第36回
動詞としての「日本人」、共犯としての「外国人」
2026.07.13更新
はじめに――私はいつ「外国人」になるのか?
唐突ですが、皆さんにひとつ質問させてください。「私は一体、いつ『外国人』になるのでしょうか?」
こう尋ねると、おそらく多くの方はキョトンとして、こんな答えを返すことでしょう。「いつって・・・朴さん、何をおっしゃいますか。外国人であることなんて、生まれた時から、あるいは国境を越えた時から決まっているじゃないですか。日本国籍を持っていなければ、もれなく全員『外国人』です。もし見た目で判断がつかなければ、パスポートや在留カードを拝見すれば一目瞭然でしょう?」と。
確かにその通りです。法務省のデータベースの中や、入国審査のゲート前においては、それは絶対的な真理です。でも、私たちの日常は空港のゲートではありませんよね。私たちが、おでこに「外国産」というバーコードを貼って歩いているわけでも、すれ違うたびに国籍を証明するカードを水戸黄門の印籠のように突き出しているわけでもありません。
では、パスポートがカバンの底で深く眠っている日常の風景の中で、私たちが「あ、この人は外国人だ」と確認する、いや、確認「してしまう」魔法の瞬間は、一体どこに潜んでいるのでしょうか? 国籍というプラスチックのカード以外に、私たちが互いを「日本人」と「外国人」として仕分けする決定的な方法があるのでしょうか。
この謎を解き明かすために、まずは私の白状から始めさせてください。私は韓国出身の日本語学習者であり、現在はここ『ミシマガジン』で「朴先生の日本語レッスン」という連載を担当している「独立研究者」です。しかし、これから皆さんに提示したいのは、国籍やDNAの配列といった、お役所的でスタティック(静的)な事実ではありません。
かつて、ハーヴィ・サックスという天才的な社会学者がいました。彼は、私たちが毎日何気なく交わしている「日常の会話」を顕微鏡で覗き込み、その言葉の裏側に潜む巨大で精巧な社会構造をすっぱ抜いた人物です。彼が遺した「エスノメソドロジー」という魔法のメガネをかけて世界を見渡すと、当たり前の風景が驚くべき姿に変貌します。
彼によれば、「アイデンティティ」とは、頭蓋骨の中に最初から鎮座している削り出しの石像のようなものではありません。それは、その場のやり取り(相互行為)という泥臭い現場で、私たちがせっせと汗水を流しながら「達成(achievement)」し続けている、極めて動的なプロセスなのです。
つまり、「日本人」というのはあらかじめ固定された名詞ではなく、「日本人をする(doing Japanese)」という『動詞』なのです。それと同じように、私が日本の方と接する時、私はただ黙って外国人でいるのではなく、極めて自覚的に、時に巧妙に「外国人をしている(doing Foreigner)」のです。
ここで誤解しないでいただきたいのは、これがフロイトが言うような「無意識」の暗闇で行われている、という意味ではないということです。私たちは決して、夢遊病者のようにアイデンティティを演じているわけではありません。
少しばかり「メガネ」の話をしましょう。 私は普段、メガネをかけて生活しています。当然ですが、私がこの世界の美しい景色や、居酒屋のメニューを見ている時、私は「メガネ越し」にそれらを見ています。しかし、私が「メガネそのもの」を見つめているわけではありません。もし私が常にレンズのふちやノーズパッドばかりを凝視していたら、電柱にぶつかってしまうでしょう(メガネが見えるようになるのは、レンズにラーメンの汁が飛んで汚れた時だけです)。
では、私はメガネをかけていることに「無意識」なのでしょうか? もし誰かが突然、私の目の前に現れて「おい、君の鼻の上にプラスチックとガラスの塊が乗っているのを知っているか?」と聞いてきたら、私はこう答えるでしょう。「もちろん知っているに決まっているじゃないか! 私の体の一部だよ」と。
「エスノメソドロジー」が鮮やかにすくい上げる私たちの「方法(メソッド)」とは、まさに今、あなたが掛けている「メガネ」のようなものです。ガーフィンケルが「seen but unnoticed(見えているのに気づかれない)」と看破したように、メガネのフレームは常に視界の端に映り込んでいる(seen)にもかかわらず、あまりに当たり前すぎて、私たちはその存在をすっかり忘れて景色を眺めています(unnoticed)。
