おせっかい宣言おせっかい宣言

第45回

爪を染める

2018.04.09更新

 爪を染める。つまりは、マニキュアをすると、なぜあんなに気分が高揚するのだろうか。つまりは「テンションが上がる」のだろうか。綺麗に手入れされ、美しい色で染めた爪は見るだけでうれしいし、さて、今日もここからがんばろうという気にもなれる。

 先日、若い頃10年住んでいたブラジルに、短期間だが出張した。ブラジルに行くと、まず、美容院を探して、飛び込む。ブラジルではほとんどの美容院は、髪を整えるだけではなく、ネイルサロンでもあり、大勢のマニキュアをやってくれるお姉さんたちが待機しているのである。

 日本で今、ネイル、というと十数年前(2000年をかなり過ぎた頃)から大変な勢いで普及し始めたジェルネイルのことを言うと思う。確かにジェルネイルは仕上がりがとても美しいし、いろいろなデコレーションも簡単で、持ちも良く、数週間は大丈夫なので、人気があるのも当然であろう。基本的にネイルサロンでやってもらうが、人気があるとはいえ、かなり高価なものだ。自分でもできないことはないようだが、上手にジェルネイルをするのも、ネイルを落とすのも、一苦労である。しばらくネイルサロンに通ってジェルネイルをやってもらっていたこともあるが、なんとなく、「大層なことをやっている」ような気分になり、ちょっと敷居が高くなってしまい、爪もいたむような気がして(ジェルネイルの方がいたまない、という方もあるが)、通わなくなってしまった。要するに、ブラジルでやっているような気軽さがなかったんだ、と思う。

 ブラジルのネイルサロンでやっているのは、ジェルネイルではなく、ほとんどが、昔からある、いわゆるマニキュア、である。最近の日本ではネイルポリッシュとか呼ばれているようだが、ここではマニキュア、と言おう。ブラジル女性たちは色っぽくてチャーミングな人たちでおしゃれも大好きだが、メイクはあまりやらない。このあたりが他のラテンアメリカの人とかなり違う。ポルトガル語圏であるブラジルと、コロンビアとかアルゼンチンとか他のスペイン語圏ラテンアメリカにはいろいろな違いがあるけれど、このメイクアップについてもかなりの違いがある。スペイン語圏ラテンアメリカの女性たちは、普段から割としっかりメイクアップをしている人が多いのだが、ブラジル人女性は口紅以外のメイクをあまりやらない。ナチュラルメイクで、髪型とマニキュアとファッションをがんばる、しかもファッションはあくまでカジュアルな感じ・・・、というのがブラジルの女性たちである。メイクはナチュラルでいい。でも、マニキュアもしていない指を人前に出すのは恥ずかしい。そういう感じ。つまりが、ほとんど全員がマニキュアをしている。老いも若きも、お金もちも、あんまりお金のない人も。華やかな職業の人も、堅い職業の人も。高級官僚も、お手伝いさんをしている女性も。必ずみんなマニキュアをしている。だからブラジルに行ってマニキュアをしていない指を人前に出すと、なんだか、身だしなみに頓着しない人、というか、「きちんとしていない人」に見えてしまうので、恥ずかしい。だからまずブラジルに着いたら美容院を探すのだ。

 ブラジルのネイルは豪快である。美容院に行って手を出すと、まず、暖かいお湯に手の指をつけるように言われる。そして甘皮が柔らかくなってきたら、ネイリストのお姉さんたちがせっせと甘皮を切る。そして、爪にマニキュアをざっと塗っていく。はみ出てもいいのである。とにかく、ばばばっという勢いでマニキュアを塗る。そして、その後、竹ヒゴというか爪楊枝の長いようなものというか、そういうものの尖った先にコットンを細く巻きつけて除光液を染み込ませ、爪の周りにはみ出ているマニキュアを丁寧に拭き取っていく。ペディキュアもお願いすると、人が空いていれば、同時に二人でやってくれる。一人は手のマニキュア、もう一人は足の担当。足もぬるま湯につけた後、かかとの手入れや甘皮の手入れをして、こちらも、勢いよく塗っていって、後で丁寧にはみ出たところをとっていく。その後トップコートを塗って完成。手と足を同時にやってもらえば、だいたい1時間弱くらいで終わる。完璧な出来で、美しい。自分でやっても、まず、このようにはできない。特に真っ赤などのはっきりした色のマニキュアは、この方法でやってもらうと本当に綺麗に仕上がる。

 手と足の手入れ、という意味では、男性にも人気があり、マニキュアを塗らなくても手足の手入れだけにネイルサロンに行く男性も少なくないし、透明なマニキュアを塗っている人もいる。手と足がよく手入れされている、というのは悪くない。

 というような、ブラジルのサロンでのマニキュアは、やってくれる人がたくさんいるので、要するにネイリストの供給過剰なので、値段が安い。ジェルと比べるとマニキュア自体も安い。よって敷居が低い。現在、ブラジルの物価は結構高くて、食べ物や衣料品、交通費、ホテルなど日本と変わらないくらい、あるいは日本より高いくらいの値段がしているが、マニキュアは、例えば、大都市の真ん中にある結構おしゃれなサロンでも、手だけで800円くらいの値段でやってもらえる。もっと下町や、ファベーラに近いようなところではその四分の一とか五分の一くらいの値段でやっているようだ。技術自体はそんなに変わらない。一見、難しい技術のように見えるが、実はそうでもなくて、洗面器と甘皮を切るハサミと爪切りと竹ヒゴとコットンにマニキュアがあればできるし、割と簡単に覚えられるらしいので、お金のない若い女の子がまず自立しようとして身につける技術の一つになっているのである。だからブラジルに住んでいる限り、どんな田舎に行っても、ネイルをしてくれる人を探すことはとても簡単であり、安くやってもらえるのだ。

 ただ、ジェルネイルと違って、このマニキュアはせいぜい一週間程度しかもたない。だから、ブラジルの女性たちは毎週、サロンに行ってマニキュアを塗り直してもらう。自分で爪を切ることなどなくて、毎週サロンで好きな色に塗ってもらうのである。

 ちょっとしたマッサージでもメイクでもネイルでも、信頼に足る他人に手を入れてもらうことは、なかなかに嬉しいものである。毎週ネイルサロンに通い、好きな色に爪を染めてもらうことはブラジルの日々を生きる活力にもなっていた。ジェルネイルは数週間もつからいい、と言われるが、一方、毎週、違う色に爪を染めることもまた、楽しいのである。というわけで、私はジェルネイルファンにはなれていないが、ブラジルのマニキュアのファンであり、ブラジルに行くたびにすぐにやってもらう。マニキュアが出来上がると、よし、ブラジルに戻ってきたぞ、という気になる。

 マリア・ルシアはサンパウロに住む私の義理の姉で、優しい人だった。おしゃれでセンスが良く、マニキュアをしていない彼女の指を見たことはもちろん一度もなかった。70を前にして肺がんを病み、昨年最後に会った時は、化学療法の影響でむくみが出てきて苦しい、という。ブラジルのポルトガル語でマニキュアをすることを「爪(Unha:ウニャ)をする」というのだが、彼女の手を取る私に、ルシアは「ウニャもできなくて」と辛そうだった。むくんだ手に白っぽい爪が痛々しい。彼女の訃報を受け取ったのはそれから数ヶ月後だった。生の証のようなブラジルのマニキュア。綺麗に手入れされた彼女の細い指と、赤いマニキュアが、ただ、思い出される。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。1981年、京都薬科大学卒業。1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。著書に『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『少女のための性の話』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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