第30回
雨の日は冷凍おにぎりが地に落ちて
2026.10.26更新
東京の9月は素晴らしかった。雨が降り続いたから。
私は雨を愛しているが、これはなかなか人に言えない。一般的には忌むべきものをわざわざ好むというのは不謹慎な感じがするし、なにより「晴れよりも雨が好きなんだよねェ~」などとのたまうこと自体がそもそも痛いと確信している(おなじみ、深刻な自意識過剰病の一種)。
でも本当に雨が好きすぎる。この気分はごく幼いころ、あまりにも原初的な段階で獲得した本能的な真実なので、好きな理由を説明するのも難しいくらい。
坂元裕二脚本の好きな台詞をわざわざ発表するというのもまた気恥ずかしいわけだが、なにかのドラマで高畑充希が言っていた「私は朝起きると、まず今日一日を諦めます」という至言には、芯から賛同できるカタルシスがある。諦めるということは素晴らしい。ろくでもない人生に残された唯一の救済、そしてそれを朝一番に済ませてしまう気持ちよさ。毎日かくありたい。
また、つい最近、ヒコロヒー著『きれはし』というエッセイ集を読んだが、これも傑作だった。「おわりに」文中、「諦めというものは常に自分に向いている。私なんだから仕方がない、私に生まれついたのだからもう終わり」という言葉。誰かの、何かのせいには決してしないという気骨がある。とことんみじめで情けない人間にそれだけ残された、小石のように固い立派さ。金塊にもダイヤモンドにも、もうきっと一生縁がないけれど、この意志だけがちゃんとあればいい。
なにが言いたいかというと、雨がもたらしてくれる最大の恵みはこの「諦め」なのである。子どものころからずっとこのありさまで、朝起きて窓の外を見たときに雨が降っていると「いい天気だなぁ」としみじみ思う。
あーあ雨だ。雨が降っちゃった。だから今日はもう終わり。なにもかも全部しょうがない。さようなら。また明日。
すると不思議とわくわくしてくる。なんでもできそうで心が躍る。まるで湿地に生えるカビやきのこみたいに。根暗な性格に生まれついた者にとっての快活なフィーバーは、あきらかな終末の景色を目にしたとき、ようやく始まるわけである。
雨の日は、穴の空きかけたぼろい靴へ懸命に防水スプレーを吹きかけて出かける。気に入ってずっと使っている水色の傘をさすのも楽しい。水たまりは一つひとつが即席の海、そこにしかないファンタジーを覗いてみたり。川の色もいつもと全然違うから、やれやれ、まったく妙な世界に来てしまったものだと開き直ることができる。じめじめしても、めそめそしても、どんぶらこ、どんぶらこと遥か彼方へ流されてしまったとしても、今日の天気ならそれがあたりまえ。雨の日はこちら側、晴天の下に居場所がない者の味方でいてくれる。
9月から10月の始めにかけて、東京では37日間も雨が続いた。本当に健やかな秋だった。
不便を感じたことといえば、退勤後、日課の図書館通いをするときに自転車を使えなかったことくらい。自宅から1.5キロメートルほどの距離だから、普段は愛車のママチャリを漕いであっという間に到着するのだが、雨だとそうはいかないので徒歩。
行きは焦る。ただでさえ夕刻、さっさとしないと閉館が近づいてしまうので、のんびりお散歩気分ではいられない。
反対に帰り道はなかなか愉快だ。なんといっても運転しないから、移動しながら酒を飲むことができる。ついつい通り道のスーパーでタカラ焼酎ハイボールを買ってプシュッとし、するとなにかしら肴が欲しくなる。ここで温存していた冷凍おにぎりが満を持して登場するわけだ。内側にアルミクッションが貼られたおにぎりポーチの中は、22時でもほの温かい。コンビニおにぎりの値上げがあまりにも天井知らずなので、少し前から冷凍おにぎりを大量ストックするのがマイブームになった。ツナと塩昆布、明太子とプロセスチーズと白ごま、韓国のりとキムチと刻みたくあんを混ぜた韓国風など、さまざまな混ぜごはんを一口サイズに握って冷凍しておけば、レンチンするだけでいつでも小腹を満たせる。さらに優秀なおにぎりポーチに包んでおくことにより、数時間後でも温かさを保持できるので完璧。
