第37回
「社会」という名の密航者
2026.08.10更新
今からちょうど二十五年ほど前――筑波大学の博士課程に籍を置いていた頃のことです。ある日、韓国語に強い関心を持つ一人の日本人の友人と、大学の学生食堂で、たしか伸びきったうどんをすすりながら、たわいもない話をしていました。
「朴さん、面白いことに気づいたんですけど」。テーブルの向かいで、彼が箸を止めて身を乗り出してきました。「韓国語の"사회(サフェ)"って、発音こそ違え、漢字も意味もまるっきり日本語の『社会』と同じですよね。これって、大昔から東アジアで共有されてきた、由緒正しい漢語だったりするんですか?」
私は一瞬、「そりゃそうでしょう」と、訳知り顔で頷きかけました。実際、韓国人の大多数は「사회(サフェ)」という言葉を、まるで自分の家の柱や瓦のように、生まれたときからそこにあった純正の韓国語だと信じ込んでいます。恥ずかしながら、当時の私自身も、まさにその一人でした。
ところがこのとき、ふと妙な胸騒ぎがして、「いや、待てよ」と口ごもってしまったのです。うどんの湯気の向こうで、何かが小さく引っかかっていました。
そこで私は、逆に友人にこう聞き返してみました。「じゃあ聞きますけど、日本語の『社会』って、いつ頃からある言葉だと思いますか?」
友人は一瞬きょとんとした顔をして、「え、そんなの......昔からあるでしょう。江戸時代とか、もしかしたらもっと前から」と、まったく疑いのない口調で答えました。
その瞬間、私たちは奇しくも、まったく同じ種類の勘違いを、国境をまたいで、それぞれ違う言語で分かち合っていたことに気づいたのです。
あの学生食堂での会話は、そのまま記憶の底にひっそり沈んだきり、以来四半世紀近く、一度も浮かび上がることはありませんでした。それが先日、この原稿のために「社会」ということばについてあれこれ調べ物をしていた最中、うどんの匂いまで伴って、唐突に鮮明によみがえってきたのです。
「社会」を持たなかった国――一世紀にわたる悪戦苦闘
実はこの「社会」ということば、たかだか百五十年ほど前まで、日本語のどこにも存在しなかった代物なのです。
以下、柳父章の『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年)を参照しつつ、「社会」という言葉が生まれた経緯を追いかけてみます。
十九世紀半ば、幕末の開国とともに英語の"society"という言葉が海の向こうからやってきたとき、当時の蘭学者や英学者たちは、これに対応する訳語がまったく見つからず、頭を抱えました。一八六二年に堀達之助らが編んだ日本最初の英和辞典では、societyにはまだ「仲間、交り、一致」といった、いかにも狭くて具体的な訳語しかあてがわれていません。要するに、気心の知れた仲間内の集まりや、親しい者同士の付き合いといった、顔の見える範囲の人間関係しか、当時の日本語には想像することができなかったのです。
それもそのはずでした。当時の日本語には、「藩」や「家」や「世間」や「仲間」といった、具体的で顔の見える結びつきを表す語彙はふんだんにありましたが、赤の他人同士が抽象的なルールのもとに緩やかに結びついている、いわば「顔のない集合体」としての人間関係を指し示す言葉は、まったく用意されていませんでした。個人という単位を土台にした、広い範囲の人間関係というものが、そもそも当時の日本社会の現実に存在しなかったのですから、無理もありません。
かの福沢諭吉でさえ、この訳語には相当てこずったようです。一八六八年に出版した『西洋事情外編』で、彼はsocietyに対して「人間交際」という、なんとも大仰で、しかしどこか愛おしい訳語をひねり出しました。福沢にとってsocietyとは、遠い抽象的な制度である以前に、まずもって「人と人とが交わる、その営みそのもの」だったのです。
ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を翻訳した中村正直に至っては、もっと涙ぐましいことになっています。一八七二年に世に出したその翻訳書『自由之理』の中で、彼は同じsocietyという一つの単語に対して、あるところでは「政府」、あるところでは「仲間連中」、あるところでは「世俗」、またあるところでは「人間交際」と、文脈に応じてまるでカメレオンのように訳し分けているのです。これはもう、優柔不断というより、必死の悪戦苦闘の跡と呼ぶべきでしょう。一つの英単語の背後にあまりに多様な意味の束が折り重なっていて、日本語のどの言葉を持ってきても、その全体をすっぽりと覆うことができなかった。中村正直は、その事実に真正面からぶつかり、七転八倒していたのです。
「社」と「会」が出会うとき
この混沌に、ひとまずの決着をつけたのが、明治六年に結成された「明六社」という知識人集団でした。福沢諭吉、西周、森有礼、中村正直、加藤弘之といった、当時のオールスターとも言うべき洋学者たちが集い、機関誌『明六雑誌』を発行しながら、西洋思想の翻訳と普及に奔走していたのです。
もともと「社」という漢字は、中国古典において「祭祀のための特別な集まり」を意味していたようですし、当時の日本でも「結社」を意味する流行語として、「文学社」「博愛社」「新聞社」のように、目的を同じくする人々が集って何かを成すグループを指す語として、すでに広く使われていました。そして「会」もまた、人が寄り合うことを意味する、ごくありふれた漢字です。この二つの漢字を組み合わせて、「社会」という、当時としては真新しい二字熟語がひねり出されたのです。
一八七四年、『明六雑誌』の誌面には、「社会が立つ」という、いま読むと少し可笑しな言い回しが登場します。目的意識を持って人々が集まることを指す、まだ生まれたばかりのぎこちない用例です。奇しくもこの年、福沢諭吉自身も別の翻訳書の中で、societyの訳語として、それまでの「人間交際」から離れ、「交際」や「社会」という言葉を使い始めています。こうして、あちこちでバラバラに試みられていた翻訳の悪戦苦闘が、少しずつ「社会」という一つの言葉へと収斂していきました。
からっぽの漢字だからこそ、乱用される
ここで実に興味深いのは、「社会」ということばが定着していく過程で、むしろその意味の「乏しさ」こそが、普及の強力な原動力になったという逆説です。
考えてみれば当然のことかもしれません。「人間交際」という訳語は意味が具体的すぎて、あちこちの文脈にそのまま流用するには、いささか窮屈でした。ところが「社会」という、当時の日本人にとってはいかにも耳慣れない、意味の内実がすかすかな新造漢語は、逆にどんな文脈にも柔軟に嵌め込める、便利な「空っぽの器」になり得たのです。
明治の知識人たちは、この難しそうな顔つきをした二字熟語を前にして、「何やら深遠な意味が込められているに違いない」と、なかば無意識に敬意を払ったのではないかと想像します。意味がよくわからないからこそ、かえって重宝され、乱用され、あっという間に世間に広まっていったのです。まるで、中身のよくわからない瓶に「これは高級ワインです」と立派なラベルだけ貼られていると、なんとなくありがたく飲んでしまう、あの感覚に似ています(笑)。
こうして「社会」は、その意味の空っぽさゆえに、政治から経済、風俗から学問まで、ありとあらゆる文脈に自在に浸透していったのです。
玄界灘を渡った密航者――そして韓国人の勘違い
さて、ここでようやく、あの学生食堂で交わした会話の答え合わせをしましょう。
日本の知識人たちが血のにじむような悪戦苦闘の末にようやく鋳造したこの「社会」という漢語は、その後、朝鮮半島へと海を渡っていきます。十九世紀末、開化期と呼ばれる時代、多くの朝鮮の知識人たちが日本に留学し、あるいは日本の啓蒙思想家たちの著作を通じて、近代西洋の概念を吸収していきました。
その代表的な一人が、兪吉濬(유길준)という人物です。朝鮮初の日本・アメリカ留学生として知られる彼は、一八八一年、視察団の随員として日本に渡った際、なんと福沢諭吉の自宅に寄宿しながら、慶應義塾で学びました。彼が後に著した『西遊見聞(서유견문)』(一八九五年)は、朝鮮で最初期の本格的な西洋紹介の書として知られていますが、その内容と体裁は、恩師である福沢の『西洋事情』に色濃く影響を受けたことで知られています。
