おせっかい宣言おせっかい宣言

第105回

タバコのある風景

2023.05.30更新

 タバコがとにかく体に悪い、やめなければならない、吸わないようにしなければならない、受動喫煙だってよろしくないから、家にタバコを吸っている人がいたら家族は健康被害にあっているのだ、職場などでタバコを吸うとか、考えられない・・・というのが2023年現在なのであるが、こんなふうになってまだそんなに時間は経っていないのである。いまどきの方には信じられないと思うが、ついこの間まで、タバコは男らしさの象徴であり、かっこいい男はタバコを吸うものであり、渋い男のいる風景にはタバコがなければならなかった。ああ、このように書いていても、今や、「男らしさの象徴」などという言葉が、まるで冗談のように聞こえるのではあるまいか、と思う。男らしさ、女らしさ、などという性別によるステレオタイプな考え方は男女共同参画社会推進とは反するし、個人の自由な生き方を妨げ、女性も男性も抑圧する・・・、というまことにまっとうな考え方を"世間"というものが受容するようになって今に至る。要するに人間社会は、一人一人の生き方の多様性を認め、生きやすくするように進化している、ということになっているのだ。全くその通りであろう。
 で、タバコだが。60代のわたしが子どもの頃は、大人の男はみんなタバコを吸っており、どの家庭にも灰皿、というものがあった。灰皿、は、プレゼントとか、引き出物とか、贈答品一般の中でもかなりポピュラーなもので、ちいさなものは当然のこと、どの家にも、居間に置かれるためのどっしりした持ち重りのする大きな灰皿もあったものである。お客さんが来ると、まずは灰皿を出し、さらに家によってはタバコ盆が出されたりした。おもてなしの一環としてタバコは全ての層にあまねく浸透していたのだ。引き出物の灰皿は21世紀になっても、まだ続けられており、我が家にはバカラのえらく高そうな重い灰皿があるが、これはどう考えても2000年すぎて我が家に届いたものだ。男のみでなく、1970年代には、タバコは"自立"していっぱしのものを考えている、と周囲に示したい女の象徴でもあり、ボブカットの桃井かおりがそれは素敵にタバコを吸っていたりしたものだから、世の中と親に反抗する1970年代末の女子大生はみんなタバコを吸っていた。1983年の末に、青年海外協力隊に参加してアフリカに働きに行ったのだけれど、その頃の青年海外協力隊の派遣前訓練には、東宮御所に赴いて皇太子(いまの今上陛下である)と接見、という行事が組み込まれていた。接見の間につくと「恩賜のタバコ」と呼ばれる、菊の御紋のついた有名なタバコが配られ、若い協力隊員たちは、自分がタバコを吸わないまでも親に見せたい、とか思って、一本いただいてきたりしたものである。そういう場で当然のように出されるものであったタバコであったのだ。宇多田ヒカルが1999年に出した3枚目のシングル、「First Love」は男性との別れを歌った切ない歌だけれど、若い女性はタバコのフレイバーを男の名残りとして思い出しているのであった。それがまだ、かっこいいことであったのだが、タバコのフレイバーのキスが記憶に留められているのも、今や50代以上であろうか。
