おせっかい宣言おせっかい宣言

第80回

名前 その1

2021.04.08更新

 20代の頃、というと40年くらい前のことになってしまうが、とても名前にこだわっていた。ローマ字で日本人が名前を書く時、例えばわたしの名前、三砂ちづる、だとChizuru Misago と慣例的にファーストネームを先に書く。イギリスとかアメリカとかがそうしているから、中学校で英語を習い始めた時から、そのように教えられたと思うし、そのようなものだと思い込んでいた。日本人の名前が海外の英語のニュースなどででてくるときも、そのように名前が先に紹介されていた。今だってそうである。英語やフランス語の「海辺のカフカ」を持っているけれど、Haruki Murakamiと書いてある。ところが、中国や韓国の名前は英語のニュースなどでも、そのままで、毛沢東はMao Zetongで、朴正煕はPark Chung Heeと言われていた。なんで日本人だけ、名前を逆にいうのだ? 日本ではファミリーネームが先なのに。中国や韓国と同じように日本の名前も英語でもMisago Chizuru のままであるべきなんじゃないのか。若い頃のわたしは、そのように考えていた。

 わたしに英会話を教えてくれた最初の先生は、イギリス人でケルヴィン先生と言った。25歳のとき、青年海外協力隊に参加することにして、語学訓練を極寒の長野県駒ヶ根で受けた時の担当の先生が、ケルヴィン先生だったのだ。まじめでちょっとシニカルで、とてもシャイで、今思えばとてもイギリス人らしい人だった。彼と共に6人ほどの少人数の生徒は二ヶ月間、みっちり英語の訓練を受けた。青年海外協力隊では、基本的に現地でつかう語学の訓練を、その当時は二ヶ月間行うことになっていて、フランス語圏アフリカに派遣される人はフランス語、ラテンアメリカに派遣される人はスペイン語、タンザニアに派遣される人はスワヒリ語、などをみっちり朝から晩まで習っていた。わたしの派遣先はザンビアという南部アフリカの国で、現地の言葉が多すぎて、現地の言葉を公用語にできず、英語を公用語としていたから、わたしが訓練所で習う言葉は、英語だったのである。

 で、最初の自己紹介の時にケルヴィン先生に、わたしはMisago Chizuruである、と自己紹介した。ご存知のように、日本でネイティブに英語で習うと、いきなりファーストネームで呼び合うことになるので、ケルヴィン先生はわたしのファーストネームはMisagoと理解されたので、わたしは、いえいえ、ファーストネームはChizuru なんです、と言った。日本人が普段はファミリーネームを最初にいうのに、英語で言う時だけ逆にするのって変だと思う、と説明した。英語もさほど話せない状態で、だからこそ英会話の練習とかしていたわけであるが、そういうところで、つまりは英語の話す能力に自信もないのに、こういう議論をしようとしたわたしは、いい根性で、要するに、若いから、とんがっていたのである。だって、日本人は普段は苗字が先で名前があとである、中国人だって韓国人だってそうしている、日本人だって英語を話すからと言って、逆にする必要はない、そういうことはわたしのアイデンティティにかかわる、とかそんなことを必死で、当時、まともにできもしなかった英語でしゃべろうとしていたんだと思う。

 ケルヴィン先生は、わたしを見て、冷静に、きみ、アイデンティティってそういうことに使うんじゃないよ、と言った。Misagoが先でもあとでも、君のアイデンティティはゆるがないよ、ファーストネームが先でも、あとでも、どっちだって君は君でしょう、名前の順番とか、そういうのアイデンティティと関係ないんだ、と、ケルヴィン先生は言った。若くて名前にこだわっていたわたしは、へ?と思い、そういわれてみれば、そのとおり、と、割とその場で納得してしまった。そうか、名前の順番なんて、どちらでもいいんだ。もっとこだわらなければならないことはおそらく、他にあるな、と直感的に思い、それから以降、名前の順番はこだわらないことにした。いまも、どっちでもいいと思っている。

 そのあと、人生、いろいろありまして、通算15年くらい海外に暮らして、出会った人たちの名前に対する態度を観察しながら、さらに、名前は、なんでもいいような気がしてきた。少なからぬ人たちが、自分の公式な(つまりはパスポートとか公的な書類に書いてある)名前は、それ、として、適当に、と言うと語弊があるかもしれないけれど、公式な名前とは異なる名前を、自分の名前として使っていたからである。親友のスペイン人女性の本名はMaria Jesus Alonso Perez Lormandという。Maria Jesus(スペイン語ではマリア・へスースという)が、彼女のファーストネームである。いかにもカトリック国、スペインらしい名前である。Alonsoが彼女の父のファミリーネームで、Perezは彼女の母のファミリーネームで、Lormandは彼女が結婚した相手の姓である。それって、子どもができてその子が結婚したりすると、ファミリーネームは永遠に増え続けるの?と聞くと、いや〜そんなこともないかな、適当・・・、と言っていた。それはともかく、彼女のファーストネームはマリア・へスースというのだが、彼女は、Chus(チュス)とみんなに呼ばれていて、自分でもそう自己紹介していた。Chus Alosoです、みたいな感じで。サインにもChus を使っていた。公式な名前だけ見ると、誰のことかわからないが、現実に、それでなんの不便もないようであった。なんでChus っていうの、ときくと、マリア・へスースとか、単にマリア、とかスペインにたくさんいすぎてだれかわからないじゃない? おそらく小さい頃、へスース、ってきちんといえなくてヘチュース、とか言ってたんじゃないかな。それで親がチュスって呼ぶようになったんじゃないかしら。自分も気に入ってたし、学校でもずっと使った・・・ということであった。

 ブラジルで親しくしていたMaria Francisca Andrade Oliveiraは、Tati(タチ)とよばれていた。こちら、本名のファーストネームMaria Franciscaと、Tatiは、なんの関係もない。彼女はけっこう「長」のつくポジションを歴任する人だったが、職場のサインでも普通にTati Andradeと書いていた。ブラジル中、彼女の名前は単に、Tatiで通っていた。Tatiという名は、Tatiana(タチアーナ)などの略称なのだが、彼女はTatianaではない。どうしてTatiっていうの、とこちらにも聞いてみたが、こちら、特に納得するような説明もなく、好きだから、みたいな理由だったと思う。そうか、好きなら、それを使えばいいのか、別に公式に名前がなんであろうと、自分が使ってしまえばいいんだな、と思った。

 ブラジルには10年住んでいたが、そう言われれば、ほかにも本名と名前が一致しない人はたくさんいたし、家族の中だけで通じる名前を使っている人も少なからずいた。子どもたちの父親はWalter という人だが、家族内では彼はBaxとよばれていた。起源は本人も知らなかった。なんとなく誰かが呼び始めて、それが定着したらしい。

 その後、他の国の人たちとも仲良くなるにつれ、だいたいファミリーネームとファーストネームという考え方、つまりは苗字があって、名前がある、ということ自体も、存在しない国だってあることもわかってきた。実際に話をきいただけでも、ガーナやミャンマー、ブータンなどは、どこからどこまでがファーストネームでファミリーネームなのかは、わからなかったり、単にファミリーネームなんか無かったり、ということであるらしいのだ。

 名前は大切だ。もちろん。名前が剥奪されていいはずはない。その人が大切に思う名前は大切にされるべきだ。公的書類がなんであっても、わたしたちは呼びたいように呼んでいいし、呼ばれたいように呼ばれてもいいのだ。そう思えるようになるまで、いささかの時間はかかっていたように思う。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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