こうした知識人たちの回路を通じて、日本で鋳造されたばかりの「社会」という漢字二字は、朝鮮半島にもそのまま輸入され、今度は朝鮮式の漢字音で「사회(サフェ)」と読まれるようになっていきました。つまり「사회」という言葉は、中国の古典から連綿と受け継がれてきた由緒正しい漢字語などでは決してなく、たかだか百数十年前、お隣の日本で、名もなき翻訳者たちの七転八倒の末に、ほとんど無理やり鋳造された、生まれたてほやほやの新造語だったのです。
当時の私を含め、大多数の韓国人はこの事実を知りません。「사회」という言葉を、まるで千年前から朝鮮半島の大地に根を張っていた在来種の植物であるかのように信じ込んで、日々何の疑いもなく使っているのです。
しかしこれは、決して韓国人だけの勘違いではありません。あの学生食堂で出会った私の日本人の友人もまた、「社会」という言葉が、まさか自分たちのほんの数世代前のご先祖様たちが、寝る間も惜しんで七転八倒しながらこしらえた、生まれたばかりの新造語だとは、露ほども思っていなかったのです。彼にとってもこの言葉は、まるで富士山や桜のように、はるか昔から当たり前にそこにあった、疑いようのない風景の一部だったわけです。
考えてみれば、これは実に痛快なことではないでしょうか。日本と韓国、隣り合う二つの国の人々が、それぞれ自分の母語だと信じて疑わない同じ一つの単語について、まったく同じ種類の、そして正反対の方向を向いた勘違いを、しっかりと分かち合っていたのですから。
親しさの逆説
けれども、これは単に痛快なだけの話では終わりません。よくよく眺めてみると、この「親しさ」――社会という言葉は、はじめからそこにあった、というあの感覚そのものが、実に奇妙な二重性を帯びていることに気づかされるのです。
私たちは、あらたまって「私は自分の母親と親しいです」と口にするとき、なぜか奇妙な気恥ずかしさを覚えます。それは、その親しさがあまりに深く内面化され、もはや体質そのものと化し、存在そのものと一体化してしまっているからです。物事というのは、あまりに深く、あまりに広くなりすぎると、かえって「無い」も同然に感じられてしまうものなのです。
ごくありふれたものたちが、日頃ぞんざいに扱われてしまうのも、まさにこの「親しさの逆説」を、誰も面倒みてこなかったからにほかなりません。ほんの一瞬の「親しさ」との接触の奥に、気の遠くなるほどの距離を旅して戻ってきた、長い長い歴史が畳み込まれていることを、私たちはうっかり忘れてしまうのです。
今回のこの文章で、私がいちばん書きたかったこと。それは、この親しさの奥底にひっそりと隠れている、見知らぬ顔をそっと発見することでした。
哲学とは、奇妙な問いを投げかける技術のことではありません。あまりに慣れ親しみすぎて、もはや誰も疑おうとしなくなった世界を、もう一度、あらためて見知らぬものとして眺め直すこと――それこそが哲学です。物事は、親しくなればなるほど、たいてい魅力を失っていくのが世の常です。それでも哲学が私たちを捉えて離さない理由があるとすれば、それは、いちばん見慣れたもののただ中に、いちばん見知らぬ魅力を発見してしまうからなのでしょう。
言葉がなければ、その世界も存在しない
さて、ここからが今日の本題です。存在しなかった言葉が新たに生まれるとき、その国の人々の頭の中には、いったい何が起きるのでしょうか。
「社会」という言葉が存在しなかった時代の日本人が、社会性のない野蛮人だったわけでは決してありません。彼らは彼らなりに、家族とつきあい、藩に仕え、仲間内で酒を酌み交わし、世間の目を気にしながら、豊かな人間関係の中で生きていました。しかし彼らには、そうした具体的で顔の見える関係の束をいったん全部脇に置いて、「赤の他人である個人と個人が、抽象的なルールのもとに広く緩やかに結びついている」という、いわば一段高いところから人間関係全体を見晴らすための、望遠鏡のような言葉がなかったのです。
言葉がなければ、その概念について考えることさえできません。もっと厳密に言えば、考えることが不可能ではないにせよ、その考えを一瞬で、しかも他人と共有可能な形でパッと掴み取ることが、絶望的に難しくなるのです。
