トーキョーでキョートみつけたトーキョーでキョートみつけた

第12回

つゆ

2019.03.04更新

祖母の亡くなった二十歳のとき、珈琲が飲めるようになった。10年前の話になった。10年通っている恵比寿の喫茶店があって、ここに来はじめたのはいつからだったろうと思いかえすと、二十歳より前は珈琲を飲んでいなかったことを思いだした。

祖母が入院していた京大病院で、父はたまたま幼なじみと再会し、そのミキさんがうちへあそびに来るようになった。父の仕事がたてこんだときは代わりに祖母の病室を見舞ってくれた。ミキさんがうちへ来てくれるときは、父とミキさんの育った伏見に所在したガトーひふみのアップルパイを買ってきてくれた。ミキさんは珈琲が好きだったので、父は丁寧にドリップした珈琲でもてなした。それをわたしも口にするようになったのが飲めるようになったきっかけだった。皆でアップルパイと珈琲をいただく時間に、まじりあう甘味と酸味と苦味をおぼえた。

0303-1.jpg

恵比寿の喫茶店ではベイクドチーズケーキと中煎りのブレンドをよくたのむ。マスターは変わらないけれど、サーブするアルバイトの人は変遷があった。テーブル席の小さなテーブルは数年前に刷新された。耳にはいってきた常連さんとマスターのはなしによると喫茶店が開店したのは1981年らしい。

わたしはチーズケーキをおしりから食べ、二等辺三角形をへんなふうにくずしていく。先のやわらかなところより、端のすこしかたい焼き面が好きなのだ。好きなところから食べはじめるのはこの10年変わっていない。

禁煙のご時世にかかわらず今もたばこをすえる場所で、音楽も流れていない。声の高い女性が連れだってやって来ないし、雨の夕方はひまだ。ぶおっと聞こえる換気扇の低音のひびきが心地いい。

川上未映子さんの『すべて真夜中の恋人たち』を読んでいたら、おぼえていたくなることばがあった。

思い出には、思いだせないことのほうが、圧倒的に多いわけですよねえ

(...)

だって、こんなにも思いだせないものばっかりで、でも思いだせるものもあって、とつぜん思いだすこともあって、でも思いだせないものがほっとんどで、でも、もしかしたら思いだせないことのほうにすっごく大事だったことがあったとしたら《p.144》

ゆっくり噛んで、舌に写しても、鼻から抜け消えていくようなはかない視座。おろかなわたしは、チーズケーキの端が変わらずずっと好きだ、ということくらいしか先々におぼえていないような気がしてたまらなく、広い窓のむこうの雨をじっと見つめる。

早織

早織
(さおり)

俳優。1988年5月29日生まれ。京都市左京区育ち。
15歳から俳優をはじめ幾星霜。立命館大学産業社会学部卒業。
大学時代、内田樹先生の著作を読み耽りミシマ社に辿りつく。
《近ごろの出演作》映画『リバー、流れないでよ』(山口淳太監督)、『遠いところ』(工藤将亮監督)、『NEU MIRRORS』(Keishi Kondo監督)、ドラマ『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』(大九明子監督)

早織 公式X

編集部からのお知らせ

動画配信メディアアプリ「WATCHY」で配信される、オリジナルドラマ『きょうも片思い』に早織さんが出演します。3月4日アップ予定のEpisode.4は、早織さんがメインのお話です。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

  • 『建築と利他』発刊しました!

    『建築と利他』発刊しました!

    ミシマガ編集部

    昨日5月15日(木)、『建築と利他』が全国のリアル書店にて先行発売となりました! 建築家の堀部安嗣さんと、政治学者の中島岳志さんの対談をベースに、大幅な書き下ろしと、堀部さんによるスケッチが加わった、美しい佇まいの一冊になりました。装丁デザインは鈴木千佳子さんです。

  • 「まともであることには価値がある――トランプ氏の言動に振り回されないために」小山哲さんインタビュー(前編)

    「まともであることには価値がある――トランプ氏の言動に振り回されないために」小山哲さんインタビュー(前編)

    ミシマガ編集部

    アメリカ大統領にトランプ氏が就任して以来、ウクライナとロシアの「停戦交渉」をめぐる報道が続いています。トランプ氏とゼレンスキー氏の口論、軍事支援の停止・・・大国の動向にざわつく今、本当に目を向けるべきはなんなのか?

  • 羅針盤の10の象限。(前編)

    羅針盤の10の象限。(前編)

    上田 誠

    自分のことを語るよりは、やった仕事を記録していく航海日誌であろう。そのほうが具体的で面白いだろうし、どうせその中に自分語りも出てくるだろう。 そんな風に考えてこの連載を進めようとしているけど、やはり散らかって見えるなあ、とも思う。

  • 松村圭一郎さん推薦文「答えを出すのではなく、踏みとどまるために」

    松村圭一郎さん推薦文「答えを出すのではなく、踏みとどまるために」

    ミシマガ編集部

    2024年12月に刊行された、後藤正文さんと藤原辰史さんの共著『青い星、此処で僕らは何をしようか』。本書を読んだ、人類学者の松村圭一郎さんから、推薦コメントをいただきました。『うしろめたさの人類学』や『くらしのアナキズム』の著者であり、後藤さん・藤原さんと同世代である松村さんは、どんなことを思われたのでしょうか?

この記事のバックナンバー

02月12日
第39回 えみ 早織
12月28日
第38回 まち 早織
08月22日
第37回 かの 早織
04月09日
第36回 たび 早織
12月07日
第35回 よろこび 早織
05月12日
第34回 かみ 早織
02月18日
第33回 むし 早織
12月07日
第32回 はつ 早織
08月18日
第31回 そら 早織
06月04日
第30回 ふく 早織
04月09日
第29回 りく 早織
01月03日
第28回 くずれ 早織
11月08日
第27回 はんぷく 早織
09月08日
第26回 しん 早織
07月08日
第25回 せい 早織
05月09日
第24回 ひび 早織
03月10日
第23回 どう 早織
02月06日
第22回 やく 早織
01月02日
第21回 ほし 早織
11月20日
第20回 ほころび 早織
10月24日
第19回 むこう 早織
09月21日
第18回 ちてん 早織
08月13日
第17回 てんぷ 早織
07月06日
第16回 はらえ 早織
06月11日
第15回 さきわい 早織
05月14日
第14回 いちよう 早織
04月14日
第13回 たましい 早織
03月04日
第12回 つゆ 早織
02月04日
第11回 よ 早織
01月08日
第10回 たまご 早織
12月04日
第9回 しょうよう 早織
11月02日
第8回 いちじく 早織
10月03日
第7回 ゆめ 早織
09月04日
第6回 みず 早織
08月03日
第5回 ニッキ 早織
07月03日
第4回 たまねぎ 早織
06月04日
第3回 さんしょ 早織
05月06日
第2回 さば 早織
04月03日
第1回 ゆりかもめ 早織
ページトップへ