第38回
辛口は、辛くない
2026.09.21更新
二十代の夏のことでした。二度目の日本訪問で、母方の叔父が暮らす群馬県の渋川市を訪れていたのです。当時、日本はまだコンビニの時代ではなく、駅前のスーパーや地元の商店が日々の買い物の中心でした。その小さな商店で、冷えたビールを探していたとき、目に飛び込んできたのがあの銀色の缶でした。「アサヒスーパードライ 辛口」。当時の僕は日本語が今ほど得意ではなく(いっても、今も怪しいものですが・・・)、ただ一つ、漢字だけは韓国人として読むことができました。「辛」という文字を見たとき、僕の中では条件反射的に喉の奥がきゅっと締まったのです。辛口。なるほど、これは日本にも、やっぱりあるんだ――。群馬の田舎で、叔父が待つ家へ帰る前に、ひとつだけ試してみようと思ったのです。心の中で小さく気合いを入れ、プルタブを起こし、一口含みました。
拍子抜けしました。辛くないのです。まったく、これっぽっちも。喉を焼くあの懐かしい感覚はどこにもなく、ただ爽やかな苦みとキレが、舌の上をするりと滑っていっただけでした。騙された、と思いました。だが、よくよく考えてみると、騙されていたのは日本の広告表現ではなく、僕の頭の中に据えつけられた翻訳装置のほうだったのです。
思い返せば、子どもの頃の僕にとって「辛い」は、涙と鼻水と、母がとなりで「もっと食べ」と笑う声とがセットになった体験でした。プサンの食卓では、キムチもチゲも「まだ甘い」と言われるくらいでちょうどよく、辛さは味というより、家族の温度そのものでした。だから、異国で初めて見た「辛口」という文字を、心身全体で、その懐かしい熱さとして受け取ってしまったわけです。二十代の一杯のビール缶が、ここまで大きな期待を負わせることになるとは。
「辛口」を「メウンマッ(매운맛)」と機械的に置き換えた瞬間、僕はビールの缶の中に、律儀に唐辛子を探してしまっていたわけです。しかし日本語の「辛口」がビールや日本酒について語るとき、それが指しているのは糖分の少なさであり、後味のキレであり、口当たりの鋭さです。対義語は「甘口」。つまりここで戦っているのは辛さと甘さではなく、鋭さと丸さ、直球と変化球なのでした。
このことに気づいたのは、じつは京都のある居酒屋でのことでした。日本人の友人たちと日本酒を飲んでいたとき、メニューにずらりと並んだ「淡麗辛口」「濃醇甘口」という文字を見て、僕は思わず「これは全部、激辛料理のメニューですか」と尋ねてしまい、爆笑されました。友人いわく、辛口の酒は「男らしい」のだそうです。真偽のほどはわかりませんが、「男らしい」の対義語がどこか「甘えている」に近いのだとしたら、なんだか妙に腑に落ちてしまう自分もいます。
さらに厄介なのが「辛党」という言葉でした。てっきり激辛料理を愛する猛者たちのことかと思いきや、これは甘いものより酒や塩気のあるものを好む人のことを指すのだそうです。唐辛子は、ここでもどこにもいません。「辛い」は、僕たちが素朴に思い描く「辛さ」から、するりするりと逃げていくのです。
そもそも「辛い」という言葉は、もともと唐辛子の専売特許ではなかったようです。舌や喉を刺すような、鋭く強い刺激――それが「辛い」の、もっとも古い持ち場だったらしいのです。だから塩気が強すぎれば「塩辛い」であり、批評が手厳しければ「辛口評価」であり、人生がつらければそれもまた「辛い」。カプサイシンも塩分もアルコール度数も批評家の毒舌も、日本語という地図の上では、すべて同じ「辛い」というひとつの大陸に住んでいるのです。
面白いことに、「手厳しい」を意味する比喩として何を選ぶかは、言語によって見事にバラバラです。日本語は「辛口評論家」と言いますが、英語では手厳しいユーモアのことを"dry humor"、つまり「乾いたユーモア」と呼びます。ワインの「辛口」を英語でも"dry"と呼ぶことを思えば、日本語の「辛」と英語の"dry"は、なんと似た道を歩んでいることでしょう。ところが韓国語で手厳しい忠告のことは「쓴소리」、つまり「苦い言葉」と呼びます。辛くも乾いてもいない、苦いのです。同じ「手厳しさ」というひとつの的を狙うのに、日本語は舌の痛みを、英語は舌の渇きを、韓国語は舌の苦みを、それぞれ矢に選んでいる。味覚の語彙というのは、思った以上に律儀な民族衣装をまとっているようです。
