おせっかい宣言おせっかい宣言

第56回

再発見される日本

2019.03.13更新

 台湾生まれの伊華(以下、イーファ、と書く)は、ロンドン大学衛生熱帯医学校に留学していた時の同級生である。出会ったころは、おたがい30歳にほとんど手の届きそうな、20代後半ぎりぎりであった。いまやおたがい、当時の自分たちの年齢くらいの息子たちふたりずつ、いる。先日、東京から京都に新幹線で向かっていたら、イーファから連絡がはいった。「ねえ、わたし、いま、どこにいるとおもう? 名古屋空港に着いたの。今から下呂温泉を経て、金沢と白川郷に行くの」という。名古屋に30分くらい途中下車しても、京都での仕事の約束には間にあうと思い、イーファに会うために名古屋駅で降りることにした。「名古屋駅の新幹線ホームまで来れる?」と、乗っている新幹線のナンバーと、号車を伝えておいたら、彼女はホームで待っていてくれた。抱き合って喜ぶ私たちを、ご夫君のチャン氏がうれしそうに写真に撮ってくれている。

 台湾生まれのイーファとマレーシア生まれのご夫君、チャン氏は、今はシンガポールに住んでいる。ロンドン大学でそれぞれに学位を取ったふたりは、住むところと職を探していて、シンガポールにいい条件でスカウトされたのである。シンガポールは学歴の高い華人たちを世界中からあつめている、と風の噂に聞いてたが、彼らがシンガポールに仕事を得て働き始めた時、なるほど、そういうことか、と思ったものだ。

 イーファは、台湾保健省につとめる保健師だった。台湾政府から奨学金をもらってロンドン大学の「開発途上国における地域保健」の修士課程にきていたのだ。わたしたちをふくめて、32名25カ国から、ほとんどが30歳以上の仕事の経験豊富な人たちが集まっていた。ヨーロッパの人、アフリカの人、ラテンアメリカの人たちが多い中、私たちは一番若いほうで、しかもサイズとしてもいちばん小柄なので、クラスメートたちの妹みたいに扱われていた。コースのクラスメイトからも、住んでいる大学の寮の仲間からも独身の彼女は結構人気があり、いろいろな男性から声をかけられていたようだが、彼女は見向きもしなかった。「Chizuru、わたしはボーイフレンドなんか探していないの。私はロンドンに夫をさがしにきたのよ。台湾は先々、どうなるかわからないと思うし、台湾で働く気はないの。夫を探して、一緒に結婚してどこか別の国で働くのよ」と、きっぱりと言っていた。台湾政府の奨学金もらってるんでしょ、と言ったが、それはそれ、ということらしかった。彼女のロンドン留学の理由は、もちろん学位の取得だが、それと同時に「夫さがし」であることは明確なのであった。

 そして、彼女の定義では、夫たる人は「チャイニーズでないとだめ」ということらしかった。彼女の定義のチャイニーズというのは、中国の人、というわけではないのだ。メインライド中国の人を探しているわけでも台湾の人を探しているわけでもない。彼女の言うチャイニーズとは国籍ではなく、「華人」のことである。つまりはチャイニーズ・オリジンの人で、ロンドン大学に学位を取りに来るくらい「お勉強」をしていて、将来性があって、そこそこいい人、というのがよいらしい。そのような目で見ると、ロンドン大学の大学院生の寮には、たくさんの「華人」たちがいた。中華人民共和国から来ている留学生は当時、そんなにお金を持っていなかったからか、料理に熱意があったのか、とにかくいつも寮の食堂で、せっせと料理を作っていたから、わりとすぐわかったが、みまわしてみると、ほかにも台湾からの留学生、チャイニーズ・オリジンのイギリス人、シンガポール人、マレーシア人、そして、モザンビークとか南アフリカ国籍の人たちがたくさんいた。この人たちは全て「華人」。すなわちチャイニーズである。

 イーファのおめがねにかなったのは、マレーシアからユニヴァーシティー・カレッジ(と呼ばれる大学院がロンドン大学にある)に留学し、電子工学の分野で学位を取ろうとしているチャン氏であった。マレーシアは当時から、マレー人優遇政策ブミプトラの影響で、マレーシア国籍の華人たちはほとんど政府奨学金を得ることはできないので、自費留学しているとのこと。そして、彼自身も「マレーシアに帰ってもチャイニーズ・オリジンの自分が就職できるところはなさそうなので、マレーシア以外の就職口を探している」と、イーファと同じく、故郷に帰る気は無さそうだった。