「日本人をする」、あるいは「外国人をする」。私たちはこうしたアイデンティティという名のメガネを、日々の暮らしの中で驚くほど精巧に掛けこなしているのです。決して、社会という名の舞台で台本も知らずに踊らされる哀れな操り人形などではありません。むしろ、自分という存在の輪郭を、時に汗をかきながら、しかし涼しい顔で器用に演じきっている、したたかで巧妙な「日常の職人」なのです。
その「即興劇」の、とある典型的なワンシーンをご覧に入れましょう。
それは今年の1月末、神戸での出張を終えた私が、群馬県は前橋市へと足を伸ばした時のことです。北関東の乾いた風に身を縮めながら、宿泊先のすぐ向かいにある、赤提灯が手招きする居酒屋の暖簾をくぐりました。
そこには、旧知の仲であるTさんと、その紹介で「初めまして」と挨拶を交わすFさんという、社会学的に最も食欲(と知的好奇心)をそそられる距離感のメンツが揃っていました。
冷えた身体を温めようと注文した熱燗や、ジョッキの結露がテーブルを濡らし始める頃。Tさんと私の親密そうなやり取りを横で見守っていたFさんが、頃合いを見計らったように、あの「黄金の審判」を下しました。
「いやあ、それにしても朴先生。日本語、めちゃくちゃお上手ですね! 正直、そこらへんの日本人よりずっと正しい日本語を話されていますよ」
さあ、ゴングが鳴りました。待ってましたと言わんばかりの、アイデンティティ建設工事の着工合図です。 このセリフ、Fさんにとっては「最大限の敬意を込めたウェルカム・ギフト」でしょう。しかし、サックスのメガネをかけた私の目には、それが居酒屋のカウンターに突如として現れた「国境線」に見えてしまうのです。
ここで私が「そうでしょう? 私は日本語のプロですから」なんて、空気の読めない正論を振りかざしてしまえば、それまで美味しくいただいていたモツ煮込みの味も一瞬で砂を噛むようなものに変わってしまうでしょう。会話の交通刑務所に直行です。
私は熟練のスタントマンのように、脳内の「謙遜フォルダー」から、長年の修行で磨き上げたあの定型句をシュッと取り出し、光の速さで打ち返しました。
「あはは、とんでもないです! まだまだですよ。今でも辞書と格闘しながら、猛烈に勉強中なんですから」
この私のセリフを聞いて初めて、Fさんは「ああ、正解のカードが返ってきた」という安堵の表情を浮かべ、予定調和のラリーを完成させます。 「いやいや、ご謙遜を。本当にすごいですよ」
この一見、微笑ましく美しいピンポン。しかし、エスノメソドロジーの冷徹なレンズを通すと、そこにはスリリングな「共犯関係」が浮かび上がります。 彼らが私を「日本語が上手だ(日本人より上手だ)」と褒めるその瞬間、彼らは無意識に「日本語の正当な評価者(=オリジナルの日本人)」という高い席に座り、私を「評価される対象(=後天的な学習者)」の席に座らせているのです。「上手だ」という称賛こそが、パラドキシカルに「あなたは私達(ウチ)ではない」という境界線を鮮やかに引く行為となります。
・・・いや、ちょっと待ってください。今、私がさらりと口走った「無意識に」という言葉、ここで潔く前言撤回させてください。
なぜなら「無意識」という言葉は、思考をサボるにはもってこいの非常に「便利」な言葉だからです。しかしその便利さゆえに、私たちが織りなす複雑で泥臭い生の営みや、人間関係のヒリヒリとした機微をまるごとブラックボックスに放り込んでしまう、ひどく「解像度の低い」レンズでもあります。彼らは決して、催眠術にかけられて白目を剥きながら私を褒めているわけではありません。
ここでこそ、冒頭で触れたあの魔法の概念の出番です。そうです、彼らは「無意識」に境界線を引いているのではなく、まさに「seen but unnoticed(見えているのに気づかれない)」状態にあるのです。
自分たちが「評価者」のふかふかなソファにどっかりと座り、目の前の私を「日本語学習者」のパイプ椅子に案内しているという事実は、彼らの視界の端に確実に入っています(seen)。ただ、それが毎日空気を吸って吐くのと同じくらい、あるいは使い慣れたお箸で豆腐を崩さずにつまむのと同じくらい、あまりにも滑らかで熟練した「日常のメソッド」になり果てているため、その行為が放つヒリヒリとした権力性に自ら「気づいていない(unnoticed)」だけなのです。
どうでしょう。「無意識」という便利なブラックボックスを捨てて「seen but unnoticed」というレンズに付け替えた途端、お互いに笑顔で褒め合うというハートウォーミングな風景の裏に潜む、あの息詰まるような境界線引きのダイナミズムが、一気に4Kの超高解像度で浮かび上がってきませんか?