 このようにして、過去20年の間に、まるで文化人類学的記憶になろうとしているタバコの風景であるが、これは、もちろん「タバコと肺がんが関係がある」ということが、疫学調査で示されて「タバコは体に悪いんだ」ということが人口にあまねく膾炙したからに他ならない。1950年代頃からイギリスの疫学者が医者を集めて喫煙者と喫煙者でない人をわけて、5年も10年もさらにもっと追っていって、喫煙者の方に肺がんになる人が多かったことを「コホート研究」という、けっこう信頼のおける調査で示したから、「タバコという習慣と肺がんの発症には関係がある」ということになったのである。要するに、タバコと肺がんは関係がある、という「科学的根拠」が示された、ということになっている。「科学的根拠」は疫学調査が出すのだ。
 そうか、疫学が科学的根拠を提供すれば、このように世の中の風景は変わっていくのか、かっこよさの源泉も変わってゆくのか、人間の行動も変わっていくのか、と思われるかもしれないが、疫学の科学的根拠というのは、そういう性質のものではないのだ。疫学というのは、あくまでも医療の枠組みの中にある学問体系であり、疫学はより良い医療のシステム、医療や公衆衛生のあり方を求めて、医療や公衆衛生の枠組みをより良くしていこうというデータを出しているにすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。さらに、疫学調査で科学的根拠を出したからといって、医療の枠組みの中のことが変わっていく、とさえも言えない。疫学による科学的根拠は、研究者が、医療の枠組みで、このことはこのように変えていったほうがいいんじゃないか、という発想を持って、なるべく説得力のある調査を行なって、論文を書いて、それがそれなりの雑誌に載って、信頼できる科学的根拠である、と認められるものなのだが、そういう結果が出ても、現場の医療の枠組みが変わらないことなんて、いくらでもある。
 仕事をしてきた母子保健分野でもそんなことは山ほどあった。例えば、この国では、病院で生まれた赤ちゃんというのは「新生児室」という赤ちゃんばかり集められた部屋にいる、と思っている人がたくさんいるであろう。多くの病院がそのようにして、健康で特に医療ケアを必要としない新生児を「新生児室」というところに入れているからである。生まれてきた健康な赤ちゃんは、特に母子に問題がなければ、産んだお母さんのそばにいる、ということが母乳哺育推進という意味でも、母子の絆を作る、という意味でも、赤ちゃんの感染症予防、という観点でも、最も良いのだ、という科学的根拠が出されて、半世紀くらいになるのではあるまいか。少なくとも「タバコと肺がん」と同じくらいの歴史がある「母子同室」、なのである。ワールドワイドなレベルで、大体の先進国も途上国と呼ばれる国も、この「母子同室」をやっていて、健康な赤ちゃんをみんな集める「新生児室」などは駆逐されているのだが、この国では、いつまで経っても、なくならない。天下のN H Kも、少子化問題など取り上げるたびに、病院の「赤ちゃんがずらーっと並んでいる新生児室」の風景を画面で流しているから、国民的に受容される風景は変わって行かない。以前は、ニュースでそういう画像が出ると、「あのような科学的根拠のない映像を流さないでください」と抗議していたこともあり、抗議するとしばらくは、「新生児室」の代わりに「赤ちゃんの顔の大映し」などに変わるが、喉元過ぎれば熱さを忘れるのであろう、すぐに、また新生児室の映像が流れるようになり、いまに至る。要するに、科学的根拠があっても、現場の医療関係者、公衆衛生関係者が、それを変えていこう、という気がなければ、全く変わらないのだ。日本の病院は、まだ、新生児室に赤ちゃんを入れている方が、管理上、問題もなくお母さんも楽だ、と信じている現場の方が多いということなのであろう。