 毎日イーファと一緒にすごしていたわたしには、彼女が恋に落ちてなどいないことは明白であったが、彼女はチャン氏を夫にすることを心に決めたらしい。生々しい話であるものの、モーニング・アフター・ピルのイギリスにおける入手方法などを相談されたりしたから、急速に親しくなったことは確かなようで、それから一年以内に、彼らは結婚、そしてシンガポールで職を得て、家族を作り、暮らしているのである。台湾政府の奨学金もらったのに、台湾に帰って仕事しなくていいの? とわたしはきいたが、「ペナルティは叔父が払ってくれた」とのことで、イーファのシンガポールでの未来のために、台湾にいる叔父が、台湾政府に奨学金を返してくれた、ということらしかった。シンガポールで就職し、良い給料を得て、子どもたち二人を育て、フィリピンとかエジンバラとかに投資のための不動産など買ったりしているようだ。たった一カップルではあるけれど、彼らのようすから、インテリ層の華人社会の人たちの振る舞いが、ほの見えてくる。

 そして。こういう人たちが足繁く日本に通っているのである。ビジネスをしている人たちではないから、お金と言ってもしれているものの、それなりのお金もあり、地位もあり、影響力もある、華人たち。イーファは、すでに7回くらい日本に観光で訪れている。そのうち二度は私に会いに来たのだが、そのほかにもチャンとふたりで東京、京都、など当然、メインの観光地は周り、いまは、千歳空港に直接行って、富良野に行ったり、今回のように名古屋空港に来て、下呂温泉に行ったりしている。下呂温泉でゆかたをきて、日本食を食べている写真が送られてきて「わたしたち、本当に日本が大好き。清潔だし、みんな親切でていねいだし、食事は美味しいし。風景も素敵。もう、日本に来るとほっとするの。ここに移住したい!」と、彼女は言う。そして、こうやって日本に足繁く来ているのは彼女たちだけではなく、彼女たちのシンガポールや台湾やマレーシアの同僚、友人たちは、こぞって、「旅行というと、日本がいい」といって、日本観光のリピーターとなっているのだそうだ。そして彼女たちのいく先は、すでに、メインの観光地から、日本人でもなかなかいかないような、地方都市へと向かい、そこで一層日本のことをさらに、気にいることになるらしい。

 日本の人たちのていねいな対応や、地方のおだやかさが発見されていっているさまは、まるで明治の開国当時のようではないか、と思う。開国当時日本にやってきた西洋人たちが開国当時の日本を可愛らしい箱庭のような国、と形容したように、今の日本はそのこまごまとしたよきところが、あらためて外国人に再発見されている。そして発見している人たちは西洋人ではなく、華人をはじめとするアジアの人たちである。わたしたちには、ほぼあたりまえであるような、日本の美しい小さな細々としたことが愛されている。それが戦争で行われてきたことの免罪符にならないことは誰だって知っている。しかしこうした個人的な印象の積み重ねこそが、国の印象を変え、関係性を変えていくきっかけでなければ、なにがきっかけになりうるというのか。彼女たちをはじめとして、日本に何度も通ってきている華人社会の人たち、アジアの人たちに愛される日本であり続けたい。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

  • 『中学生から知りたいパレスチナのこと』を発刊します

    『中学生から知りたいパレスチナのこと』を発刊します

    ミシマガ編集部

    発刊に際し、岡真理さんによる「はじめに」を全文公開いたします。この本が、中学生から大人まであらゆる方にとって、パレスチナ問題の根源にある植民地主義とレイシズムが私たちの日常のなかで続いていることをもういちど知り、歴史に出会い直すきっかけとなりましたら幸いです。

  • 仲野徹×若林理砂 

    仲野徹×若林理砂 "ほどほどの健康"でご機嫌に暮らそう

    ミシマガ編集部

    5月刊『謎の症状――心身の不思議を東洋医学からみると?』著者の若林理砂先生と、3月刊『仲野教授の この座右の銘が効きまっせ!』著者の仲野徹先生。それぞれ医学のプロフェッショナルでありながら、アプローチをまったく異にするお二人による爆笑の対談を、復活記事としてお届けします!

  • 戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

    戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

    下西風澄

     海の向こうで戦争が起きている。  インターネットはドローンの爆撃を手のひらに映し、避難する難民たちを羊の群れのように俯瞰する。

  • この世がでっかい競馬場すぎる

    この世がでっかい競馬場すぎる

    佐藤ゆき乃

     この世がでっかい競馬場すぎる。もう本当に早くここから出たい。  脳のキャパシティが小さい、寝つきが悪い、友だちも少ない、貧乏、口下手、花粉症、知覚過敏、さらには性格が暗いなどの理由で、自分の場合はけっこう頻繁に…