そういえば、中国語の「辛」もまた一筋縄ではいきません。四川料理でおなじみの「麻辣(マーラー)」は、舌がしびれる「麻」と、燃えるような「辣」を、あえて二文字に分けて並べています。カプサイシンの燃える辛さと、山椒がもたらすしびれる辛さを、そもそも別の感覚として最初から切り分けているわけです。韓国語の칼칼하다(カルカルハダ)や알싸하다(アルッサハダ)が同じ「辛さ」の内側で枝分かれしていく(それぞれの意味は後述します)のとは対照的に、中国語は隣り合うふたつの漢字という、もっとも直接的なかたちで境界線を引いてしまう。ひとつの卓袱台の上に、日本語、韓国語、中国語、英語と、辛さをめぐる四つの流儀がところ狭しと並んでいるのを想像すると、なんだか楽しくなってきます。
ところが同じ「辛い」でも、コンビニの棚のもう一角に足を運ぶと、まったく違う顔を見せます。ここ数年、日本のコンビニやスーパーの棚には、韓国発のインスタントラーメンが堂々と一角を占めるようになりました。農心の「辛ラーメン」はもちろんのこと、今年の春には日清食品からも「辛(カラ)ミョン」という新ブランドが誕生し、韓国風の旨辛ラーメンが仲間入りしています。こちらの「辛い」には、もう「男らしさ」だの「後味のキレ」だのという迂遠な比喩は必要ありません。パッケージには堂々と「辛さレベル」という五段階の数字が刷り込まれ、レベル3、レベル5と、まるで台風の勢力を表すかのような即物性で、辛さが管理されているのです。ちなみに韓国では同じ辛ラーメンでも、「順辛」と「辛口」というふうに、二者択一で辛さの強度を選ぶ売り方をしています。日本の「五段階のレベル」という細かい階梯と、韓国の「二者択一」という潔い二分法――こうした売り方の違いも、じつは両国の「辛さ」に対する向き合い方の違いを静かに物語っているのかもしれません。
じつはこの初稿に目を通してもらった連載担当の編集者・Sさんから、思わず膝を打つような感想をもらいました。「日本のインド・ネパール系カレー屋さんでも、メニュー表の辛さが四〜五段階の唐辛子マークで示されていますが、きっと本国にはそんな指標はないはずですよね」と。 まさにその通りでしょう。本国の人たちが見れば、「辛さなど、その日の気候や体調に合わせて匙加減で味わうものだ」と笑うかもしれません。移民料理店がメニューの味をどう表記しているかを辿るだけでも、興味深い文化論が一本書けてしまいそうです。
ではなぜ、日本の食卓やメニュー表は、外からやってきた辛さにこれほど几帳面に「数字の目盛り」を刻み込みたがるのでしょうか。 認知科学者のドナルド・ノーマンは、人間が用いる道具や表記のような「認知的道具(人工物)」について、非常に示唆深い枠組みを提示しています。道具を捉えるときには、外側から全体を見渡す「システム視点(system view)」と、道具を使う人間の内側から見た「個人視点(personal view)」という二つの視点があるというのです。
「システム視点(system view)」から見れば、数字や唐辛子マークという目盛りは、辛さを客観的に標準化し、店と客のあいだの摩擦を減らし、効率よく管理・伝達するための優れた装置です。しかし私たちは往々にして、このシステム視点にすっかり囚われてしまいがちです。「辛さレベル3」という数字が提示された瞬間、あたかも辛さという主観的で多様な身体的体験が、最初から客観的な段階として外の世界に実在しているかのように錯覚してしまうのです。 だが、ノーマンが強調したのはむしろ「個人視点(personal view)」のほうでした。道具がひとつ介在するだけで、人間が実行している「課題の性質そのもの」がまったく別のものへと作り変えられてしまう、という点です。 辛さを測る数字や唐辛子マークという道具を手にした瞬間、人間側にとっての課題は、「正体不明の激しい痛みに身を晒すこと」から、「自分が管理可能な安全な刺激を主体的に選択すること」へと、その性質が劇的に変わります。 韓国人にとって辛さは、生まれたときからその中で泳いできた「家族の温度」ですから、そもそもシステム化して管理する必要も、体温計を差し込む必要もありません。しかし、唐辛子という刺激的な異邦人を迎え入れた日本の社会にとっては、効率よく管理するシステム視点の目盛りと、個人が安心して痛みを飼い慣らすための個人視点の道具が、どうしても必要だったのではないでしょうか。
