おせっかい宣言おせっかい宣言

第60回

"きれいにしていなくっちゃ"遺伝子

2019.07.10更新

 パリに行ってきた。30年ぶりである。30年前のわたしは、ラテン世界を知らなかった。覚えかじった外国語は英語のみで、行ったことのある外国も「英国および英国の元植民地」であり、英語がちょっとできたら、なんとか"外国"では生き伸びていけるような気がしていた。そのあと、わたしはスペイン人を無二の親友とし、ブラジル人を子どもの父親とし、ラテンアメリカで10年生きてきて、おそまきながら、世界に「英語がちっとも通じなくて、英語なんか知らなくてもちっとも困らない」ところがたくさんあることを知ることになる。思えば当たり前である。日本だってそういうところなのだ。英語ができなくてもちっとも困らない。ましてや明治の先人たちの努力に始まる翻訳文化の豊かさのおかげで、英語のみでなく世界中の言葉の書物が、あっという間に日本語に訳されて、自分たちの言葉で読める。英語ができなくても困らないのだ。

 でもここで言いたいのはそういうことではなくて、日本にとって「外国」とはやっぱり「英語圏」である、ということだ。英語ができなくて日本では別に生活上困らないけれど、でも、日本で「外国語」と言えば、やっぱり英語なのであり、「外国」と思うときは、「旧イギリス植民地」であることが多い。日本にとっての外国は、イギリスであり、アメリカであり、アフリカ、と言ってもそのイメージはキリンやゾウのいるサバンナ、つまりは東アフリカっぽいイメージであることが多いのだ。旧英領、のアフリカである。英語的な発想と英語的な考え方と英語によるシステム。長い時間がたって、それらのシステムへの親和性も高いし、また、アングロサクソン的な考え方や暮らしぶりはけっこう日本人と似ているところもあったりするから、結果として、日本にいると、外国語イコール英語であり、外国といえばやっぱりアメリカにイギリス。これが日本でイメージしていた外国だった、ということに、わたしはまことに、おそまきながら、気づくのである。

 フランス語、スペイン語、ポルトガル語、(そしてイタリア語にルーマニア語)を話す「ラテン世界」というものがあって、そこには、アングロサクソン的、というか、英語的、というか、そういうものとは全く違う世界が広がっている。フランス、スペイン、ポルトガル、そしてラテンアメリカ全域。ブラジルはポルトガル語圏で、そのほかのラテンアメリカはスペイン語圏である。インターネットの普及は、英語の世界言語化でもあったようで、いまでこそこれらの国でも英語を習うことに余念がないようだが、ラテンアメリカでは、長く、第二外国語は英語ではなく、フランス語だった。人と人の間が近く、スキンシップが濃厚で、男と女の間に交わされるまなざしや会話は、いつも色っぽい。いまや職場で女性の服装や髪型を褒めたりするとセクシャルハラスメントと言われかねないが、これらラテン社会では、髪型を変えて職場に行ったのに、誰も何も言わないなんて、それこそが礼儀に反する。みんな、きょうもすてきだね、その髪型いいね、服がよく似合うよ、などと、臆面もなく褒めあうことに日々の生きがいを感じているので、誰も何も言ってくれない日本の職場に帰ると、なんだかおしゃれをする甲斐もないよう思えてしまう。これらラテン系の言葉には、親密な関係の異性を表す言葉が多彩にあって「制度的な配偶者」、「制度に関わらない配偶者」、「配偶者ではないがステディな関係」、「志を同じくする強い関係」、「からだだけの関係」などなど、それぞれ別の単語だったりして、その多彩さに極東島国出身の私はめまいがするようであった。

 そう、30年前にパリを訪れたわたしは、これらラテン社会のことを少しも知らなかったのだ。ラテンの言葉も学んだことがなかったから、パリの看板の単語ひとつ、わかりはしなかった。彼らがしゃべっていることばも、ちんぷんかんぷん。素敵な街の、素敵な人たち、と思ったけれど、ただのおのぼりさんだった。その後、30年の時間は、まず、わたしをポルトガル語話者にした。ブラジル人男性が二人の子どもたちの父親となり、家族として15年くらい暮らして10年ブラジルに住んだから、いやおうなしにポルトガル語を話すようになった。ブラジルという国の英語の通じなさは日本どころではないので、ポルトガル語を話さないと生きていけないのである。さらに、日本人にとっては、スペイン語、ポルトガル語は発音が日本語に近いせいもあり、英語よりずっと上達しやすい。さらに、ラテンアメリカの皆様は、スペイン語、ポルトガル語初心者に対して、それはそれはやさしいし、おはよう、と言えるくらいで、お前は天才か、と言わんばかりにほめてくれるものだから、みんなすぐに語学が上達する。わたしもポルトガル語を繰るようになって、ブラジルに限らず、ラテン世界に開かれていった。ポルトガル語とスペイン語は、方言程度の違いでお互いそこそこ理解できるし、フランス語もだいたい書いてあることはわかるようになる。Google翻訳などのインターネットによる翻訳は日々、向上しているとはいえ、まだ日本語からの翻訳は心もとない。しかし、フランス語―スペイン語―ポルトガル語間(おそらくはイタリア語もルーマニア語も)については、Google翻訳(おそらくexciteとか他のサイトも)は、ほぼ完璧に翻訳してくれる。最近、スペイン語圏、フランス語圏で仕事をするときは、ポルトガル語で資料さえ作れば、Google 翻訳さんが完璧に翻訳してくれることに助けられている。

