第14回
みかん畑を売ってください
2022.11.30更新
みかんの収穫と発送がはじまって、もうてんてこまいである。原稿が滞って、編集さんに「ごめんなさい」とメールを入れる。この連載もぎりぎりになって、ごめんなさい。
収穫だけで終われば何とかなるが、私達は販売も自分たちでしているので、荷詰めをしたり伝票もアナログに手書きだし、生ものなので到着の希望日を確認したりとかなり忙しい。子どもがいる姉も仕事終わりで手が空いていたら、ときどき手伝ってくれる。
でも、これだけ美味しい、美しい実りをおすそ分けできるというのは、嬉しいことだ。今年はここ数年で一番の豊作だった。
主任も東京から手伝いにきてくれた。主任は春にも数日、みかんのメンテナンスを一緒にしてくれたのだが、これが本当に大変な作業だった。
「3月から夏まで、もぐらの穴を埋めたり、肥料をやったりと頑張ったもんね」
「ほんとですねえ。応えてくれたんですね。嬉しいですね」
収穫時期ばかりがメディアにクローズアップされるけれど、これはその年の結果だ。収穫後からが本番だと思う。夏までにやることの方がはるかに多い。幹にマシン油を散布し、剪定をし、下草刈りは何度もするし、幹に巣食ったカミキリムシたちを退治したり、定期的に肥料をあげたりも・・・。無農薬栽培だけれど、放置して実だけ採っているわけではないのだ。そうしてようやく迎える秋。畑についたら美しいみかん色が畑を彩って、感動して涙が出そうになった。一つその場でむいて食べると、うわー!!なんて美味しいのだ。「ありがとう。がんばってよく成ってくれたねえ」私は、木に声をかけた。
だって、今年の春には、みんな葉っぱが黄色くなって落ちて枯れかけていたから、もう駄目かと思っていた。そこから、必死になって朝5時から母と、時に主任も来てくれて毎日根っこの保護を頑張った。山へ行って腐葉土を取ってきては、浅く木の周辺を掘って埋めてあげた。だから、きっと木々が応えてくれたんだ。気候に左右される作業ではあるけれど、同じくらい日々の観察や人の手も必要だと知った。
本格的に一ヶ月交代での二拠点生活がはじまって、1年が経った。いろんなことがあった。愛媛に帰ると言うとみんな「実家でゆっくりしてきてね」と言ってくれるが、東京の方が余程ゆっくりできる。東京に帰ると肩の荷がおりてほっとしている自分がいることもまた事実だ。近所のこと、作物のこと、畑チームのこと、家族のこと、土地のこと。私がやります!と勢いよく漕ぎ出した船だけど、すいすい行くことばかりではない。
今までの自分がとても自由だったと思える。海外に一ヶ月ふらふら行っていたのが遠い昔のようだ。やっぱり、自然のものを見守り自然から恩恵を受けて生きるというのは、それなりの覚悟もいることだと知った。
11月も終わろうとしていたある日、家のインターホンが鳴った。
「はーい」と私がでていくと、髪をオールバックにした60代くらいの男性が立っている。さっと私に名刺を渡すと、「お父さんいらっしゃいますか?」と言った。
その名刺には不動産会社の名前が書かれていた。心臓がざわつきはじめた。いかん、父に任せていては、これは多分いかん案件やぞ。
父を呼んで、私もしれっと話を聞いていることにした。
その男性は父に、「みかん畑の土地を売ってほしい」と言って、赤く色鉛筆で印をつけた周辺の地図を見せ始めた。
「この周辺一体を買いとろうと思っていまして。他の人の許可はもう得ているんです。あとは高橋さんだけなんです」
「太陽光パネルですか?」
と父は、言った。
「いえいえ。ここにね、親戚が鉄工所を建てようとしているんです」
父は、「ほう、鉄工所・・・」と言ったけど、売らないとは断言しない。
「高橋さんの畑は綺麗にされてますけど、辺りはほぼ耕作放棄地ですし、もうイノシシも出るし、大変でしょう? 手放されてはどうですか?」
「そうなんですよ。イノシシや猿も出るしで、どこも弱ってますよねえ」
おい、はっきりと売らないと言ってくれ、父よ!