そしてさらに残酷なのは、私が「いえいえ、まだまだです」と謙遜の笑みを浮かべるその瞬間、他ならぬ私自身がその境界線に深く頷き、それをより強固なものへと「強化」してしまっているという事実です。私たちは、カチンと氷の鳴るハイボールグラスを片手に和やかに談笑しながら、その実、水面下では「日本人」と「外国人」というカテゴリーを、その場の相互行為(やり取り)を通じて必死に、そして見事なまでの共犯関係で共同「達成」しているのです。
しかし、ここで一度想像してみてください。もし私がこの「即興劇」の台本を完膚なきまでに破り捨て、熟練の俳優ではなく「舞台荒らし」に変貌したらどうなるでしょうか。
相手が「日本人より日本語がお上手ですね」と微笑んだ瞬間、私が「まだまだです」という謙遜のカードを捨て、代わりに「いやあ、Fさんこそ日本語が本当にお上手ですね!」というカードを、満面の笑みで相手に突き返してみるのです。
さあ、その瞬間の相手の顔を想像してみてください。おそらく、まるで「透明な壁」に激突したパントマイム芸人のような、あるいは最新のAIが論理矛盾を起こしてフリーズしたような、何とも言えない奇妙な空白がその場を支配するはずです。
このとき、エスノメソドロジー的な視点で見れば、居酒屋のテーブルの上では「アイデンティティの地殻変動」が起きています。 私が「あなたも日本語が上手ですね」と評価を下した瞬間、私は「評価される外国人」という席から勝手に立ち上がり、あろうことか「日本語の正当な所有者」の席へと土足で踏み込んだことになります。そして、本来「評価者」であったはずの相手を、無理やり「評価される側」のリングへと引きずり込んだのです。
これは、テニスの試合中に突然ラケットを捨てて、相手に「ナイス・サーブ!」と観客のような声をかけるようなものです。試合(相互行為)は成立しなくなり、相手は自分が「日本人である」という、昨日まで疑いもしなかった自明のアイデンティティが、一瞬にしてグラグラと揺らぐのを感じるでしょう。
「外国人」が「日本人」を日本語で褒める――。 この一見シュールな逆襲は、私たちが必死に維持している「日本人/外国人」というカテゴリー化の実践がいかに脆く、そしていかに「お互いの合意」という薄氷の上に成り立っているかを暴き出します。私が「外国人」でいられるのは、相手が私を評価し、私がそれを受け入れているという、この奇妙な共犯関係が継続している間だけなのです。
もちろん、私がそこで「いやいや、山田さんこそ日本語お上手ですね」なんていう見事な「禁じ手」のカウンターパンチを繰り出したとしても、飲み会の空気が一瞬にしてシベリアの凍土と化すわけではありません。私たち人間は、そんなヤワな存在ではないからです。
おそらく一瞬のポカンの後、「いやいや、俺日本人だから!」という爆笑のツッコミとともに、見事な「修復(repair)」が行われるはずです。脱線しかけた会話の列車は、笑いという潤滑油によって瞬時にレールの上へと戻され、結果として「日本人」と「外国人」という境界線は、冗談というオブラートに包まれてより一層しなやかに、そして強固に再構築されるのです。
この、息を呑むほどアクロバティックな関係性の立て直しこそが、エスノメソドロジーの醍醐味であり、私たちが日々実践している「人々の方法(メソッド)」の途方もないダイナミズムなのです。だからこそ私は、今日もハイボールのグラスを傾けながら、この愛すべき泥臭い共犯関係の舞台に立ち続けているのです。
「なんだ、結局は『日本人』と『外国人』という決められた枠組みに囚われているだけじゃないか」と、もしかすると少し息苦しく感じられた方もいるかもしれません。しかし、どうか安心してください。私たちがこの「即興劇」の裏側に潜むルールに気づき、エスノメソドロジーという名のメガネをかけて世界を見渡し始めたとき、その風景は色あせるどころか、むしろ鮮やかに一変するからです。
退屈に見えていた当たり前の日常が、実は私たち一人ひとりが汗をかきながら紡ぎ出す、息を呑むほど高度な駆け引きと、しなやかな創造性に満ちた「パフォーマンスの連続」であったことに気づくはずです。今日もこうして世界のあちこちで、乾杯の音とともに新しい舞台の幕が上がっているのですから。
さあ、居酒屋のテーブルを離れ、さらに深い日常の迷宮へと潜り込んでみましょう。 どうぞ、この知的な冒険の最後までお付き合いください。
1.ファミリーマートの正午、「非流暢さ」という共同作業
