朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第33回

受け身をめぐる冒険

2026.04.08更新

はじめに――あの日の雨に「降られた」衝

 筑波大学での留学生活が始まって間もない、ある夏の日のことでした。校内を歩いているところ空が急に暗くなったかと思うと、次の瞬間、バケツをひっくり返したような激しい雨が降り始めました。私は慌てて近くの図書館に駆け込みましたが、ほんの数秒の差で全身ずぶ濡れになってしまいました。ちょうどその時、同じように雨宿りをしていた日本人の女子学生が、空を見上げながら深いため息と共につぶやいたのです。

「ああ、やだ。すっかり雨に降られちゃった」

 その一言が、私の頭の中で奇妙な反響を起こしました。文字通り訳せば、「비에게 내려짐을 당해버렸다(雨に降られるという行為をされた)」となります。韓国語話者である私の感覚では、雨は自然現象であり、誰かの意志を持って「降る」という行為をする主体ではありません。ですから、「雨が降った(비가 왔다)」とは言っても、雨を主語にして自分がその行為の対象になる、という発想自体が存在しないのです。韓国語で表現するなら、「갑자기 비를 맞았다(急に雨に遭った)」あるいは「비 때문에 흠뻑 젖어버렸다(雨のせいでびしょ濡れになった)」となるでしょう。しかし、彼女は確かに「雨に降られた」と言いました。まるで、雨が明確な意志を持って、自分をターゲットにして意地悪をしてきたかのように。

 この些細な、しかし決定的な一言が、私を日本語の「受け身(受動態)」という広大で不思議な森への探検へと誘うきっかけとなりました。それは単なる文法項目の学習ではありませんでした。日本語を話す人々が世界をどのように捉え、出来事をどのように解釈し、そしてその中で自分をどのように位置づけているのか、その深層心理を垣間見る言語と思考の冒険の始まりだったのです。このエッセイでは、韓国語を母語とする一人の学習者として、そして言語と心理の関連性に興味を持つ一人の探求者として、日本語の受け身表現との出会い、その不可解さと面白さ、そして格闘の末に見えてきた日本語ならではの世界観について語ってみたいと思います。

1.「迷惑」という名のプリズム――被害の受け身

 日本語学習の初期段階で多くの韓国人がつまずくのが、いわゆる「被害の受け身」または「迷惑の受け身」と呼ばれる用法です。冒頭の「雨に降られた」もその典型例ですが、より日常的な場面でも頻繁に登場します。

 例えば、有名な例文に「弟にケーキを食べられた」というものがあります。これを韓国語に直訳すると「동생에게 케이크를 먹힘 당했다」となり、非常に不自然で硬い響きになります。通常、韓国語では「동생이 내 케이크를 먹어버렸다(弟が私のケーキを食べてしまった)」のように、能動態で表現するのがごく自然です。もちろん、この能動態の文でも、話し手が感じている残念な気持ちや不満のニュアンスは十分に伝わります。

 では、なぜ日本語ではわざわざ受け身の形を取るのでしょうか。ここに、日本語のコミュニケーションにおける重要な特性が隠されているように私には思えます。日本語の受け身は、単に「~される」という事実を客観的に述べているだけではありません。それは、その出来事によって自分がどのような影響を受けたか、特にネガティブな影響を被ったという的な感情を色濃く反映しているのです。

「弟がケーキを食べた」という能動態の文は、あくまで弟の行動を客観的に描写したものです。しかし、「弟にケーキを食べられた」と言った瞬間、文の主役は「ケーキを食べた弟」から「ケーキを食べられて迷惑した私」へと劇的にシフトします。あたかも、「迷惑」という特殊なプリズムを通して世界を眺めているかのようです。出来事の光がこのプリズムを通過すると、それは客観的な事実から、話し手の被害感情で色付けされた主観的な体験へと屈折するのです。

 この「迷惑のプリズム」は、様々な場面でその効果を発揮します。「隣の人に夜中に騒がれた」と言えば、単に隣人が騒がしかったという事実だけでなく、それによって「私は安眠を妨害された」という被害のニュアンスが明確になります。「子供に服を汚された」も同様に、「子供が服を汚した」という事実以上に、「だから私は困っている」という感情が前景化します。