これはちょうど、絵の具のパレットに、まだその一色が存在しない状態に似ています。「藍色」も「臙脂色」も「山吹色」も持っているのに、なぜか「社会色」とでも呼ぶべき、あの独特の色合いだけが、パレットのどこにも見当たらない。だから画家は、目の前に確かに広がっているその色を、実際には薄々感じ取っていながら、キャンバスの上に定着させることができないのです。
ところが、ひとたび「社会」という新しい絵の具のチューブが、誰かの手によって発明され、パレットの上に絞り出されると、事態は一変します。今まで漠然と「世間」だとか「仲間」だとかいう、ぼやけた輪郭の言葉でしか捉えられなかった現実の一部分が、急に「社会」というくっきりとした一色に染め上げられ、目に見える具体的な対象として浮かび上がってくるのです。
「社会問題」「社会運動」「社会正義」――そんな言葉が次々と生まれ、人々はようやく、目の前に広がっているのに、これまで名指すことができなかった現実を、指差して語ることができるようになりました。福沢諭吉が「人間交際」という言葉を武器に、暴虐な権力者に対して「人はみな、怠惰を戒め罰する権利を持つ」と説いたとき、彼はまさに、この新しい言葉によって初めて可能になった、新しい思考の運動をしていたのです。個人という単位を軸にした、水平で抽象的な人間関係――それは、家臣が主君に忠義を尽くすという垂直な関係とは、まったく異なる新しい人間観そのものでした。
たった一つの単語の履歴書をひもとく
面白いのは、この「社会」という借り物の言葉が、朝鮮半島に渡ったあと、今度はまた別の化学反応を引き起こしていったらしい、という事実です。
日本語には、もともと「社会」に対する、ある種の対抗馬として、「世間」という古くからの大和言葉がありました。「世間体が悪い」「世間の目」「世間知らず」――この「世間」という言葉には、具体的で、時にじめじめとした、生身の人間関係のニュアンスが色濃くまとわりついています。だからこそ日本語話者は、「社会」という抽象的でよそよそしい近代の翻訳語と、「世間」という土着的で肌感覚のある大和言葉とを、無意識のうちに使い分けながら、両者の間を行きつ戻りつしてきました。
ところが韓国語には、この「世間」に相当する、しっくりとくる固有語の対抗馬が、実はあまり見当たりません。「사회(サフェ)」という借り物の言葉は、日本語における「社会」よりも、いくぶん強く、いくぶん一元的に、韓国人の頭の中の風景を占領してしまったのではないか――そんな仮説さえ、私には浮かんでくるのです(もっとも、これはもう少し丁寧な検証が必要な、私自身の直感の域を出ませんが)。
同じ一つの翻訳語が、海を渡った先の言語では、そこにもとから住んでいた在来の語彙との力関係次第で、まったく違う顔つきに育っていく。この事実こそが、私に「言葉を学ぶこと」の本当の醍醐味を、改めて教えてくれるのです。
母語というものは、いつも私たちより先にそこにあり、私たちがものを考えるより先に、すでに世界をある特定の形に切り分けてしまっています。私たちは、自分がその言葉によってどのように感じ、どのように判断するよう仕向けられているのか、なかなか自分では気づくことができません。
だからこそ、たった一つの単語の履歴書を丹念にひもとくという、この地味で、時にひどく面倒な作業――それは単なる語源探しの知的遊戯などではなく、私たちが無意識のうちに寄りかかっているものの見方の輪郭を、そっと指でなぞり直す、ささやかな、けれども確かな抵抗の身振りなのだと、私は思うのです。
次にあなたが「社会」という言葉を口にするとき、ほんの一瞬でいいので、思い出してみてください。この言葉は、かつて誰も持っていなかった、真新しい絵の具の一色だったのだということを。そして、その絵の具は、玄界灘を静かに渡って、いまでは私の母語のパレットの上でも、すっかり乾いて定着してしまっているのだということを。
主な参考文献
柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、一九八二年。
兪吉濬『西遊見聞』一八九五年/邦訳は、林鎬根訳『西遊見聞』清文閣、一九九五年。
*兪吉濬の経歴に関する事実関係は、『韓国民族文化大百科事典』等の公開情報を参照した。