舞台は、日本のどこにでもあるファミリーマート。時刻は正午、レジ前には昼食を求める人々の静かな熱気が漂っています。お腹を空かせた私(客)と、アルバイトの日本人店員(Aさん)との対決です。
ターゲットはレジ横の黄金色に輝く「ファミチキ」。私の日本語レベルはそこそこ高いと自負していますが、このレジ前の数秒間には、目に見えない「アイデンティティの綱引き」が存在します。
私:「あ、えーっと、これ、お願いします」(指をさす)
店員A:「・・・はい、ファミチキですね。・・・あのー、袋、い・り・ま・す・か?」(ゆっくりと、一音ずつ区切って)
ここで何が起きたのか、スローモーションで再生してみましょう。 私が発した「あ、えーっと」というわずかな躊躇(ためらい)。店員Aさんは、この数ミリ秒の隙間に潜り込み、瞬時に「この客は日本語が不自由なカテゴリーの住人である」という審判を下しました。
その結果、Aさんはプロのコンビニ店員が誇る「高速スキャン・プロトコル」を即座に破棄しました。そして、まるで道に迷った幼稚園児に語りかけるような、あるいは異星人とファーストコンタクトを図る言語学者のような「過剰な丁寧さ」へとシフトしたのです。
この瞬間、私は見事に「守られるべき外国人」として達成され、Aさんは「慈悲深いホスト社会の代表者」として達成されました。私の「わずかな非流暢さ」というエサに、Aさんが「配慮」という名の網を投げた。この鮮やかな共同作業によって、私たちはそれぞれの役柄を完璧に即興で演じきったのです。
1.5.壊れたレコードと「マニュアルの要塞」
しかし、アイデンティティの構築現場では、これとは真逆の奇妙な「事故」も発生します。私の知人である、日本語を全く解さない韓国人観光客(Bさん)が体験した、ある種ホラーに近いエピソードをご紹介しましょう。
Bさんが同じようにコンビニのレジに立った時のことです。店員の若い女性は、Bさんが一言も日本語を発していないにもかかわらず、まるで自動音声装置のスイッチが入ったかのように、こう問いかけました。
店員:「レジ袋、ご利用になりますか?」
Bさん:(・・・? 何を言っているのか分からず、ただ遠くを見つめる)
店員:「レジ袋、ご利用になりますか?」(全く同じトーンで)
Bさん:(無言のまま、困惑の表情を浮かべる)
店員:「レジ袋、ご利用になりますか?」(一ミリも譲らず、三度目の再生)
Bさんは後に、「韓国の店員さんの方が、表情やジェスチャーで伝えてくれるから親切だ」とこぼしていました。 この状況を分析すると、先ほどのAさんとは対照的な、日本的な「アイデンティティの固執」が見えてきます。
この店員にとって、目の前のBさんが「言葉が通じない外国人であるか否か」は、重要ではありませんでした。彼女にとっての正義は、自分を「マニュアルを完璧に遂行する店員」というカテゴリーに閉じ込め続けることだったのです。
彼女は、Bさんの「沈黙」という強烈な非流暢なシグナルを、意図的に無視(ignore)しました。あるいは、彼女のメガネには「日本語が分からない人間」というレンズが存在せず、「まだ私の問いかけが届いていない顧客」という単一の像しか映っていなかったのかもしれません。
彼女は、壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返すことで、「私は変わらず店員であり続けるから、あなたも早く適切な客(袋の要否を答える存在)になりなさい」という無言の圧力をかけていたのです。
ここでは、相手に合わせる「共犯関係」すら拒絶されています。店員は、相手が誰であろうと「日本人向けの標準プロトコル」という要塞から一歩も出ようとしませんでした。Bさんが感じた「不親切さ」の正体は、相手を人間としてではなく、マニュアルのチェック項目として処理しようとする、この徹底した「役割の死守」にあったのです。
2.YouTubeのバグと「所有権」のクーデター
サックスの「魔法のメガネ」をかけると、YouTubeの画面もカテゴリーをめぐる激しい戦場へと変貌します。最近よく見かける、「日本語がペラペラの外国人が、日本の政治について激論を交わす動画」を思い出してみてください。
通常、サックスのいう「成員カテゴリー化装置(MCD)」の中には、「カテゴリー」と「それに結びついた活動」がセットで入っています。「赤ちゃんは泣く」「外国人は日本語を間違える、箸の使い方を褒められる」といった具合です。これが世間の「常識」という名の台本です。ところが、画面の中の外国人はこう言います。「今回の高市氏の発言ですが、派閥の論理からすると・・・」