 さらに興味深いのは、「みんなに笑われた」という表現です。韓国語では「모두의 웃음거리가 되었다(みんなの笑いものになった)」という言い方をしますが、これは少し回りくどい表現です。日本語の「笑われた」は、もっと直接的で、まるで「笑い」という行為が矢のように自分に突き刺さったかのような、鋭い痛みや羞恥心まで感じさせます。ここにも、行為そのものよりも、その行為によって自分が受けた心理的ダメージを告白するという、受け身の本質が見て取れます。

 この感覚は、韓国語には希薄なものです。もちろん韓国語でも「당하다(やられる、被る)」という単語を使って被害を表すことはできますが、それは交通事故に「遭う」や、詐欺に「遭う」など、より深刻で具体的な被害を表す場合が多く、日常の些細な不満を表すのに日本語の受け身ほど多用されることはありません。日本語を学ぶことは、この「迷惑のプリズム」を意識的に装着し、世界を「自分がどう影響されたか」という視点から再構成する訓練の連続なのです。

2.波紋のようにがる影響――間接受け身の不思議

 日本語の受け身の探検を進めていくと、さらに不可解で、しかし魅力的な領域に足を踏み入れることになります。それが「間接受け身」です。これは、行為が直接自分自身や自分の所有物に及んだわけではないにもかかわらず、何らかの形で間接的に迷惑を被った、と感じる状況で使われる表現です。

 学習時代、私が特に衝撃を受けた例文が「友達に夜遅くまで泣かれた」でした。これを初めて聞いた時、私の頭の中は「?」でいっぱいになりました。友達が泣いたのであって、私が「泣く」という行為をされたわけではありません。友達の涙が私に物理的に降りかかったわけでもないのです。しかし、日本語ではこの状況を「泣かれた」と表現できます。

 これは、韓国語の思考体系からはなかなか出てこない発想です。韓国語でこの状況を説明するなら、「친구가 밤늦게까지 울어서 곤란했다(友達が夜遅くまで泣いたので困った)」のように、原因となる事実(友達が泣いた)と、それによって生じた結果(自分が困った)を、二つの節を使って論理的に説明する必要があります。しかし日本語の「泣かれた」は、その二つの要素を一つの動詞句に凝縮し、聞き手に瞬時に状況を伝えてしまいます。

 この間接受け身は、まるで池に投げ込まれた石が起こす波紋のようです。石が水面に落ちた直接的な出来事(例:友達が泣く、隣人が騒ぐ)だけでなく、その結果として自分の心の水面にまで広がってきた波紋(迷惑、不快感)までをも、一つの構文の中に含んでいるのです。

 例えば、「赤ちゃんに泣かれると、何も手につかない」という文。赤ちゃんは私に向かって泣いているわけではなく、ただ生理現象として泣いているだけかもしれません。しかし、その泣き声が私の集中力を削ぎ、安らぎを奪う。その「迷惑の波紋」を捉えて、「泣かれた」と表現するのです。この表現は、話し手が状況に対して無力であり、コントロール不可能な外部の力によって影響を受けているというニュアンスを巧みに伝えます。

 この構文は、日本語話者の「共感」や「場の空気」を重んじる文化的な背景と深く関わっているのかもしれない、と私は考えます。自分の領域と他者の領域の境界線が、比較的曖昧なのです。他者の行動が、たとえ直接的でなくても、自分の心理的領域に侵入してきたと感じた時、それを敏感に察知し、言語化する。それが間接受け身なのではないでしょうか。自分は出来事の「傍観者」ではなく、常にその影響を受けうる「当事者」である、という世界観が根底にあるように感じられます。この感覚を身につけることは、単語や文法を覚える以上に、日本的な感性の核心に触れる経験だと言えるでしょう。

