第52回
世界は狭くて広い
2026.10.04更新
まもなく、ティム・カーが来る。アメリカのテキサス州・オースティンのアーティストで、2021年の「ダンス・イン・ザ・ファーム」の表紙イラストを描いてくれた人。まさかの3度目の来島になり、3たびこのことを書いている。島では和佐星舎でライブを行う。またあらたにびっくりしたことがあった。
僕は、ティムの最初のバンドBig Boysの輸入盤CDから入って、彼の音楽や多くのバンドをプロデュースした音源、そして日本語に翻訳された雑誌インタビューなどを通して大きく影響を受けてきた。そのCDのジャケットやライブのフライヤーの画像で触れてきたアーティストとしてのあり方。かつて、彼のバンドと共演する予定があったものの、スケートボードをしていて転んでけがをしたために来日叶わずだったというエピソードがある。スケーターなのだ。
最近、島でできた料理屋の友人とそれらの話をしていたら、
「DOG TOWNとかの時代だよね!?」
と反応があって盛り上がった。しょっちゅうフライヤーを持っていく島の対岸の進物屋さんのご主人からも同じようにいわれた。共通言語のようだ。
そのティムが、10月にUp Around the Sunの公演で来日。友人のJerryと行っているアメリカン×アイリッシュともいうべき、疾走感を感じる新しいルーツミュージックのアコースティックユニットだ。4日の周防大島を皮切りに東京までのライブツアーが行われる。ツアーの招聘は前2回の来日ツアーを担当したMasakiさんと変わって(Masakiさんありがとう!)、東京のTom's Cabin トムス・キャビンという、ずっと古くから活動するコーディネーターだ。
先日、お隣岩国のお店「ヒマール」辻川さん夫妻が島に訪ねてくれた。今回のツアーでの周防大島の次の会場だから。辻川さんと一緒に、真夏の「星のビーチ」の木陰でジェラートを食べながら話していると、一冊の本を手渡された。
「トムス・キャビンの麻田さんの本がおもしろかったから、ちょっと読んでみてください」
ヒマールさんもミシマ社の本を以前からたくさん扱っていて、僕がこの出版社を知ったのもこのお店がきっかけだった。だからこういった「本の手渡し」は重大事だ。麻田さんは、来日のブッキングエージェント「トムス・キャビン」を立ち上げた方である。「聴かずに死ねるか!」という激しめのタイトルに、「小さな呼び屋の全仕事」と副題がついている。
しばらく読む時間がないまま机に置いてある時期が続いた。そんなある日、裏表紙にひっくり返してみると、コピーが目に飛び込んできた。
「ピーター・バラカンが推薦」
本の帯の裏に書いてあった。ピーター・バラカン・・・。そう、今読む時間が作れなかったのは、9月に和佐星舎で行うことになった「映画上映会」の準備をしていたから。初めての上映会、その日にトークゲストとして登壇してくれるのがピーター・バラカンさんなのだった。そのイベントの告知を島で始めると、
「なんでバラカンさんが来るのですか? どういうつながり??」
といろいろな方にいわれた。宮本常一記念館でもいわれた。つながりなんてもともとはなかった。ラジオで聴く声、テレビで見る顔、いち音楽リスナーとして触れてきた。今回は、映画の上映機材をお世話してくれた会社のNEGAさんの計らいで初めて実現することになったのだった。初めてかける映画は、ビートルズの最初期のドキュメンタリー、それをバラカンさんが解説してくれることになった。すごいことだ。
僕自身はパンクに思いっきり影響を受けたバンドをやってきたわけだけど、あるときからビートルズを真剣に味わうようになった。裏方の人の分厚い本を読んで研究したりもして、とくに初期のことを想像していた。あまりに知らなかったので、想像で補うしかなかった。
そんな映画にまつわることをずっと考えていた際に、不意に「本の帯」。これはもう今が読み時か、とばかりにパラパラめくると、最後にバラカンさんと麻田さんの対談が掲載されているではないですか。14ページにもわたって。ええっと思いながら読むと、お二人がずいぶん前から親しい間柄だったこと、音楽好き同志の応酬であることがひしひしと伝わってきた。僕が生まれる前からの話だった。
そこから本を最初に戻って、読み始めた。版元はリットー・ミュージック。帯文から伝わってきたのは「あのバンドも、このバンドも、あの人も」ジャンルを問わず、驚くほどの数のアーティストを初めて日本に呼んだのは、この麻田さんだったということだった。その音楽の流れがあって、僕は楽しく漂えていたのか。
物語では、もともとアーティストとして活動していたのになぜ麻田さんが呼び屋----プロモーターになったのかが描かれていく。
それから飛行機を乗り換えてロサンゼルスへ。「sing-out '65」の仲間の紹介で日系人のスエナカ家に居候させてもらうことになった。(「聴かずに死ねるか!」p.26)