これを見た視聴者のコメント欄には、「日本人より日本語うまいww」「正論すぎて草」といった言葉が並びます。ここで視聴者の脳内には、一種の「認知的なバグ(不協和)」が発生します。彼らは「名誉日本人」という緊急避難的なサブカテゴリーを発明して、このバグを解消しようとします。
ここで注目すべきは、単なる流暢さの問題ではありません。そのYouTuberは、「政治」という、本来なら「その国の国民(主権者)」が語るべき「所有権のあるトピック」に土足で侵入しているのです。テレビの中の外国人留学生には「日本の四季」を語らせ、深い解釈に踏み込もうとするとさらっと話題を変えてしまう、そんな見えないガイドラインを彼は蹴り飛ばし、「解説者」の席に座ってしまった。これは、日常のカテゴリー秩序に対する「相互行為におけるクーデター」です。「日本人であること(doing Japanese)」という特権を、パスポートを持たない人間が鮮やかに奪取してしまった瞬間なのです。
3.アサヒ・スーパードライと「日本語の所有権」争奪戦
次に、夜の居酒屋。アサヒの「辛口」をこよなく愛する韓国人旅行系YouTuberの事例です。キンキンに冷えたジョッキを喉に流し込んだ彼が、感嘆の声を上げます。
YouTuber:「うわぁ、やっぱりこのビール、本当に『辛い(Karai)』ですね! 最高です!」
店員:「あー、ありがとうございます。『辛口(Karakuchi)』ですね。キレがある、ってことですね」
さて、この数秒のやり取りの中に、見えない火花が散っているのが見えるでしょうか。 韓国人YouTuberが、自らの味覚を表現するために「辛い(Spicy/Hot)」という言葉を転用した瞬間、店員という名の「言語の番人」が即座に介入しました。
ここで店員が行ったのは、単なる語彙の修正ではありません。彼は「日本語の正しいラベルを貼る権利は、ネイティブである自分にある」という特権を、電光石火の早業で行使したのです。店員は、YouTuberが放った「辛い」という野生の表現を、「辛口」という既定のカテゴリーに力強く引き戻し、さらに「キレ(Kire)」という日本特有の美学的概念を上乗せしました。
これこそが、エスノメソドロジーで言うところの「カテゴリー化の装置(Membership Categorization Device)」の作動です。 店員は、この一言によって自分を「教える日本人(所有者)」に、そしてYouTuberを「教わる外国人(門外漢)」というポジションに鮮やかに固定しました。YouTuberがどれほどフォロワーを持つスターであっても、この居酒屋という劇場において、彼は「正しいビールの褒め方を知らない生徒」へと格下げされたのです。
もちろん、この店員に悪気はありません。彼は親切心から「正しい日本語」を添えてあげたつもりでしょう。ハロルド・ガーフィンケル(Harold Garfinkel)が説くように、こうした相互行為のルールは、通常 「見えてはいるが、気づかれない(seen but unnoticed)」 状態で機能しています。
それはまるで、私たちが重力を意識せずに歩いているのと同じです。店員もまた「日本人という重力」に従って、言葉の秩序を守ろうとしたに過ぎません。しかし、その「親切な修正」の裏側では、言葉の所有権をめぐる非対称な権力構造が、まるで居酒屋の割り箸のように再生産されているのです。
もしここでYouTuberが、「いや、私の喉には確かにカプサイシンのような『辛さ』が走ったんです!」と反論したなら、その場に構築された秩序は崩壊し、店員は「話の通じない外国人」という次のカテゴリーを準備したことでしょう。私たちはこうして、一見何気ない「ビールの注文」というやり取りの中でさえ、互いのアイデンティティを絶え間なく監視し、構築し合っているのです。
しかし、この無意識のカテゴリー化が、時にむき出しの暴力や差別を伴うことがあります。コミュニケーションが円滑にいかなくなった際、人は往々にして「外国人」というカテゴリーを、相手の非を決定づけるための強力な武器として持ち出すからです。
4.『高橋留美子劇場』に見る、カテゴリー化の残酷なリアリティ