 30年後に訪れたパリ、看板や標識や書いてあることがそこそこわかるようになっているし、会話もなんとなくわかり始めてきたし、フランス的文脈への理解も少しは進んで、本当に楽しかった。3年前に亡くなったフランス文学者、山田登世子さんが何度も書いておられるように、パリは、見て、見られる劇場都市である。カフェは道に張り出し、そこにいる人は飲み物を片手に会話を楽しみながら、道ゆく人を見ているし、また、道ゆく人に見られてもいる。年齢にかかわらず、男も女も実に魅力的であり、魅力的であろうとしている。いわゆる芸能人が年齢をかさねても綺麗な人が多いのは、人に見られる職業だからだ、というけれど、この街では、街を歩いているだけで、カフェで冷たい飲み物を飲んでいるだけで、常に人の視線を意識しているから、みんなが芸能人なみに、人に見られることを前提の自分、を作り上げているのである。

 こういうところにいると、年齢にかかわらず「きれいにしていなくっちゃ遺伝子」がオンになってゆくのを感じる。自分を見られるに値する存在にしていたい、という欲望が出てくる。年齢がいっているとか、あまり美人でない、とか、太っているとか、やせているとか、そういうことと関係のない、見て、見られる、ことによって自分でつくりあげていく、自信、というものがあるんだな、と思わせられる。それは、魅力的であろうとする不断の努力であり、パリ在住の方に聞くと「それはそれで、疲れる」とおっしゃるのだが、そういう努力は、なにより、女性自身の自己肯定感を高めていくこと、つまりは、今の自分を認めて、その自分をより良い方向に、自分がより快適である方向に持っていこう、とすることにつながるのではないのか。そして、そういう自信こそを、ほんとうの強さ、というのではないのか。

 2017年から2018年にかけて、ハリウッドを中心に巻き起こったセクハラ告発キャンペーン#MeTooに、フランスの大女優、カトリーヌ・ドヌーヴが意見文を出したのだが、彼女が言いたかったことは、要するに、女性は犠牲者で、男女差別に苦しむかわいそうな存在ではない、女性とは、嫌な人間に嫌なことをされたら、はっきりとノーをつきつけられる、単なるヘタな口説きと性的暴力くらいはみわけられる洞察力がある、嫌なことがあっても乗り越えられる、そういう強さと自己肯定感を持てる存在のはずだ、それこそがエンパワメントじゃないのか、ということだったと、私は思っているのである。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。1981年、京都薬科大学卒業。1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。著書に『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『少女のための性の話』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

  • いしいしんじが三崎に帰ってくる! 次の土日はいしいしんじ祭(1)

    いしいしんじが三崎に帰ってくる! 次の土日はいしいしんじ祭(1)

    ミシマガ編集部

    週末の土日はぜひミシマガ読者のみなさまにお伝えしたいイベントが開催されます。三崎いしいしんじ祭、5年ぶりの開催が決定しました!

  • 『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』ついに発売!

    『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』ついに発売!

    ミシマガ編集部

    『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』が、ついに書店先行発売日を迎えました!  時代劇研究家の春日太一さんが、時代劇のロケ地=聖地を巡り綴った、まったく新しい、時代劇+旅のガイドブックです。そのおもしろさを、たくさんの写真・動画とともにお伝えします!

  • 藤原辰史さんより 『小さき者たちの』を読んで

    藤原辰史さんより 『小さき者たちの』を読んで

    ミシマガ編集部

    『小さき者たちの』の刊行を記念して、著者の松村圭一郎さんと歴史学者の藤原辰史さんによる対談が行われました。 開始早々、「話したいことがたくさんあるので、話していいですか?」と切り出した藤原さん。『小さき者たちの』から感じたこと、考えたことを、一気に語っていただきました。その内容を余すところなくお届けします。

  • ひとひの21球(中)

    ひとひの21球(中)

    いしいしんじ

    初登板の試合で右手首骨折、全治三週間。が、しかし、日々着実に成長をつづける小学生のからだの、どこが生育するかといえば、それは骨だ。しかも末端だ。指先や手首の骨は、ほっておいてもぐんぐん伸びる。折れた箇所も、呆れるほど早くつながってしまう。

  • 春と修羅

    春と修羅

    猪瀬 浩平

    以上が、兄が描いた線をめぐる物語だ。兄はわたしの家から、父の暮らす家までしっそうし、そしてまた父の暮らす家から千葉の町までしっそうした。兄が旅したその線のすべてを、わたしはたどることができない。始点と終点を知っているだけだ。その点と点との間の兄の経験がどんなものだったのか

  • GEZANマヒトゥ・ザ・ピーポー&荒井良二の絵本『みんなたいぽ』が発売!

