第51回
海
2026.08.27更新
夏休みの宿題の時間だ。周防大島の僕たち家族の学区域の小学校の生徒たちは、代々こんな宿題を出されている。
「宮本常一 『あるく みる きく』」
周防大島の、小学校すぐ近く出身の民俗学者になぞらえて出されている課題だ。おじいちゃんおばあちゃんや地域の年配の方に話を聞いたり、本で調べたりして紙にまとめて、今住んでいる周防大島を知ろうとする取り組みである。何年か前に先にクリアした高校生の娘は、
「あの宿題は小学生には難しかった」
といっていた。何を書いたらいいか小学生にはわかりにくい、と。近くの人の話を聞いて書けばいいわけだから、簡単そうにも思うけど、意外と大人でもこのことを行うのは難しいのかもしれない。それが歴代の子どもたちの伝統になっていて、今度は小5の弟にまわってきた。
お盆の少し前に、義父のお兄さんが亡くなったという出来事があった。周防大島の中心部の一つである久賀(くか)という大きな集落の家族である。その葬儀に僕たち家族も参列した。葬儀には今では珍しいほど多くの有縁の方々が列席されていて、また遺族である義父たちは仲の良い兄弟だったのだということがとても伝わってくるセレモニーだった。
小5の息子は、このとき初めてこの家族が親族だということがわかったらしい。それまでは自分のお姉ちゃんの友だちだと思っていたそうだ。仲の良いおじいちゃんおばあちゃんが思い出話に花を咲かせ、また次の瞬間泣いている。そんな場面に居合わせた。息子から「この家族の集まりには、また行きたい」という言葉もあって、何かが伝わっていたようだ。
そんなこともあってか、件の宮本常一の宿題は、僕の義父----息子のおじいちゃんに、実家にまつわる話、久賀での昔の生活をを聞くことになった。おじいちゃんの家はもともとは旅館で、そのあと「イワシ網」の網元、つまり漁師になり、そのあと魚屋と仕出し屋へと変遷していった。
息子は、さかのぼること2021年にいりこ漁の見学で船に乗せてもらっていた経験があった。そのときはまだ小1。保育園時代のパパ友がイワシ網の漁師で、「一緒に乗って見学してみませんか?」と誘ってくれていたのだった。コロナ禍で動き回れないこともあったし、初めてのことでもあったし、なんとも得難い体験をさせてもらえた。周防大島沿岸は、今でもいりこ漁の盛んな地域なのだった。
なので、息子は「いりこ漁の昔」をおじいちゃんから聞いて、今と比べることに決めた。親子三代団らんの時間にその話の場を設けると、さっそく昔の興味深い話がたくさん出てきた。義父がまだ小学高学年のころのこと。だから、今の息子と同じ目線の景色を語り始めた。
いりこ漁は昔も今も変わらず、2艘で1セットで1つの大きな網をたぐっていく。加えてもう1艘の小舟がガイドのような形でまわりを航行する。計3つの船。今はクレーンのような機械で水揚げするので、1艘につき多くて3人、少なくて2人の船員だけだそう。一方、義父がみていた光景は、1艘につき10人で、計20人の手の力によってたぐり寄せる。想像するだけで重そうだ。さっそく今と昔で異なる風景が見えてきた。
もっといえば、当時は魚群探知機がない。「それでどうやってイワシの群れを探すの?」と聞くと、
「『鼻』といって、まあいわゆる岬ね。そういう高いところに誰かがのぼって、イワシが湧いているところを目で見つけるんだよ」
と。のぼって見つけたあと、どうやって沖の船に伝えていたかは「わからない」といっていた。
山の上から魚群を見て、その群の動向を見、停止しているか、ちょうどアジロの一番いい所へ来たかなどを見はからって、手船(ムラグミの乗っている船)に合図する。これによって手船は網船をミトにまわらせて、網をおかせるのである。ミトというのはイオドリを海におとす位置である。
山の上からの合図は声によることもあるが、たいていはホテ(布手)である。そのホテを沖から見ていて、ムラグミからさらに網船に合図する。(「宮本常一著作集38 周防大島を中心としたる海の生活誌」)
宮本先生の貴重な記述になるほど、と膝を打つ。というわけにはいかず、読んでも説明の説明が難しくてスッとはイメージできない。
ムラグミ:イワシ網の親方 / イオドリ:(網の中心の)袋
つまり、山の上から沖の親方の船「手船」へ、布の動きまたは声によって合図が出され、2艘の網船をイワシの群れのポイントに降ろさせる、という流れのようだ。
この網船2と手船1の計3艘のセットは、まさに僕たち親子が体験したものと全く同じだった。