若かりし頃にミュージシャンとして何度も渡ったアメリカでの一コマだ。ん? スエナカ? あれ、うちの隣もスエナカだ。
僕が13年前に島に移ってからずっと気にかけてくれている末中さんという方がいる。年は80歳。今年その節目に消防団を勇退されて、かわりに僕が新米として入団した。
13年前の頃は自治会長が宮本さんで、宮本さんも当時から僕たち家族のことを気にかけてくれていた。地区の放送がかかるときのジングルは、爆音の演歌だった。パァ~パラパラパラ~。それがなんとも新しく懐かしく「和佐だなあ」と思うシーン。そのあと会長は末中さんに変わり、僕は初めて新米ペーペーの役員に任命された。それは思い切った抜擢であり、末中さんの「移り住んだばかりで、いろんな人と接点ができたほうがいいと思うから」という計らいだった。
「ここは末通し(すえどおし)っていうんだよ」と末中さん。僕らの家の前に通る道のことをそう説明してくれたこともある。陶晴賢の家臣団が戦で安芸の宮島から落ちて来て、ここに隠れたから「すえの通り」ですえどおし。って戦国時代の話! たしかに海の道でみると近い。陶だから字を変えて「末」。その落人のことに関係して、この地域では正月に餅をつかないというエピソードも宮本常一の記述で確認できる。このことをいつも思い出す。
時代はくだって、末中さんは和佐星舎になる前の公民館の起源も教えてくれた。地元の「末広さん」という方による郷土史の冊子とともに。
麻田さんの本を片手に「いやあ~まさかな」と思いながらスエナカ姓をネットで調べてみると、全国で100人前後くらいと非常に珍しい姓であることがわかった。いやいやいや。でも、周防大島は早くから移民をハワイへ輩出する歴史が刻まれている場所だった。山口県=長州藩であること、また当時の外務大臣が長州閥の井上馨で、明治政府の「官約移民」という制度が島や近隣で適用されていた。そののちに民間での移民もたくさん出て行った。末中さんのとなりのシゲハラのおばちゃんは、ブラジル生まれだった。
いや、でもでもそんなことはないだろう、という思いですぐに末中さん家に行く。むしろ「違う」といってくれ。いやほんとだったら? どうしようとにかく確認したい。現場にいくと、シゲハラの娘さん夫婦とみかんの消毒用ポンプのトラブルについて井戸端会議中だった。
「末中さん、あの、お忙しいところすみません。ロサンゼルスに親戚っていますか?」
と突然聞く。
「ああ、いるよ」
ときた。あらあっさり。ほんとに?
「キングおじさんっていって、ロサンゼルスで山口県人会の世話人やってたのが、僕のおじさんなのよ」
え。おじさん。ロスで世話人。
「キングおじさんには僕のいとこにあたる娘がいて、毎年ここに来てるよ」
ええっ。もしかして。そこで家にとんぼ返りして、ツアーのことで直接やりとりが始まりつつあった麻田さん本人に、こちらも突然おそるおそる訊いてみた。「初めまして・・・本に書いてあるスエナカさんには、娘さんがいましたか?」云々。すると、
「たしかに娘にナオミさんという方がいて、とときどきメールをしています」
というではないですか。いとこはナオミさんという名前ですか? 聞いてみます。そうしてもう一回末中さんのところにいった。
「いとこの名前は、ナオミさんですか?」
------。
「そうだよ、ナオミだよ」
がびーん。こんなことってあるのだろうか。その直後に、今度はロスのナオミさんから直接麻田さんにメールが行き、速攻で裏どりできた。50年あまりの時を経て、海を越えて、極めて近所のめぐり逢い。なんてことだ。
ちなみに、その本の担当でリットー・ミュージックの編集の方からは、
「中村さんを以前取材したことがあります」
といわれてこちらもがびーん。僕にとって当時ほとんどなかった貴重な「ギター専門誌」の取材で、忘れていた自分の20年前の姿がメールに添えられていた。
***
その一件を、たまたま別件でやりとりしていた東京の与田太郎さんに連絡した。与田さんは、僕が銀杏BOYZというグループに入る前のバンドYoung Punchのときから面倒を見てくれている音楽ラヴァ―でDJでディレクターであり、現在はレーベルKiliKiliVillaを共同運営している人だ。
じつは与田さんのお母さんが島のはちみつなどを買ってくれる方で、周防大島出身の方だった。それは島に来てから知った。さらに僕は与田さんの親族の方から「位牌」についての相談を受けたことがあった。なぜかというと、「おばあちゃんが、アメリカへの移民」だったから。海を越え、宗教を越えた「位牌」の考え方はどうするべきか。ここでも周防大島の歴史が出てくる。
そうしたら、今度は与田さんからこんな話が来た。
「おれさ、昔麻田さんの手伝いしてたんだよ。アメリカのライブとかで」
