おせっかい宣言おせっかい宣言

第116回

道楽

2024.04.26更新

 適正技術とか、appropriate technologyとかがよく話題になり、議論されていたのは1970年代の末から、80年にかけてのことだったと思う。シュマッハーの『人間復興の経済』(Small is beautiful)などが話題になっていた頃だ。あの頃は確かに、すごいスピードで進みゆく科学技術や、それに伴う弊害や、今まで当たり前のように感じていた暮らしのあれこれが根こそぎ変わっていくことに、みんなそれなりの不安があったのだ。それから約半世紀が過ぎ、結果として科学技術の問題は、科学技術で解決するしかない、という認識が一般的になっていったことは、結局、公害も環境保全も感染症も自然災害も、何が起こっても結局今の手持ちのパラダイムの中で解決しようとし、そして、ある程度は解決できたような気になっている経験を積み重ねたことからきているのであろうと思う。こんなにどんどん技術が進んでいって大丈夫なのか、ということが不安材料とならなくなったのは、おそらくは、通信手段の画期的な発達とインターネット社会の到来があまりにも華々しくて、いやあもう、技術革新反対とか、いってる場合じゃないよな、となんとなく多くの人が思うようになったからに違いない。

 この技術革新の波の中、日本のトイレも変わっていった。1980年のTOTOさんのウォッシュレットの登場から腰掛け洗浄便座の普及は加速したのである。「お尻だって洗ってほしい」という名キャッチコピーは素晴らしいもので、あっという間に日本中に普及し、結果として世界のトイレを変えていったし、さらに変えていきつつある。イスラム圏などと違い、排泄後に水を使って洗う習慣はなく、紙などを使って拭いていた日本人の習慣は一新され、みんな、水で洗う気持ちよさに目覚めたのである。同時に、この腰掛け洗浄便座の普及は日本人の「しゃがむ」姿勢を変えていった。

 一貫してお産のことに興味があったのだが、1990年ごろ、「出産のヒューマニゼーション」という名前での国際協力活動を通じて、世界中のお産関係者と仕事をする機会があった。そこで、アメリカやブラジルの女性たち、つまりは、西洋的な暮らしをしている女性たちは「しゃがむ」という姿勢ができないことに気づいた。当時、女性は自分のとりたい姿勢で出産することを推奨するアクティブ・バースという運動が出てきていた頃だったし、それに対する生理学的根拠も明らかなものだった。体を起こして「しゃがむ」という姿勢は、重力も使えるし骨盤底も広がるので、お産の姿勢の一つとしてふさわしい。日本では伝統的に「産み綱」などにつかまってお産したりしていたし、アマゾン森林で先住民はしゃがんでお産をしていたというし、お産をするときに「しゃがむ」姿勢は楽だ、と思われていた。大体、当時はまだ「腰掛け便器」つまりは「洋式便器」が普及してきて、それほど経っていなかったので、多くの日本人は、小さい頃から、和式トイレでしゃがんでいたので、これは、ごく普通の姿勢だったのである。ところが西洋女性たちは、この「しゃがむ」姿勢ができないのだった。普段からしゃがめない人がお産のときにしゃがめるはずもないし、それは彼女にとって楽な姿勢ではあり得ない。

 「しゃがむ」姿勢は、お産が楽なだけでなく、平素から、骨盤底筋を鍛えることにもつながるということらしい。ブラジル出身の産科医、故モイゼス・パシオニック先生は、アマゾン森林で仕事をしていたとき、先住民の女性たちのお産が軽く、骨盤底筋も発達していることに感嘆し、「インディオに学ぶ」しゃがむお産を1970年代から広めておられた。1979年には"Parto de cócoras "[1](しゃがむ姿勢での出産)という映像を息子のクラウディオ・パシオニック氏とともに製作し、今も世界のお産関係者に大切にされている。1990年代末に、ブラジルのクリチバという街にあるパシオニック先生のクリニックを訪ねたことがある。そのクリニックのトイレを見せられたが、便器が二つ並んでいた。右側に、ブラジルならどこにでもある、腰掛け便器。左に日本人(当時の)にはお馴染みだった和式便器が設置されていて、ご丁寧に、腰掛け便器の上に、紙が貼られていて「健康のためにこちらではなく、隣の便器を使いましょう」と書かれているのであった。世界の産婦人科医会でも知られた著名な医師がそのようにおっしゃるのなら、そうであるに違いないが、椅子の生活、腰掛け便器の生活に慣れた西洋女性(ブラジルなどラテンアメリカも含むが)にとってはそう簡単なことではなかったと思う。でも排泄でも出産でも腹圧をかけやすいしゃがむ姿勢の方が楽である、というのはずっと頭に残った。実際、そうだし。

 日本でウォッシュレットと腰掛け便器が普及していくにつけ、それはトイレという空間が快適になる、とういことと同義でもあるから、喜ばしいことだと思えど、しゃがむ姿勢に親和性はなくなっていったので、パシオニック先生の教えはずっと気になり続けていた。

 さらに、パシオニック先生のクリニックを訪ねた1990年代、私はブラジルで暮らしていたのだが、ブラジルのトイレならどこにでもついているショベリーニョと呼ばれる小さなシャワーがとても気に入っていた。トイレの横についていて、ホースの先に小さなレバーがついていて、そこを押すとシャワーが出る仕組みになっている。先に、イスラム圏では水で洗う、と言ったがフランス、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの南ヨーロッパあたりでも水で洗う。ビデという洗浄器が便器の横についていてそこで水で洗っていたのである。旧ポルトガル領であったブラジルも水で洗う文化なので、ビデのかわりにこの「トイレの便器の横についている小さなシャワー」が開発されたのであろうか。これは電気を使わず、水道が通っていればどこでも使えるし、水圧のかかるシャワーなので、赤ちゃんのおむつの下流しなどにも使えて、便利であったことを覚えている。これが印象的だったので、日本の洗浄器付き便座は素晴らしいな、快適だな、と思えど、ちょっと「やりすぎ」な感じがあるなあ、私はこの小さなシャワーで十分だな、と常々思っていた。こちらの方が電気を使わないし、作りがシンプルな分、冒頭の「適性技術」であるなあ、と思っていたのだ。

 2024年3月に東京と職場の大学を離れ、4月に八重山に引っ越した。竹富島に伝統家屋を建て(竹富島には伝統家屋しか建てられない)「女性民俗文化研究所」という看板を挙げて、女性性の本質を追い、執筆を続けたい。和式のトイレを置き、「ショベリーニョ」、つまりは小さいシャワーをつけた。もうお産はできませんけど、骨盤底筋群をそれなりに鍛え続けることはもちろん、健やかな老後生活に必須であろうとまだ考えているからであり、「適性技術」もまだ、ちょっと気になっているからである。頻繁に訪問してくる予定の息子たちは和式トイレ設置には大反対であったため、最新ウォッシュレットトイレもシャワールームに配備することになった。たいして大きな家でもないのに、トイレを二つつけたが、骨盤底筋と適性技術を気にする母の道楽と思ってもらいたい。



[1] Moysea/Claudio Paciornik "Parto de cócoras " , Curitiba, Brasil, 1979. https://www.youtube.com/watch?v=gI6q0nB8VgM 2024年4月24日アクセス

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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