3.物に宿る意志?――無生物主語と態の受け身

 日本語の受け身の森のさらに奥深くへと進むと、今度は「物」がまるで生きているかのように扱われる不思議な光景に出会います。韓国語では通常、意志を持つ人間や動物しか主語になれないような文脈で、日本語では無生物が堂々と主語の位置に座り、受け身の形で語られるのです。

 その代表例が、「この本は多くの人に読まれている」という表現です。韓国語では「이 책은 많은 사람들이 읽고 있다(この本は多くの人々が読んでいる)」と能動態で言うか、「많은 사람들에게 사랑받고 있다(多くの人々に愛されている)」のように、「사랑받다(愛される)」という特別な単語を使うのが自然です。しかし、日本語ではごく普通の動詞「読む」を受け身にするだけで、この意味を表現できます。これは、視点が「読む人」ではなく、あくまで「本」に置かれていることを示しています。本が中心にあり、多くの人々からの「読む」という行為を受け続けている、というイメージです。

 この無生物主語の受け身は、まるで物に魂や歴史が宿っているかのような印象を与えます。「この寺は500年前に建てられた」「この歌は世界中で歌われている」。これらの文は、単なる事実の記述を超えて、寺や歌が長い時間を経て人々の営みを受け入れ、その結果として現在の姿がある、という物語性を感じさせます。

 そして、この無生物をめぐる謎は、「状態の受け身」でさらに深まります。これは、韓国人学習者にとって最も混乱しやすいポイントの一つ、「〜ている」との違いという難問を突きつけます。

「窓が閉まっている」と「窓が閉められている」。 この二つの文の違いを、私は長い間、明確に理解できませんでした。韓国語ではどちらも「창문이 닫혀 있다(窓が閉まっている)」と訳せてしまうからです。しかし、日本語ではこの二つは明確に区別されます。

「窓が閉まっている」は、単純に「窓が閉まった状態にある」という事実を客観的に描写しています。誰が閉めたか、いつ閉めたかには関心がなく、ただ現在の状態(state)に焦点が当てられています。

 一方、「窓が閉められている」は、その状態の背後にある誰かの意的な行の痕跡を示唆します。誰かは分かりませんが、誰かがその窓を「閉める」という行為をした結果として、今その状態が維持されている、というニュアンスが含まれるのです。そこには、人為的な香りが漂っています。例えば、部屋に入った時、窓が閉まっているのを見て「あれ、さっき開けておいたのに...」と感じた時、そこには「誰かが閉めたんだな」という推測が働きます。その心境にぴったりと合うのが「窓が閉められている」なのです。

 この違いを理解した時、私は日本語が世界の事象をいかに繊細に切り取っているかに感動しました。単なる状態なのか、それとも誰かの行為の結果なのか。その微妙な差異を、動詞の活用一つで表現し分けるのです。それはまるで、一枚の風景写真(閉まっている)と、その写真に写ってはいないが撮影者の存在を暗示する一枚(閉められている)の違いのようです。この視点を手に入れて初めて、日本語の風景はより立体的で、奥行きのあるものに見えてくるのです。

4.敬意という意外な姿――尊敬の受け身

 ここまで、受け身表現の「迷惑」や「人為性」といった側面に焦点を当ててきましたが、日本語の受け身は全く別の顔も持っています。それが「尊敬」の顔です。

「先生がこの本を読まれました」 「社長が会議に出席されました」

 これらの文では、受け身の形が相手への敬意を表す「尊敬語」として機能します。韓国語にも非常に発達した尊敬語のシステムがありますが、それは主に「-(으)시-」という接辞を動詞に付けることで表現されます。例えば、「선생님께서 이 책을 읽으셨습니다」のようになります。受け身の形を使って尊敬を表す、という発想は基本的にありません。

 そのため、韓国人学習者は、この「尊敬の受け身」に戸惑いを感じます。なぜなら、私たちがこれまで学んできた受け身のイメージは、被害や迷惑といったネガティブなものが中心だったからです。その同じ形が、今度は尊敬というポジティブな意味で使われる。それはまるで、ずっとハンマーだと思って使っていた道具が、実は精密ドライバーとしても使えると知らされたような驚きです。

