育園児だ。1人だけ元気いっぱい。家のなかで走りまわる。パンチしてくる。エネルギーが有り余っている。でも濃厚接触者なので、社会には出れない。「できるだけ家庭内のなかで隔離を」という保健所の指導もあり、また大人2人はそれなりに症状が辛かったのでうつらないほうがいいかなと思い、がんばって家庭内隔離にトライした。
家の中でのマスク。1人での食事。1人で寝る。
これは幼児にはかなりキビシイことがすぐわかった。それでも、家族内ミーティングで「がんばってやってみよう」と2日間は本人も頑張った。でも、発症中の他3人は一緒に寝て、「ぼくだけひとりでねる」のは、普段川の字で寝ている家族ではだれもが違和感。
いっそのこと陽性・発症したほうが楽な上に、社会的にも「濃厚接触者で陰性」の場合は隔離の期間がめいっぱい長くなり、むしろ発症してしまったほうが短くなるということもわかった。
がんばっていたある日。僕が寝ていると、隔離部屋から彼がダッシュで駆け込んできた。
「ねえみてー! めちゃゆきふってるよ!」
あーマスクマスク、来るな来るな。わあ雪だ。めずらしいねえ。
「そりゃ言いたいわ」
僕も息子の気持ちがわかった。もういいよね。
そして次の日、彼も熱が出た。家族みんなでマスクなし、一緒にやっと寝れるようになった。
ワクチン非接種の子どもたちは、カーンと熱があがってそのあとスムーズに回復していった。大人ふたりはそれぞれ1回、2回。症状はけっこうズルズル長引いた。ワクチンを打ったからこれぐらいで済んだのか。打っても意味ないのか。何を引換えにしているのか。それに対する納得の感覚は、自分でその都度どれだけ考えたかに関わっていると思った。