安い酒を飲み飲み、貧しいおにぎりをかじりかじり、大好きな雨の中を歩く、歩く、夜。こんなに素晴らしい晩酌も稀。そういう幸運な日々に9月いっぱい恵まれたのだから、自分の人生もなかなか捨てたものではない。
ともあれいささかの問題もある。残念なことに、人間の手は二本しかない。
トートバッグ二つは両肩にそれぞれ提げて、ランチトートは左腕にかけ(いつもなぜだか大荷物)、両手のひらは空いたとて、そこに傘・酒・おにぎりを持たなくてはならない。至難の業である。なんとか持ち切れたと思っても、ときどきどれかが落ちそうになってしまう。傘はこの中では一番質量があるから安定しやすいし、酒も一滴たりとてこぼしたくないという貧乏根性が緊急作動のごとくとっさにはたらくためか、いつもぎりぎりのところでバランスを取りながら持ち運べるのだが、問題はおにぎり。食べ進めるごとに形が崩れ、ついにはぽろっと、米が何粒か地面に落ちてしまうことがある。
それを必ず拾って食べる。雨水やわずかな砂も一緒に。
こんなのはおかしいんだろうなと思う。きっと、ずっと最初のところから。28歳の人が、雨を喜んだり、ほぼ底の破れた靴で出かけたり、歩きながらタカラ焼酎ハイボールを飲んだり、地面に落ちて濡れた米を食べたり、たぶん全部を間違っている。だから晴れの日に堂々といられない。
それでも、落ちた米を一粒残らず拾うのにはそれなりの理由があり、そういうことは、やはりできるかぎり大事にしていたい。
これは田舎で暮らす86歳のばあちゃんが、もちろん生きていたころにはじいちゃんも、遠野の田んぼで作ってくれた米。その仕事を引き継いだ父がいて、いつも精米してくれて、ダンボールに詰めて送ってくれる母もおり、そうやって杉並区まで届いた食糧。「米一粒に七人の神さま」、これは米を作らずに食べる専門の方の祖母がよく言っていた。だからうっかり道に落としたとて見過ごせるはずはなく、ごめんなさいねと謝りながら三秒以内に拾って食うのが信念、これだけはまだ諦められない。おそろしく不潔で行儀が悪く、手に負えないけど、雨の日ならたぶんなんとか許される。
でも、そうやっていかにも清貧のふりをしながら、もちろんどこかしら、なにかしらの大事なものを損ない続けている。いつまで食べられるかわからないばあちゃん作の貴重なお米、本来は土鍋で炊いて茶碗によそい、熱々のうちに食べるべきものなのに、これでもかといろんな具材を混ぜ込んで、解凍してもおいしいように味をごまかして、何日も冷凍して、期限もごまかして、くたびれた夜にやっとちびちび食べたりなんかして。長雨の日々、ひどい目に遭った人もきっといただろう。ばあちゃんの畑は無事だったろうか、そう思っても結局、忙しさにかまけて電話をさぼる。結局は自分のことしか考えていない。
愚かだなぁ、まったく自分てやつは、と思いながら、気に入っている水色の傘の露先に垂れる雨水を一滴指にのせ、それで目元を洗った。さっぱりして嬉しい。図書館ではしばしば居眠りしかけてしまう。もっと熱々の米を食べ、体力をつけていかねばなるまい。
雨の日に地に落ちるのはいくらかの米粒、それだけ。ささやかなプライドはどうしてもなくならない。むしろ心は水を得る。植物みたいに、魚みたいに。別に普通の人間らしくなれずとも、ひとまずはいいことにする。なぜなら今日は雨なのだから。




