第28回
夏、ペンギンの姿焼き
2026.08.25更新
四季のうちで特に好きな季節というものは別にないと思う。それぞれの時期に、それぞれなりの良さを感じる。
そうはいっても、やっぱり夏は、なんとなく格別の風格を帯びているかもしれない。この季節が訪れることそのもののインパクトが大きく、どかーんと図抜けている感じ。これから目の前のすべてを覆すとんでもない革命が起きてしまうような、またあるいは、なにもかも取り返しのつかないほど遥か彼方の知らない場所まで、ぬるぬる流されていってしまいそうな、そういう底知れぬサイズの予感を連れてくる。
太宰治『斜陽』作中の「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら」という、大いなる含蓄を含んだ名台詞、これが人気なのも、なにしろ当該描写が想起させる色調のあざやかさによるものではないか。
受け手の「私」は、この呟きを「黙っておナスに水をやりながら」聞くわけだが、おそらくこの瞬間に彼女の内でわきあがったであろう初夏の実感、その鮮烈な感じに目が覚めるような感じがする。
お別荘を焼き尽くした火事のあかあかとした炎の色を思い出しつつ、きらきら透明な水を土にやる。目の前で揺れるナスの実のむらさき、その花は清廉に澄まして凛と咲き、頭上にはたぶん青い空がある。そこにはやがてかなしい橙の陽が滲み、時間の経過に晒されて、否が応なく暮れていく日々。
胸躍るとりどりの色彩が、たしかにあたりを明るくし、きっとこれから豊かになっていくであろう世界を、強引なまでに予期させる。けれどもそれは、はたしてどこまで信じられるだろうか。そもそも自分は、本当にまだ生きていたいのかしら、などという逡巡は正気の胸では抱えきれずに、気が付いたら生活の端々が荒み、いつの間にか退廃の道へ歩を進めている。
大敗。なんかもうどうしようもないなぁとか思う一方で、やけくそで冷やしたトマトやきゅうりなんかをかじりつつワンカップ大関をのんでいると、この豊満たわわな生命の季節と、大人になるにつれ着実にくたびれていく自分自身との対称性を、なんだか小気味よく感じたりもする。
強烈な日差しの生む陰影が濃いからか、変形していくもの、それによって失われてしまうものがやたら惜しい。一方で、いつまでも変わらないものたちの尊さもはっきりわかる。
たとえば、盆に決まって食べる煮しめの麩に染みた醤油味。祖母の家のサンルームに落ちる薄い影。仏壇の梨が放つ死のにおい。墓石の周りでうるさく飛ぶ虻。いまはもういない誰かの手を握った幼い日の記憶、その指の湿り気や弾力はどんなふうだったかを、やたら慎重に思い返したりもする。
なんだかそういう、慇懃でセンチメンタルなエア・ポケットにふと滑り落ちてしまう。夏ならではの超常的な引力は、ところどころでたしかに目に見える。ような気がする。
こんなに暗い性格なのに、水辺のレジャーを偏愛している。毎年この季節になると、もっとも暑い日を見計らって、いそいそと海やプールに出かける。
今年は、ずっと念願だった巨大プール施設へいってみた。
浮き輪やビーチボールはもちろん、プールサイドでのんびり過ごすためのテントにレジャーシート、アウトドア用の折り畳みテーブル、それから小さなクーラーボックスを持参した。かなりの大荷物になった。
平日であるにもかかわらず、さすがは夏休みシーズン、すさまじい混雑状態である。陣地をどこへ設けようかとしばしさまよって検討したが、日陰のエリアはもう完全に埋まりきっており、やむなくかんかん照りの一角にテントを張った。とはいえ流れるプールのすぐ脇だったので景観は申し分ないし、振り返るとすぐのところにフードショップもある。だからまあいいか、と満足した。
店に貼り出されたメニューを眺める。焼きそば、たこやき、クレープなど定番商品のほかに「ジャンボペンギン串」なる食べ物の広告が目を引いた。可愛らしいペンギンのシルエット型で、それとはっきりわかる形のまま、そっくり焼き焦がしたような茶色のビジュアルである。いわば姿焼きといえるだろうか、フォルムがあからさまにペンギンである分、なんだか不憫な気もするが、たしかにインパクトがある。
その日は狙い通りの酷暑で、あまりの暑さのため、プールサイドを踏む足の裏が瞬時に焼け焦げてしまいそうなほどだった。小粋な涼を求めてというよりも、いまこの瞬間に生命の保全を渇望するような、ひたすらに切実な気持ちで、目の前のプールに飛び込む。たちまちひんやりと全身を包んでくれる水の安らぎがたまらなく素敵であった。能天気なすいか模様の浮き輪に寝そべり、しばし水流のままに漂う。射すような陽の光が自分の体を一秒ごとに焦がしていくのがわかる。頭上には純青の空があり、そこにはいかにも堂々として頼もしい入道雲も鎮座していた。
ビビッドな色彩があんまり綺麗で、思わず目をつぶる。光も影もすべからく美しい。
夏ならではの荘厳な気配を、むき出しの肌で味わった。生死の境目がくっきりと克明に見える気がし、そのどちらも魅力的だと思う。どちらへ行ってもいいんだな、と平らかな気持ちで思うことができる。自分の頭が変になっているからそんなことを考えるのではなく、ただ、夏に誘われてそう思う。
正気はどこにあるのか。
流れるプールの水面を呑気に漂いながら、ふと『斜陽』のことを考える。
頭上に見えるあの恐ろしいウォータースライダーに、二時間近くも並んで乗って、前後不覚の激しい水流に揉まれ、極限の恐怖を味わいながら絶叫する人たちは正気であるのに、さんざん生きる場所を模索したうえで退廃し、酒と薬に溺れた直治という人物は狂気とされるのか。わざわざ可愛いペンギンのフォルムを忠実にかたどって、それを黒焦げに焼いた状態で食べてみようというアイディアは正気の産物か。母も弟も失って、はた目には不道徳な妊娠をしてまで、それでも生きようとしたかず子の選択は狂気であるのか。
そんな大仰なことを考えてどうする、と自分自身の思索の散漫さに呆れもする。東京サマーランドで過ごす愉快な夏の一日と、戦後まもない混迷の世に翻弄された没落貴族の憂いを重ねてなにになるのか。
目をすがめて空を見た。そして数秒後には、お昼はなにを食べようかなあ、などと考えている。この日の朝は、プールへ向かう電車を待ちながら、コンビニのおにぎりを一つ食べた。
『斜陽』といえば、これも好きな台詞である。「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」。そうして、自分の手で食べるのが一番おいしい、というお母さまの主張である。チャーミングで、人間らしくて、でもなんだか高潔な一本筋が通っていると思う。かくありたい。
続く「朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」という教えも、また良い。なにはともあれ、すっきり生きなければな、というような覚悟がすっと背骨を下りていく感じがする。
ところでペンギンの姿焼きは、かまぼこでできているらしかった。じゃあいいや、と思ったので食べなかった。これがもしもとり肉であったら、嬉々として食べたかもしれない。