 さらに混乱を招くのが、「~ていただく」「~てくださる」といった授受表現との使い分けです。「先生にほめていただきました」も「先生がほめられました」も、どちらも先生への敬意を含んだ表現ですが、ニュアンスは異なります。

「ほめていただきました」は、先生が「ほめる」という恩恵を私にえてくれた、という感謝の気持ちが中心です。視点はあくまで恩恵を受けた「私」にあります。

 一方、「ほめられました」は、「先生がほめるという行為をなさった」という、先生の行そのものを高めることに焦点があります。主語はあくまで先生であり、先生の行為を客観的に、しかし敬意を払って叙述する表現です。

 この使い分けは、非常に高度なコミュニケーション能力を要求します。自分が受けた恩恵を強調したいのか、それとも相手の行為そのものを立てたいのか。その場の状況や相手との関係性に応じて、適切な表現を選ばなければなりません。多くの学習者は、より分かりやすい授受表現に頼りがちですが、「尊敬の受け身」を自然に使いこなせてこそ、日本語の敬語表現の奥深さを真に理解したと言えるのかもしれません。被害から尊敬まで、これほど振れ幅の大きい文法機能を持つ受け身は、まさに変幻自在のカメレオンのような存在です。

おわりに――言葉の旅がえてくれること

「雨に降られた」という一言から始まった私の日本語受け身探しの旅は、いつしか、日本語そのもの、ひいては言語というものの本質を考える旅へと変わっていきました。

 日本語の受け身は、単なる文法規則ではありません。それは、日本語話者が世界とどのように向き合っているかを示す、一つの「認知フィルター」なのだと今は思います。それは、出来事を「誰が何をしたか」という客観的な視点だけでなく、「その出来事によって自分がどう影響されたか」という主観的な視点から捉え直す装置です。迷惑、被害、困惑、そして時には敬意や感謝。人間の複雑な感情や状況認識を、動詞の形をわずかに変えるだけで表現してしまう、驚くべき効率性と繊細さを兼ね備えています。

 もちろん、このフィルターを母語としない私たちが使いこなすのは容易なことではありません。能動態で考える思考回路を、意識的に受け身の回路に切り替えなければなりません。ケーキを食べられ、雨に降られ、赤ちゃんに泣かれ、先生にほめられる...。これらの表現を学ぶたびに、私は自分の頭の中に新しい引き出しを作り、そこに日本語的な状況判断の仕方を一つ一つ整理していくような、地道な作業を繰り返してきました。それは、ネイティブスピーカーが無意識のうちに行っている思考プロセスを、一つずつ分解し、再構築していく知的でスリリングな作業でした。

 そして、この旅は予期せぬ贈り物もくれました。それは、自分自身の母語である韓国語を、全く新しい視点から見つめ直す機会です。

 なぜ韓国語では「雨に降られた」と言わないのか。なぜ私たちは、原因と結果をより分析的に、別々の文節で説明する傾向があるのか。なぜ受け身表現の使用範囲が日本語より限定的なのか。これまで当たり前すぎて考えたこともなかった母語の輪郭が、日本語という鏡に映すことで、くっきりと浮かび上がってきたのです。それは、毎日見ているはずの自分の顔を、初めて精密な肖像画として描いてもらった時のような新鮮な驚きでした。外国語を学ぶことの真の価値は、単にコミュニケーションの道具を得ることだけにあるのではありません。それは、自分が生まれ育った言語と思考の「型」を相対化し、客観視する視座を与えてくれることにあるのです。

 今でも私は、日本語の受け身表現に出会うたびに、少しだけ立ち止まって考えてしまいます。この表現の裏には、どんな感情が隠されているのだろうか。話し手は、この世界をどのように感じているのだろうか。この小さな文法項目は、私にとって今もなお、日本文化と日本人の心の深淵を探るための、尽きることのない好奇心の源泉です。言葉を学ぶ旅は、すなわち、世界と人間を理解する旅なのだと、日本語の受け身は静かに、しかし力強く私に語りかけてくれているのです。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、猪瀬浩平著『野生のしっそう』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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