    GEZANマヒトゥ・ザ・ピーポー&荒井良二の絵本『みんなたいぽ』が発売!

    ミシマガ編集部

     GEZANのフロントマン、マヒトゥ・ザ・ピーポーがはじめて手がけた絵本『みんなたいぽ』を2023年2月22日にミシマ社より刊行します。絵は、国内外で活躍する絵本作家、荒井良二によるもの。本日2月17日からは、リアル書店での先行発売が開始しました。3月以降、各地で原画展やイベントを開催予定です。

  • 『おそるおそる育休』、大阪で大盛り上がり!

    『おそるおそる育休』、大阪で大盛り上がり!

    ミシマガ編集部

     こんにちは! 京都オフィスの角です。『おそるおそる育休』の発売を記念して、著者の西靖さんと、大阪・梅田の本屋さんを訪問してきました!

この記事のバックナンバー

02月28日
第102回 拒絶される恐怖 三砂 ちづる
01月28日
第101回 嫁と姑 三砂 ちづる
12月27日
第100回 もしも 三砂 ちづる
11月27日
第99回 子供と危険 三砂 ちづる
10月28日
第98回 結婚 三砂 ちづる
09月28日
第97回 オフレコ 三砂 ちづる
08月25日
第96回 子どもについて 三砂 ちづる
07月29日
第95回 ボーダ 三砂 ちづる
06月24日
第94回 長寿県転落 三砂 ちづる
05月29日
第93回 顔が見えない 三砂 ちづる
04月16日
第92回 初めての北米 三砂 ちづる
03月16日
第91回 ダーチャ 三砂 ちづる
02月13日
第90回 プリンセス 三砂 ちづる
01月06日
第89回 寒い冬、寒い日本 三砂 ちづる
12月09日
第88回 タレフェイラ、シュトレイバー 三砂 ちづる
11月17日
第87回 前提 三砂 ちづる
10月12日
第86回 産まなかった人は 三砂 ちづる
09月08日
第85回 ウォラムコテ 三砂 ちづる
08月19日
第84回 マジョリティーの変容 三砂 ちづる
07月18日
第83回 マスク 三砂 ちづる
06月08日
第82回 ペットの効用 三砂 ちづる
05月09日
第81回 名前 その2 三砂 ちづる
04月08日
第80回 名前 その1 三砂 ちづる
03月29日
第79回 運転 三砂 ちづる
02月24日
第78回 かけおち 三砂 ちづる
01月28日
第77回 夢をみた 三砂 ちづる
12月24日
第76回 若い女性を愛する 三砂 ちづる
11月26日
第75回 ナラマニヤン先生 三砂 ちづる
10月26日
第74回 クリス 三砂 ちづる
09月21日
第73回 知らなかった力 三砂 ちづる
08月05日
第72回 胸痛む夏 三砂 ちづる
07月12日
第71回 失われる教育 三砂 ちづる
05月25日
第70回 道ならぬ恋の行方 三砂 ちづる
05月06日
第69回 その次のフェーズには 三砂 ちづる
03月27日
第68回 還暦を超えても楽しい 三砂 ちづる
02月19日
第67回 献身のエトス 三砂 ちづる
01月23日
第66回 親を許す 三砂 ちづる
12月20日
第65回 更年期  三砂 ちづる
11月22日
第64回 記述式 三砂 ちづる
10月16日
第63回 スキンシップと強さ 三砂 ちづる
09月15日
第62回 かわいやのー 三砂 ちづる
08月15日
第61回 屈辱感 三砂 ちづる
07月10日
第60回 "きれいにしていなくっちゃ"遺伝子 三砂 ちづる
06月06日
第59回 クローゼット 三砂 ちづる
05月08日
第58回 男女の心中 三砂 ちづる
04月06日
第57回 アイ・ラブ・ユー、バット 三砂 ちづる
03月13日
第56回 再発見される日本 三砂 ちづる
02月08日
第55回 求められる、という強さ 三砂 ちづる
01月07日
第54回 そういう時代 三砂 ちづる
12月10日
第53回 女性活躍 三砂 ちづる
11月12日
第52回 共有する物語 三砂 ちづる
10月10日
第51回 変わる家族 三砂 ちづる
09月10日
第50回 アジアの旅 三砂 ちづる
08月07日
第49回 仏壇 三砂 ちづる
07月08日
第48回 ランドセル 三砂 ちづる
06月09日
第47回 自営業の減少 三砂 ちづる
05月17日
第46回 「手紙」という資料 三砂 ちづる
04月09日
第45回 爪を染める 三砂 ちづる
ページトップへ