このメカニズムを鋭く描いた作品として、漫画家・高橋留美子先生の短編『君がいるだけで』を検討してみましょう。主人公の堂本さんが、病気の妻に代わって弁当屋でアルバイトをする物語です。その店には、留学生のアルバイト「アッチャラーさん」がいます。次の場面は、アッチャラーさんと一人の客との会話です。
客:「唐揚げ弁当15コ。急いで!」
アッチャラー:「唐揚げ弁当15個でース」
客(携帯電話が鳴って出る):「あ、センパイ。今頼んでます、唐揚げ弁当。え... カレー弁当だっけ?」
ア:「唐揚げ弁当でース(唐揚げ弁当を差し出す)」
客:「え? おれ、カレーって言わなかった?」
ア:「唐揚げでース」
客:「言ったろ、カレーって! 変えろよ、カレー弁当に!!」
客側が明らかに約束を破っています。あっちゃんは「客は唐揚げを望んでいる」という共有されたはずの約束を確認しようとしますが、客は自分の非を認めるつもりがありません。そこで客が取った行動こそが、本稿の核心です。
店長:「あ、あの、なにか......」
客:「この女が、注文間違えたんだよ!」
店長:「え... しかし......」
ア:「唐揚げでース」
客:「ふざけんなよーっ。この女ガイジンじゃねーかよ! こいつが日本語間違えたのっ!」
この場面を読むたびに、胸が締め付けられるような不快感を覚えます。ここで何が起きているのでしょうか。客はあっちゃんと「何が真実か」を対話することを放棄し、代わりに店長(権力者)に対して「この女は外国人だ」というカテゴリーを提示しました。
これは、「外国人は日本語を間違えるものだ」というステレオタイプを召喚することで、アッチャラーさんとのコミュニケーションにおける「約束」の形成そのものを無効化する試みです。客は、店長と「この外国人が間違えた」という新たな約束を勝手に結ぶことで、アッチャラーさんという当事者を置き去りにし、力ずくで事態を解決しようとしています。
「この女、外国人だろ」という発言は、単なる事実の指摘ではありません。それは、アッチャラーさんから「正しく聞き取り、正しく伝える主体」としての権利を奪い取る、極めて暴力的なカテゴリー化の行使です。
もし店長が「そうか、外国人だから言葉を間違えたんだな」と納得してしまえば、アッチャラーさんがどれほど正しく聞き取っていたとしても、その場での「真実」は塗り替えられてしまいます。このように、カテゴリー化装置は日常をスムーズにする潤滑油であると同時に、特定の人間を「無能」や「不当」の枠に閉じ込める、洗練された差別の道具としても機能するのです。
居酒屋での「辛い」の修正が、文化的なアイデンティティを確認し合う「微笑ましい洗礼」だとするならば、弁当屋の「あっちゃん」が直面したのは、カテゴリーという名の刃がいかに鋭く人を傷つけるかを示す「構造的な暴力」です。私たちは、自分の発する「外国人だから」という言葉が、いつの間にか相手を裁く「裁判官の槌」になっていないかを、常に自覚する必要があるのではないでしょうか。
おわりに――私たちはみな、即興劇の名優であり、「鏡の共犯者」である
結局のところ、私がバスの中で犯したミスも、コンビニでの店員の配慮も、すべてはサックスが説いた「カテゴリーに結びついた権利と義務」の即興的な交渉に他なりませんでした。このように、私たちが日常で行っている「日本人であること」「外国人であること」は、固定された名詞ではなく、絶え間ない「達成」の連続としての「動詞」なのです。
ここで私たちが肝に銘じておくべきは、このカテゴリー化という装置が、時にきわめて鋭利な「排除のメス」に変貌するという事実です。居酒屋の店員が「辛口ですね」と添えたのは、文化の担い手としての誇り、あるいは「おせっかいな親切」だったかもしれません。しかし、高橋留美子劇場で描かれた「外国人だから間違えた」という決めつけは、それとは次元の異なるカテゴリーの乱用です。
自分の非を隠すために相手の国籍を利用し、コミュニケーションのテーブルから相手を蹴り出す。これはまさに、カテゴリーという便利な道具を、相手を縛り上げる「手錠」として悪用した瞬間です。こうした「微細な主導権争い」から「露骨な排除」まで、カテゴリー化という実践は、私たちの手の中でいかようにもその姿を変えてしまうのです。
だからこそ、私たちは自らが手にしているこの道具の重みを自覚しなければなりません
では、私たちはこの「カテゴリーの罠」から、一生抜け出すことはできないのでしょうか? 相手を「日本人/外国人」という色眼鏡で見続ける運命にあるのでしょうか?