この記事のバックナンバー

09月26日
第121回 その国の雰囲気 三砂 ちづる
08月26日
第120回 よく眠れる 三砂 ちづる
07月29日
第119回 縁起が悪い 三砂 ちづる
06月25日
第118回 学び続ける姿勢 三砂 ちづる
05月27日
第117回 タレフェイラ 三砂 ちづる
04月26日
第116回 道楽 三砂 ちづる
03月30日
第115回 時間がない 三砂 ちづる
02月29日
第114回 教師生活の終わり 三砂 ちづる
01月29日
第113回 洗濯機鎮魂 三砂 ちづる
12月29日
第112回 戸籍 三砂 ちづる
11月28日
第111回 家計簿 三砂 ちづる
10月26日
第110回 文化の衣と哀悼と 三砂 ちづる
09月29日
第109回 呪縛 三砂 ちづる
08月30日
第108回 one to one 三砂 ちづる
07月28日
第107回 自分の機嫌は・・・ 三砂 ちづる
06月27日
第106回 つかないぱんたー 三砂 ちづる
05月30日
第105回 タバコのある風景 三砂 ちづる
04月24日
第104回 人間が生きているということ 三砂 ちづる
03月29日
第103回 手仕事と伝統工芸 三砂 ちづる
02月28日
第102回 拒絶される恐怖 三砂 ちづる
01月28日
第101回 嫁と姑 三砂 ちづる
12月27日
第100回 もしも 三砂 ちづる
11月27日
第99回 子供と危険 三砂 ちづる
10月28日
第98回 結婚 三砂 ちづる
09月28日
第97回 オフレコ 三砂 ちづる
08月25日
第96回 子どもについて 三砂 ちづる
07月29日
第95回 ボーダ 三砂 ちづる
06月24日
第94回 長寿県転落 三砂 ちづる
05月29日
第93回 顔が見えない 三砂 ちづる
04月16日
第92回 初めての北米 三砂 ちづる
03月16日
第91回 ダーチャ 三砂 ちづる
02月13日
第90回 プリンセス 三砂 ちづる
01月06日
第89回 寒い冬、寒い日本 三砂 ちづる
12月09日
第88回 タレフェイラ、シュトレイバー 三砂 ちづる
11月17日
第87回 前提 三砂 ちづる
10月12日
第86回 産まなかった人は 三砂 ちづる
09月08日
第85回 ウォラムコテ 三砂 ちづる
08月19日
第84回 マジョリティーの変容 三砂 ちづる
07月18日
第83回 マスク 三砂 ちづる
06月08日
第82回 ペットの効用 三砂 ちづる
05月09日
第81回 名前 その2 三砂 ちづる
04月08日
第80回 名前 その1 三砂 ちづる
03月29日
第79回 運転 三砂 ちづる
02月24日
第78回 かけおち 三砂 ちづる
01月28日
第77回 夢をみた 三砂 ちづる
12月24日
第76回 若い女性を愛する 三砂 ちづる
11月26日
第75回 ナラマニヤン先生 三砂 ちづる
10月26日
第74回 クリス 三砂 ちづる
09月21日
第73回 知らなかった力 三砂 ちづる
08月05日
第72回 胸痛む夏 三砂 ちづる
07月12日
第71回 失われる教育 三砂 ちづる
05月25日
第70回 道ならぬ恋の行方 三砂 ちづる
05月06日
第69回 その次のフェーズには 三砂 ちづる
03月27日
第68回 還暦を超えても楽しい 三砂 ちづる
02月19日
第67回 献身のエトス 三砂 ちづる
01月23日
第66回 親を許す 三砂 ちづる
12月20日
第65回 更年期  三砂 ちづる
11月22日
第64回 記述式 三砂 ちづる
10月16日
第63回 スキンシップと強さ 三砂 ちづる
09月15日
第62回 かわいやのー 三砂 ちづる
08月15日
第61回 屈辱感 三砂 ちづる
07月10日
第60回 "きれいにしていなくっちゃ"遺伝子 三砂 ちづる
06月06日
第59回 クローゼット 三砂 ちづる
05月08日
第58回 男女の心中 三砂 ちづる
04月06日
第57回 アイ・ラブ・ユー、バット 三砂 ちづる
03月13日
第56回 再発見される日本 三砂 ちづる
02月08日
第55回 求められる、という強さ 三砂 ちづる
01月07日
第54回 そういう時代 三砂 ちづる
12月10日
第53回 女性活躍 三砂 ちづる
11月12日
第52回 共有する物語 三砂 ちづる
10月10日
第51回 変わる家族 三砂 ちづる
09月10日
第50回 アジアの旅 三砂 ちづる
08月07日
第49回 仏壇 三砂 ちづる
07月08日
第48回 ランドセル 三砂 ちづる
06月09日
第47回 自営業の減少 三砂 ちづる
05月17日
第46回 「手紙」という資料 三砂 ちづる
04月09日
第45回 爪を染める 三砂 ちづる
ページトップへ