興味深いことに、日本人が韓国の唐辛子粉の味について話すときに、彼らはしばしば「甘辛い」(あまからい)という言葉を使います。韓国人である僕がこの表現を初めて聞いた時は、ぎょっとしました。単味?甘い辛さ?その組み合わせが、韓国人の舌にはほぼ存在しないのです。韓国人にとって、고추(コチュ・唐辛子)の味は、ただ매움(マウム・辛さ)であり、けっして甘くはありません。ところが同じ高麗人参紅も、同じ韓国産の一味唐辛子も、日本人の舌を通すと、そこに隠れた甘みが立ち上ってくるのです。どうやら我々の「辛さ」には、本人たちが気づかぬうちに、微かな甘みが含まれているらしい。長年の醗酵文化、砂糖と唐辛子が共存する食卓環境――そうしたものが、韓国人の舌には知覚されない層として、すでに組み込まれているのではないか。思えば、言葉も味も、その民族が何度も何度も口にしたものは、もはや知覚の背後へと退いてしまうのです。
同じ漢字の「辛」なのに、ビールの売り場では抽象的な形容として振る舞い、ラーメンの売り場では舌を刺す極めて具体的な実体として振る舞う。棚ひとつ隔てただけで、まったく違う文法が動き出すのです。ひとつの日本語の中に、ふたつの「辛」の王国が、涼しい顔をして同居しているわけです。思うに、これは「唐辛子の辛さ」というものが、日本語にとってもともと自前で育てた感覚ではなく、後から輸入され、外側から接木された感覚だからではないでしょうか。塩や酒や批評をめぐる古くからの「辛さ」は、言葉ひとつで済ませられるほど、日本語はすでに扱いに慣れています。しかし唐辛子由来の「辛さ」は比較的新しい客人で、扱いに慣れていないぶん、数字という補助輪をつけてやらないと、うまく手なずけられないのかもしれません。
こうした「言葉がどこを大まかに済ませ、どこを細かく割るか」という問題を考えるとき、僕はいつも、ある本のことを思い出します。イスラエル出身の言語学者ガイ・ドイッチャーが書いた『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』という本です(韓国語版のタイトルは、もっと詩的に『そこでは牛もワインも海もみな赤い』となっています)。
この本でドイッチャーは、古代ギリシャのホメロスが海を形容するのに使った、あの有名な「ワイン色の海」という表現や、蜂蜜を「緑色」と呼んでいた古代の記述など、昔の人々の色の表現がなぜか今日の私たちの感覚とズレていることを丹念に掘り起こしていきます。そして、ロシア語には日本語の「青」にあたる範囲の中に、水色系と紺色系を別の単語として区別する語彙があり、ロシア語話者は英語話者よりもわずかに素早く、その境界の色を見分けられるという実験結果も紹介されるのです。
ドイッチャーは、言葉が世界の見え方を完全に決定づける、という極端な立場には慎重に距離を置いています。かつて一世を風靡した「言語がなければその概念は存在しない」という強い決定論は、いまでは多くの言語学者から退けられています。しかしそれでも、言葉はどこに目を凝らすべきかを、僕たちにこっそり教え込んでいる、くらいのことは言えそうです。習慣というのは、不可能を強いるものではなく、ただ「そちらのほうが楽だ」という道筋をつけるものだからです。色の世界でロシア語話者の目が水色と紺色の境界に、より軽やかに反応するように、味の世界では韓国語話者の舌が、辛さの中に張りめぐらされた無数の境界に、より軽やかに反応しているのかもしれません。日本語話者にそれができないのではなく、ただ、その境界線をわざわざ引く習慣を、まだあまり持っていないだけなのです。
韓国語には「辛い」に相当する語として「メプタ(맵だ)」がありますが、この一語だけでは到底足りません。メプサッカダ(맵싹하다)は、ちょっぴりピリッとかすめる程度の辛さ。メコムハダ(매콤하다)は、ほどよく食欲をそそる辛さ。カルカルハダ(칼칼하다)は、喉の奥でひりつくような、乾いた辛さ。アルッサハダ(알싸하다)は、ツンと鼻の奥に抜けていく辛さ。オルクンハダ(얼큰하다)は、体の芯からじんわりと熱くなっていくような辛さ。そしてアリダ(아리다)は、生のニンニクや唐辛子をかじったときの、ヒリヒリとした痛みに近い辛さです。同じ「辛さ」というひとつの大陸の中に、韓国語は無数の小さな国境線を引いているのです。しかも厄介なことに、韓国人は真っ赤なチゲをふうふう言いながらすすった後、額に汗を浮かべてこう言います。「あー、シウォナダ(시원하다:すっきりする、涼しい)」と。辛さの果てに涼しさを見出すこの倒錯こそ、韓国の食文化のもっとも奇妙で、もっとも愛おしい真骨頂かもしれません。