その答えは、先ほどの居酒屋での「逆襲」の中に隠されています。 もし皆さんが、誰かから「日本人/外国人」という固定された役を押し付けられそうになったら、ほんの少しだけ「台本にないステップ」を踏んでみてください。
例えば、型通りの「お世辞」に、あえて型破りな「賞賛」で返してみる。あるいは、マニュアルという要塞に閉じこもる店員に、一人の人間としての「困り顔」を見せてみる。これは、ガフィンケルが提唱した「違和感の実験(ブリーチング・エクスペリメント)」を、日常という名のダンスホールで実践することに他なりません。
カテゴリー化という道具は、世界を整理する便利な「付箋」であると同時に、特定の誰かを「無能」や「不当」の檻に閉じめる「手錠」にもなり得ます。しかし、私たちが「あ、今自分は相手をカテゴリーに閉じ込めたな」あるいは「閉じ込められそうだな」と自覚した瞬間、その手錠の鍵はカチリと外れます。今、目の前の相手にどのような権利を認め、どのような義務を押し付けているのか。その「カテゴリー化の実践」を透明なものとして見過ごすのではなく、あえて「違和感」というスポットライトを当てて凝視する力。その知的な筋力こそが、差別や排除の連鎖を断ち切る唯一の防波堤となるのです。
カテゴリーという「手錠」を外し、お互いを固定された役柄から解放すること。それは単なる「マナー」の問題ではありません。それは、お互いのアイデンティティを一度「殺し」、新しい自分へと変身するためのスリリングな冒険への招待状なのです。
「日本人とはこうあるべきだ」「外国人はこう振る舞うべきだ」というガチガチの防具を脱ぎ捨てて、境界線の上で身軽にステップを踏み出すとき、そこには昨日までとは全く違う対話の風景が広がります。
この『ミシマガジン』の連載を通じて私と皆さんの間に起きていることは、もはやそのような旧来のカテゴリー化では説明がつきません。「日本語を全く新しい角度から解剖し、提示する外国人のインストラクター」と、「自らの母語を異国の鏡に映して再発見し、膝を打つ日本人の学び手」。この奇妙でエキサイティングな関係を、私はあえてこう呼びたいと思います。
――私たちは、「鏡の共犯者」なのだと。
私たちは、国籍や言語という既存のカテゴリーが引いた境界線の上で、密かに手を組み、既存の秩序を心地よく踏み越えています。私が皆さんの「原生林」を揺さぶり、皆さんが私の「設計図」に魂を吹き込む。この共同作業において、もはや「日本人 vs 外国人」という二項対立は、舞台から退場した古い大道具にすぎません。
他者の言葉という鏡に照らされながら、時には慣れ親しんだ自分を「殺し」、時には見たこともない自分として「生まれ変わる」。その奇妙で愛おしい「相互行為のダンス」こそが、私たちがこの世界を「人間として生きる」ということの正体なのかもしれません。
皆さんも明日、コンビニのレジに立つ時は、少しだけ意識してみてください。あなたは今、どんな「日本人」を演出し、相手にどんな「役」を押し付けているでしょうか? あるいは、その相手と密かに「鏡の共犯者」になるチャンスを伺っているでしょうか?
その問いの先に、本当の異文化理解、そして「新しい自分への変身」という、終わりのない冒険が待っているのです。