 では、なぜ、タバコをめぐる風景は、このように変わっていったのか。それは、タバコと肺がんが関連がある、ということが疫学調査によって示されたから、ではない。それは、その科学的根拠をもって公衆衛生上の健康活動をやりたい人たちがいて、さらに、そのことが産業構造の転換にも影響を与えても良い、と考える政策上の決定があって、世界のタバコの畑を減らして、タバコ産業は斜陽になっても良い、ことになったからにほかならない。それに伴って、何がかっこいいか、という判断が少しずつ変わっていったからだ。私たちの周囲にあまねく広がる「体や心によろしくないもの」についていくら科学的根拠を提示しようが、変わりそうにない無力感は、「新生児室」を例に挙げなくても、美味しそうなものは全て精製糖質でできていたり、原子力発電所がなくなることはなかったり、AIの働きを制御しようなどということができなかったりすることを見れば、直感的によくわかるか、と思われる。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。1981年、京都薬科大学卒業。1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。著書に『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『少女のための性の話』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

この記事のバックナンバー

03月30日
第115回 時間がない 三砂 ちづる
02月29日
第114回 教師生活の終わり 三砂 ちづる
01月29日
第113回 洗濯機鎮魂 三砂 ちづる
12月29日
第112回 戸籍 三砂 ちづる
11月28日
第111回 家計簿 三砂 ちづる
10月26日
第110回 文化の衣と哀悼と 三砂 ちづる
09月29日
第109回 呪縛 三砂 ちづる
08月30日
第108回 one to one 三砂 ちづる
07月28日
第107回 自分の機嫌は・・・ 三砂 ちづる
06月27日
第106回 つかないぱんたー 三砂 ちづる
05月30日
第105回 タバコのある風景 三砂 ちづる
04月24日
第104回 人間が生きているということ 三砂 ちづる
03月29日
第103回 手仕事と伝統工芸 三砂 ちづる
02月28日
第102回 拒絶される恐怖 三砂 ちづる
01月28日
第101回 嫁と姑 三砂 ちづる
12月27日
第100回 もしも 三砂 ちづる
11月27日
第99回 子供と危険 三砂 ちづる
10月28日
第98回 結婚 三砂 ちづる
09月28日
第97回 オフレコ 三砂 ちづる
08月25日
第96回 子どもについて 三砂 ちづる
07月29日
第95回 ボーダ 三砂 ちづる
06月24日
第94回 長寿県転落 三砂 ちづる
05月29日
第93回 顔が見えない 三砂 ちづる
04月16日
第92回 初めての北米 三砂 ちづる
03月16日
第91回 ダーチャ 三砂 ちづる
02月13日
第90回 プリンセス 三砂 ちづる
01月06日
第89回 寒い冬、寒い日本 三砂 ちづる
12月09日
第88回 タレフェイラ、シュトレイバー 三砂 ちづる
11月17日
第87回 前提 三砂 ちづる
10月12日
第86回 産まなかった人は 三砂 ちづる
09月08日
第85回 ウォラムコテ 三砂 ちづる
08月19日
第84回 マジョリティーの変容 三砂 ちづる
07月18日
第83回 マスク 三砂 ちづる
06月08日
第82回 ペットの効用 三砂 ちづる
05月09日
第81回 名前 その2 三砂 ちづる
04月08日
第80回 名前 その1 三砂 ちづる
03月29日
第79回 運転 三砂 ちづる
02月24日
第78回 かけおち 三砂 ちづる
01月28日
第77回 夢をみた 三砂 ちづる
12月24日
第76回 若い女性を愛する 三砂 ちづる
11月26日
第75回 ナラマニヤン先生 三砂 ちづる
10月26日
第74回 クリス 三砂 ちづる
09月21日
第73回 知らなかった力 三砂 ちづる
08月05日
第72回 胸痛む夏 三砂 ちづる
07月12日
第71回 失われる教育 三砂 ちづる
05月25日
第70回 道ならぬ恋の行方 三砂 ちづる
05月06日
第69回 その次のフェーズには 三砂 ちづる
03月27日
第68回 還暦を超えても楽しい 三砂 ちづる
02月19日
第67回 献身のエトス 三砂 ちづる
01月23日
第66回 親を許す 三砂 ちづる
12月20日
第65回 更年期  三砂 ちづる
11月22日
第64回 記述式 三砂 ちづる
10月16日
第63回 スキンシップと強さ 三砂 ちづる
09月15日
第62回 かわいやのー 三砂 ちづる
08月15日
第61回 屈辱感 三砂 ちづる
07月10日
第60回 "きれいにしていなくっちゃ"遺伝子 三砂 ちづる
06月06日
第59回 クローゼット 三砂 ちづる
05月08日
第58回 男女の心中 三砂 ちづる
04月06日
第57回 アイ・ラブ・ユー、バット 三砂 ちづる
03月13日
第56回 再発見される日本 三砂 ちづる
02月08日
第55回 求められる、という強さ 三砂 ちづる
01月07日
第54回 そういう時代 三砂 ちづる
12月10日
第53回 女性活躍 三砂 ちづる
11月12日
第52回 共有する物語 三砂 ちづる
10月10日
第51回 変わる家族 三砂 ちづる
09月10日
第50回 アジアの旅 三砂 ちづる
08月07日
第49回 仏壇 三砂 ちづる
07月08日
第48回 ランドセル 三砂 ちづる
06月09日
第47回 自営業の減少 三砂 ちづる
05月17日
第46回 「手紙」という資料 三砂 ちづる
04月09日
第45回 爪を染める 三砂 ちづる
ページトップへ