山の上の松の木だとかあるいは畑の畔の櫓の上だとかで見張りをしている。すると脚下の海に魚群が風のごとく黒く動いているのがよく見える。(同上)
山から見る方法である「山見」が比較的最近まであったのが、「魚探」に取って代わった、ということだった。もちろん現代でも風や波を見ながら、五感で感じつつ魚探を使うということだと思う。そしてここで書いた今と昔の中間くらいの船のあり方も、島にはあるそうだ。
そのほか、イワシを「いりこ」にするために乾燥させる方法は、かつては「天日」で、干すための竹で作られた長方形の「ス」や袋などもすべて手作り。天候を見て、また夜露朝露を避けながら出したりしまっていた。大変な作業だっただろうと想像する。今はやはり乾燥機だ。当時少年だった義父は、砂浜で野球をしたり、泳いだり、貝を採ったり魚を獲ったりして遊びながら、子どもながらにそれらイワシ網にまつわる光景を目に焼き付けていた。
このとき、横で聞いていた義母が、
「そうよ、昔はすっごく魚が湧いていて、そこに石を投げたらバアーっと跳ねるのよ。すごかったわよ~」
と教えてくれた。今では考えられないくらいと。イワシが浜に打ち上がるのでそれを拾っていたし、貝もたくさん獲れていたそう。今度は父が重ねて、
「昔は砂浜がずっと続いていたんやけど、今度は『砂を売る』っていうのが起こったわけよ」
という。父によれば、高度経済成長とともになのか、おそらく工事現場で砂を大量に使うようになり、その流れに伴って海の砂が売れるように。そうして砂浜の環境が変わっていったという。母は、
「昔と比べて魚も貝も減ったわよ」
と相槌を打つ。僕は、昭和のその頃は道路の造成や、地域の要請などで護岸工事が行われて、そういったことが環境の改変につながっていたのかと思っていたけれど、その前に直接的に砂を採ることもあったらしいことを知らなかった。本当かな? と思って、同じ地域の本屋さんのご主人に聞いたところ、
「うーん。どうでしょう。たしかに小学生のころに、沖の砂をポンプで吸い上げて、陸(おか)の埋め立てに使っているのは、実際に見たことがあります」
と教えてくださった。実際のところはどうだったのだろう。
ところが昭和二十三年の南海地震による地盤沈下から、海岸に防潮堤の築造が普及していった。そしてほとんどの浜を消していった。そればかりではなく高い波返しをつけた。これによって町民は海と絶縁することになった。(「東和町誌」)
砂のことは書かれていないけれど、そういうターニングポイントがあったようだ。この分厚い郷土史も、「故・宮本常一先生がほとんど一人で執筆されました」とかつての町長の記述がある。
それまでは海は町民にとっては親しい場所であった。干潟では貝を掘ったし、浜ではいろいろの作業をし、また歓談の場でもあった。子供にとってはこの上ないよい遊び場であり、夏は気楽にその海で泳いだ。
(中略)海との絶縁は島の人たちの性格をかえはじめている。(中略)海は島民にとってはすぐそばにありながら遠い世界になりつつある。(同上)
想像が及びきらないけれども、この激しめの描写に、このころ大きな変化があったように感じられる。このあたりは、もう少し調べて深めてみたいところだ。
***
僕が住んでいる場所で運営をし始めた元・公民館で、今度初めて映画上映会を行うことになった。目下、その準備をしている最中だ。映画上映は、以前からの願いの一つだった。ずっと前、バンドをやっていたときからご縁をもらっていた広島のミニシアター「横川シネマ」さんの信じられないサポートのおかげで、夢のようなことが実現しようとしている。
2年ほど前に島に遊びに来てくれた愛媛の20代の方たちに、学生時代のことを振り返りながらこんなことをいわれた。
「近くに映画館があるかどうかが切実に重要だった」
衝撃を受けた。その感覚がなかったことに気づいた。すぐにアクセスできる場所で僕は生活してきたから。でも、映画を通した体験は特別で、映画を観ること、観る前、観た後も特別だということはわかる。これから、不定期ながら少しずつ作品を上映できたらと計画している。
その準備をしているなかで、思いがけない物語に出会った。海を通して、海を越えて。海外との仰天エピソードがすぐ近くに小さく転がっていた。

ーーお知らせ・周防大島・和佐星舎☆今後の行事予定はこちらです!ーー
9月4日(金)夜 映画上映会+ピーター・バラカンさん来島
10月4日(日)夜 「ダンス・イン・ザ・ファーム」イラストのTim Kerrさん来島 など