って、ええ、ちょっと待って。「若いころだから手伝いといっても何も知らなかったときだけど」といわれてもあまり話入ってこない。そんなに近いところで。ということは、
麻田さん→与田さん→中村
という若い頃の音楽の入門の系譜があったってことか。いろいろ考えて、このたびは本を持ってきてくださったヒマールさんありがとうという気持ちになった。
***
麻田さんの本には、コウチヤマという日系の家族にもお世話になったというエピソードが出てくる。ユリ・コウチヤマという方のおうちだ。コウチヤマ・・・。
今、うちの息子の担任の先生がコウチヤマなのだった。
スエナカ姓と同様に全国的にも珍しい名前で、やはり山口県あたりに多い名前なのだそう。ただ、さすがに先生のご家族とアメリカのコウチヤマさんが近いかどうかは今のところわからない。
ユリ・コウチヤマのことは、僕は恥ずかしながらこのたび初めて知った。アメリカの公民権運動に身を投じた日系人だった。マルコムXが凶弾に倒れた際にいち早く駆け寄ったときの写真も広く知られているという。
そして冒頭の話に戻る。ツアーに同行する京都のメンバーのBoscoさんからこんな連絡があった。
「たしかティムはユリ・コウチヤマの絵も描いていたと思うよ。アトリエで観た記憶がある」
と。ティムは画家でもあり、自分に影響を与えてくれた人の肖像画をたくさん描いている。僕の本の表紙についてお願いしたのが5年前。描いてくれたことが本当に尊く、あらためてありがたい気持ちになる。いろいろなことがめぐっている。
この夏前くらいから、アメリカ本国でティムの最初のバンドBig Boysのドキュメンタリー映画が公開されはじめた。日本でもそうだけど、世界的に伝説のバンドなのだ。
そして、今回の日本ツアーでも各地で上映出来たらという話が持ち上がっていた。出演者で当事者であるティムも「今のところDIYの上映だよ笑」という思いで、その時点では配給も日本語字幕もついておらず、英語のオリジナル版しかない状況だった。どうしても観たい、島でも上映できる環境は整っていた。
Big Boysの音楽や表現が好きなのに、どんな背景だったのか、日本ではこれまでなかなか知りえないテキサスの音楽シーンだった。観たい。
ここで話はバラカンさんの話に戻る。ビートルズ上映とバラカンさんの話があったので、その配給をされている会社のNEGAさんに、新たな映画に日本語字幕がつけられるかをおそるおそる訊いた。すると、
「できますよ」
といってくれた。ギリギリのスケジュールなのに。ありがたい。しかも日本で上映しやすいマスターの制作までやってくれると。そうしたら、全国各地にいる僕みたいに好きな人たちも観られるかもしれない。
そうして今度は、アメリカの制作チームとのやりとりが始まる。英語もそんなにとくいではないけど、観たい一心だ。制作チームの人たちも、会ったことはないのにやりとりがとてもハートフルに感じられた。それはやっぱりティムのような精神が好きで似たような人どうしだからか。遠いのにつながりを思う。
さらに映画についてのプレス用インフォメーションが英語で送られてきた。そこには、Big Boysについてこう書かれていた。
彼らの音楽は、予測可能になることなくアグレッシブであり、エッジを失うことなくユーモアに溢れ、彼らを取り巻く広範なクリエイティブ・コミュニティと切り離すことは不可能でした。(中略)
彼らは、音楽とアート、パフォーマーと観客、パンクとファンク、ミュージシャンとスケーターの間の境界線を曖昧にしました。
なんだか、じわじわ、胸が高まるのを感じた。僕はこのことを思い出していた。ティムが表紙を描いてくれた本の帯にミシマ社の紹介文として、
すべてをまたいで今を生きる、
切実でおかしみあふれる日々のはなし
と記載してくれていたのだった。「境界線の行き来」、そのことに僕も今なお関心を持っている。このプレス資料から、自分が生まれたころに結成されたバンドの姿に、意外なほど影響を受けていたのを目の当たりにしてしまった。
この帯には独立研究者の森田真生さんが素晴らしいコメントを寄せてくれていて、その森田さんとは毎週のラジオを通しての学びを続けてもうすぐ丸6年となる。
このテキサスのバンドの映画も、もうすぐ日本で公開される。バラカンさんは、NHKのラジオでこのツアーのことと和佐星舎のことを紹介してくれた。ここからの出会いはどうなっていくのだろう。
***
それにしてもスエナカさんにはびっくりした。「キングおじさん」って、いかにもブルースな名前でこの流れにぴったりすぎる。感嘆した。そうこうしていたら、末中さん自身がまとめたという家系図を見せてくれた。そこには手書きで、
「金吾」
と書いてあった。キング・スエナカじゃなくて末中金吾。
「なにいってんだよ~、金吾おじさんだよ。キングじゃないよ」
と笑っていた。ロサンゼルスじゃなくて、なんか周防大島の匂いだった。2026年夏の日の午後だった。




