一晩でなんとかなりすぎる

第26回

一日に玄米四合も

2026.06.26更新

 好むと好まざるとにかかわらず岩手県で生まれ育ったがために、宮沢賢治の遺した『雨ニモマケズ』の詩はもはやDNAレベルで身体に刻み込まれている。
 保育園の年長組だったころ、一歳年上の従兄が必死で暗記しているのを横で聞いていた。小学校で出されたチャレンジ課題だという。それが完璧に暗唱できれば、賞状だかバッジだかシールがもらえるとのこと。そんなことでちやほやされるなんて、小学生っていいなぁ、などと激しく妬んだものである。そのうちに、気づけば自分も覚えてしまった。
 正直なところ、宮沢賢治作品そのものについては、昔から今一つ上手く楽しめない。それについて考え始めると長くなるので今回はスキップするが、代表作とされる数々の童話に触れるたび、それらの通奏低音として流れるナイーブさがなんとなく肌に合わず、少なくとも子どものころの自分にとっては、それならば、たとえばロアルド・ダールの愉快痛快な世界の方が好ましく思われた。
 しかし大人になってから、『雨ニモマケズ』という詩の効能が、まるでスピリチュアルな伝説の薬のように、じわじわと胸奥に効いてくる。
 もう何年前からか、出勤の道々、ふいにこの詩が頭をよぎることがある。これは自分にとって、労働で死んだ気持ちを慰めるレクイエム的な存在、忍耐のためのお経、無心で唱えるマントラとして、重要なよすがになりつつあるのかもしれない。

 以前に働いていた職場での、ある思い出。
 その日の午後から、健康診断へ行くことになっていた。朝はいつも通りに出勤し、昼休憩のタイミングで職場を出て、健診会場へ移動、終わりしだい仕事に戻るという予定。
 健康診断も毎年恒例のイベントで、しょっちゅう受けているような気がする。だから、健診前は食事を抜くように案内されていることも知っていたし、さりとて、別に食べてしまったからといって、特に咎められないということも知っていた。「○時間前に食べました」と申し出ればそれで済む。心得ている。
 別にどちらでもよかったのだけれど、一応指示にしたがって、昼食は食べずに受診するつもりでいた。体重を少しでも軽く出したいという思惑もある。だから弁当を持たずに出勤した。
 午前中の勤務が終わり、さてそろそろ健診会場へ出発しようか、と休憩室で荷物をまとめていたところ、そこで昼食を取っていた先輩の一団に呼び止められる。
「佐藤さん、これから健康診断だっけ? 暑いから気をつけて行ってきてね」
 その日は朝からカンカン照りで、誰しも口を開けば「暑い、暑い」ばかり連呼してしまうような猛暑日であった。
「ありがとうございます、行ってきます」
 的なことを言って、そそくさと出ようとしていたのだが、いかんせん動作が遅いので、無駄にもたもたしてしまった。
 その隙に「あれ? そういえばお昼ごはんは食べたの?」と尋ねられる。
「あ、一応、食べてないです」
 文頭に無駄な「あ」をつけたり、余計な「一応」をつい口走ってしまうのが、会話下手ゆえの醜い悪癖であることは自覚している。
「そんな、こんなに暑いのに。お昼を抜いたら倒れるよ」
 時刻は14時くらいだった。だからまあ空腹ではあるけれど、正直、別に全然耐えられる。
「ここに〇〇さんが買ってきてくれた四国土産のおまんじゅうがあるから、食べていったら。これおいしいのよ」
 心配してそう言ってくれているのはよくわかっていた。それだけに到底言い出せなかったが、私は、甘い食べ物が嫌いである。
 なんなら餅も嫌いだしあんこも嫌い。まんじゅうなんて、この世で一番用がない食べ物である。
 ところが「そうそう、おいしいよ」「このくらい食べたって大丈夫」「ちょっと血糖値が上がるくらいで、佐藤さんまだ若いから影響ないよ」「それよりこの暑さで、何も食べずに移動する方が体に悪い」などなど口々に言われ、休憩室がにわかに盛り上がってしまった。
 そこまで強く勧められ、まさか断れるはずもなく。
「そうですよね! いただきます」
 などとヘラヘラし、結局、一つ食べてから行くことにした。正確には、アドバイスに従って食べる姿を見せた。
 ところが食べるのが遅いので、私がモッモッと嫌いなまんじゅうを食べているあいだに、先輩の集団はみんな部屋を出て行ってしまった。
 入れ違いで、別の先輩が一人、入ってきた。
 そして私の姿を見とめ、驚いたように言う。
「佐藤さん、これから健康診断でしょ? どうして食べてるの?」
 怒られた。
「午後から健康診断を受ける人が食事をしていいのは、朝の7時まで。案内にもそう書いてあったでしょ。ちゃんと読まなかったの?」
 読んだ。知っていた。
 だから食べないで行こうと思っていたけど、不運にも頭上から四国のまんじゅうが降ってきたのだ。避けられなかったからキャッチしたまで。まず甘いものは嫌いだし、測定前に体重が増えるのも嫌だけど、やむを得ず食べている感じです。
 という意味不明の状況を、この絶望的なコミュニケーション能力の低さで、うまく伝えられるはずもなく。
 結局、そんなに? というくらいしっかり注意された。なぜか偉い人に報告までされた。「佐藤さんが健康診断の直前にまんじゅうを食べていた」と広められる声を聞きながら職場を出た。
 げんなりしながら健診会場へ向かう道中、暑さでぼやける頭の中に、なじみの詩がゆらゆら浮かぶ。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ

 ありがたいことに体は丈夫な方である。だから別に14時まで何も食べなくても平気だし、でもまんじゅうを食べたからとて、健診結果に大きく差し障ることもないだろうと思う。
 どっちでもいい。なんでもいい。

 慾ハナク、決シテいかラズ

 この詩の一番好きな部分は、ここである。
 欲はなく。決していからず。
 実力、効率、成果主義の労働現場において、自分のような鈍く頭の悪い者がせめて握りしめられるポリシーは、このくらいしかないのではないか。
 認められたいとか、褒められたいとか、意見を聞いてほしいとかの欲を持たない。
 嫌だったとか、腹が立ったとか思わない。決して怒らない。
 ようにする。ようにする。もちろん、そんなことはできないのだけれど。
 
 先日も健康診断を受けた。それで、ふとこのことを思い出したのだった。
 今回はまんじゅうを食べずに済んだわけだが、体重は1キロ増えていた。
 社会人として不要な自我を削ぎ落して、削ぎ落して、削ぎ落したはずなのに、気持ちをなくして、なくして、なくしたはずなのに、なぜか体重は増えてしまった。
 ヤケクソな気分になって、今年の健診の帰りは、まっすぐ家系ラーメンを食べに行った。追加のライスまで注文した。
 貸し切りの店内、カウンターの隅に一人座って、思いきりずるずると麺をバキュームする。
 やっちゃったな、また太るな、と罪悪感を感じつつ、いや、でも賢治先生も、玄米四合食べてるしな、と謎の免罪符にちょっと救われる。
 
 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 食べすぎだろ。どう考えても。
 もちろん、賢治が、当時は超重労働であった農作業に日々従事し、かつ東北の農村では肉や油が手に入りにくく、だからエネルギー源の中心はほとんど米しかありえない、そういった彼の背景もあることを踏まえた上でも。
 それでも、一日に玄米四合は、やっぱり食べすぎだと思う。
 これについて考えるとき、宮沢賢治という人物を、チャーミングで素敵だと思う。
 削ぎ落して、削ぎ落して、削ぎ落して、それでもどうしても残ってしまう、その人ならではの極端さ。
 そこが面白味なのだと考える。どうしてもなくせない極端な個性を、たぶん、誰しもが持っている。
 ちょっと多すぎるかもしれないな、と思いながら味玉ラーメンとライスを注文したのに、結局、すっかり食べてしまった。おかげで、だいぶ元気になった気がした。
 一日に玄米四合も、しっかり、たっぷり食べていたからこそ、賢治は、終生ナイーブで居続けられたのかもしれない。
 みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず。苦にもされず。
 そのくせ、帰り道で家系ラーメンを食べ、挙句の果てにライスまで間食し、なんだかんだ満たされて帰る。
 翌朝、また、なんだかんだで出勤する。なんだかんだで、額に汗して働く。
 そういうものに私はなりたい。

佐藤ゆき乃

佐藤ゆき乃
(さとう・ゆきの)

1998年岩手県生まれ。立命館大学文学部卒業。第3回京都文学賞一般部門最優秀賞を受賞し、2023年にデビュー作となる小説『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を上梓。小説「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞2022を受賞。

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