前述のSさんも、「シウォナダ(시원하다)やオルクンハダ(얼큰하다)という言葉を知っただけで、辛いものを食べるときに身体の深いところが抱く快感を、逃さずしっかりつかまえられる気がする」と書いておられました。これこそまさに、言葉が身体の感覚をあとから迎えに行き、逃げてしまいそうな微かな喜びに意味の錨を下ろす瞬間です。
面白いのは、韓国人が激辛のスープをすすり、大汗をかきながら絞り出すように言う「あー、シウォナダ!」という言葉は、たんなる個人的な生理的反応の報告にとどまらないということです。あれは、食卓を囲む他者に向けて差し出される、ひとつの共同の「社会的実践(Doing)」なのだと思います。 激痛に近い熱さを喉に流し込み、身体の芯が解放されるあの矛盾に満ちた快感を、あえて「涼しい、すっきりした」と声に出して宣言する。すると、向かいに座る仲間もまた「本当にシウォナダね」と頷き返し、額の汗を拭う。痛みを快感へと反転させるこの奇妙な倒錯は、ひとりで黙々と味わうときよりも、誰かと一緒に汗を流し、その感覚を言葉にして投げ合い、確かめ合うことによって、はじめて十全に完成するのです。
ついでに言えば「オルクンハダ(얼큰하다)」という語は、辛いスープの状態だけでなく、酒でほろ酔いになった状態にも使われます。舌を刺す辛さと、酒に火照る体――韓国語はこの二つを同じ言葉で束ねてしまうのです。日本語が「辛党」という言葉で酒と辛さを緩やかに結びつけたのと、どこか似た発想が、ここにも静かに顔を出しています。
ところで、なぜ人間はわざわざ痛みを求めてまで、こんなにも辛い食べ物を愛するようになったのでしょうか。アメリカの心理学者ポール・ローザンは、長年この謎に取り組んできた研究者です。彼の研究によれば、唐辛子はもともとメキシコ周辺が原産で、十六世紀以降にようやくアジアに伝わったといいます。つまり辛さというのは、韓国にとっても日本にとっても、本来はどちらも外来の、比較的新しい客人だったわけです。ローザンは実験で、被験者に少しずつ辛さのレベルを上げていき、「もうこれ以上は無理」というぎりぎりの一歩手前を、多くの人が「いちばん好きな辛さ」として選ぶことを確かめました。絶叫マシンがいちばん高く上がる瞬間や、悲しい映画でいちばん泣ける場面が好まれるのと、根っこは同じ構造だというのです。地球上でみずから進んでこの「安全な危険」を招き入れる動物は、人間をおいてほかにいないともいいます。脳は「危険だ」と錯覚して騒ぎ立てているのに、体の奥では「大丈夫、これは楽しいやつだ」とちゃんとわかっている――ローザンはこの落差そのものを「良性のマゾヒズム(benign masochism)」と呼びました。
ローザンはまた、人がはじめて辛いものを口にするきっかけの多くは、「まわりの誰かが美味しそうに食べているのを見たから」だとも指摘しています。まさに、韓国発の激辛インスタント麺「불닭볶음면(プルダックポックンミョン)」を、悶絶しながらすすってみせる動画が世界中で撮られ、若者たちが次々とその痛みに挑んでいく現象そのものです。あれは無謀な自傷行為に見えて、じつは「みんなで安全な危険を共有する」という、人間だけがもつ、きわめて社会的な遊びだったのでしょう。カメラの前で悶絶しながらも、心のどこかでは「これは大丈夫、むしろ楽しい」とわかっている。ローザンの理論を、彼らはスマートフォンひとつで、みごとに実演してみせているわけです。
同じ外来の客人を迎えながら、韓国語はこれを主賓の席に座らせ、専用の食器や敬称まで用意して、暮らしの真ん中に据えました。一方の日本語は、丁重に扱いながらも、どこかまだ「よそ様」として、数字の名札をつけたまま、少し距離を置いて眺めている。「オルクンハダ(얼큰하다)」が辛さと酔いを同じ言葉で束ねてしまうのも、案外このあたりに理由があるのかもしれません。どちらも、体が「危険だ」と騒ぎ立てているのに、頭のほうは「大丈夫」と知っている。その落差を、韓国語の舌は、ひとつの言葉で最後まで味わい尽くそうとするのです。