「あのう。父から受け継いで私が中心でミカン畑をやっていまして」
「ほう。娘さんが。それでしたら動物のでない土地を他に探しますから、そちらに移ってもらえませんか」
「いえ、祖父が残した木だから私は守りたいと思っているんです。樹齢70年の木なんです。他の木では代替えができないんですよ」
「ほほー。でもねえ、みんな賛成してくれているんですよ。どうにか高橋さんにも売っていただけないと鉄工所が建てられないんですよ」
一向に引き下がらない。そして、父が口車に乗せられて、他の代替え地に新しい木を植えたらいいじゃないかと言い出して、私一人が責められる形になってきた。
みかんが何度も動物の被害に合い、父とネットを張りにいった矢先のことだったので、父の中ではもう手放したいという思いが強くなってきていたのだろう。
「いえ、でも私ねこのみかん販売もしてるんですよ。楽しみにしてくれている人もたくさんいるんです。そのためにメンテナンスも家族でしてきてたんです」
そう言っても二人には通じなかった。土地の所有者は父・・・。私が東京に行っている間に判子を押してしまえばおしまいである。
「みかんならどれでも一緒でしょう?」
と言われる。父も、一緒になって他のみかんでもいいだろう? と言い出す。ここまで美味しい木になるまで、何十年かかると思っている。父はこんなだから農業が全く面白いと思えないのだろう。
男性は、自分たちもミカン畑を持っていたが、抜いてショベルカーで穴をほって埋めたと言った。たとえ猿に食べられるとしても、私は今生きている木を切って埋めるなんてとてもできない。腹が立ちすぎて、ブチ切れそうだった。こういう時は母と姉だ。玄関での攻防戦を知らずに台所で料理をしている二人に、今こういう状況で大変だと伝えたら、一番おとなしい姉が出ていった。
「なに勝手なこと言ってるんですか。私達は土地は売りません。帰ってください!」
男性は、
「おお、この家は女性が強いんですね」
と苦笑いして帰っていった。姉の一撃がみぞおちに入ったのだった。でも、父が土地を手放したいというのが分かったから、また絶対に来るだろう。
くたくたに疲れた。土地の名義を早めに私名義に変更すべきだと思った。
さて、里芋の話で心をしずめよう。私は10月は東京月間だったのだけれど、徳島で行われる音楽フェスに出演していて、そこになっちゃんと、はるさんがチケットを取って見に来てくれていた。
「くみこさん、渡したいものがあるのでちょっと会えますか?」
そこに持ってきてくれていたものは、なんと里芋だったのだ。フェス会場に里芋を持ってきてくれる農業仲間を心底愛おしいと思った。
子供のころから、冬は飽きるほど食べてきた里芋だったが、こんなに美味しい芋は生まれて初めてである。自分が育てたからということではなく、つくづく作物は土の味なのだなと感じた。滑らかできめ細やかで、灰汁はなく、ふわっふわで、なにより蒸して塩だけで食べてもしっかりと芋そのものの味を感じられる。
私達チガヤ倶楽部で春、夏にお世話を頑張った里芋がこれまた豊作だった。みかんも無農薬だけど、里芋も無農薬・無科学肥料である。化学肥料なしでここまで大きな芋ができるとは感動的だった。近所の人たちも、あのぼさぼさの畑でこんな豊作だなんてと驚いている。
里芋は特に肥料食いと言われていて、トラック一杯の化学肥料をやらないといけないとも聞く。私達は全く化学肥料も動物性肥料もやってない。他の畑がしているようなマルチシートもかけずに草も夏場は集まって手刈りしたけど、わりと伸ばしていた。
よくあげたものと言えば、私達が刈った草や落ち葉をどんどん積み上げて、水と発酵堆肥少量とを混ぜ、ゾエが作ってくれていた腐葉土だ。これが、一年がかりで堆積させていたので、ふっかふかの上等な腐葉土になっていて、おっくんやゾエがときどきそれを里芋に混ぜてくれていたのだった。あと、母が米糠と納豆菌で作ってくれた発酵肥料も一回か二回はあげたと思う。あとは、夏場埋まっていた水路を復活させ、私は水かけをした。夜暗くなってからお墓の奥の水源地に行って用水路の水源を開けて、また閉める作業は臆病者の私にはかなり怖かった。おばけがというより、ハミ(方言・マムシのこと)が出てくるんじゃないかといつも肝を冷やした。
朝5時からみんなで「あげ中」(芋が土の上に出てくるので、溝の土をかいてかぶせていくこと)をしたのも、汗だくになって草引きをしたことも、全てがこの芋の中に込められている。
主任やおっくんと、芋を掘って、来年の種芋と販売用は冬を超えられるように、ビニールシートをかぶせていった。里芋さんの冬眠だ。里芋は南の食べ物なので、寒いと腐ってしまう。畝の上に米の籾殻をかぶせてやって、そこにナイロンをかぶせる。
とはいえ、まだ暖冬で全然寒くないけど、帰るまえにいろいろと準備を進めたのだった。
そんなチガヤ倶楽部と、高橋家のみかん・米のセットがこちらから買えるようになりました。
よろしくお願いします!!以上、畑に戻ります!
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