思えば、辛さというのはずいぶん罪深い感覚です。痛みのはずなのに、いつのまにか快楽の顔をして食卓にのぼってくる。そしてその罪深さを、どこまで丁寧に、どこまで大ざっぱに言葉にするかで、その民族の食卓の風景がまるごと透けて見えてくるのですから、言葉というのは本当によくできた鏡だと思います。
通訳という仕事を長年やってきて、僕はいつも「言葉と言葉のあいだ」に立たされてきました。同じ漢字を使っていても、日本語と韓国語のあいだには、こうして目に見えない断層が無数に走っています。その断層に足をとられて転ぶたびに、僕は少し悔しくて、でも同時にわくわくしてしまうのです。断層のある場所こそが、その民族が長い時間をかけて何を大切に見つめ、何をおおざっぱに済ませてきたかという、いちばん正直な記録だからです。
さて、今度あなたがコンビニの棚でアサヒスーパードライの「辛口」を手に取るとしましょう。もしあなたが外国人であり、かつ一度でも韓国の食卓で、本物の「辛さ」を体験したことがあるのなら。どうか唐辛子を探さないでください。あれは辛いのではなく、ただ潔いだけなのですから。そしてもし、あなたの舌が「本当の辛さ」を求めているのなら、コンビニのもう一角で、「辛さレベル5」の韓国ラーメンを手に取ってみてください。舌を刺す痛みと、額に浮かぶ汗と、思わず漏れる「シウォナダ(시원하다:すっきりする)」というひと言――そのすべてを身体で味わってください。
そしてその瞬間、あなたの中で奇妙なことが起こり始めます。甘辛い。あなたは日本人の友人が使ったこの言葉を、初めて体と言葉が一致する形で理解するでしょう。それはあなたのふるさとの辛さです。それでいて、それは日本人の舌を通したあなたのふるさとの辛さでもあります。ひとつの漢字「辛」が日本語の中でひそかに営んでいるふたつの王国のことを、あなたはもはや頭ではなく舌で、そして同時に複数の民族性を持つ、この複雑な身体で理解することになるはずです。それは、外国で何年も暮らした者たちが、みな通る一種の通過儀式かもしれません。自分のふるさとの味が、他者の言葉でどのように変容するか。その変容を丸ごと受け入れるとき、あなたはようやく「言葉と味は同じものなのだ」ということに気づくのです。
【参考文献】
Deutscher, Guy. (2010). Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages. Metropolitan Books.(椋田直子訳『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』ハヤカワ文庫、2022年)
Garfinkel, H. (1967). Studies in Ethnomethodology. Prentice-Hall.
Norman, Donald A. (1993). Things That Make Us Smart: Defending Human Attributes in the Age of the Machine. Addison-Wesley.(佐伯胖・岡本明ほか訳『人を賢くする道具――インターフェース・デザインの認知科学』ちくま学芸文庫、2022年)
Rozin, Paul, & Schiller, Deborah. (1980). The nature and acquisition of a preference for chili pepper by humans. Motivation and Emotion, 4(1), 77-101.
Rozin, Paul. (1999). Preadaptation and the puzzles and properties of pleasure. In D. Kahneman, E. Diener, & N. Schwarz (Eds.), Well-being: The foundations of hedonic psychology (pp. 109-133). Russell Sage Foundation.




