第130回
「オニババ化する女たち」をふりかえる
2025.06.24更新
2024年8月7日に田中美津が死んだ。日本のウーマンリブを牽引した人として知られていた。アカデミアと東京を離れ、八重山の離島に住んでいて、中央のニュースをあまりフォローしていなくて、実は亡くなってから数ヶ月経ってから知ることになった。
2004年、光文社新書「オニババ化する女たち」を出した。それまで20年くらい、ずっと考えてきて、母子保健分野で研究実践を重ね、論文などでは書けないことを言葉にした一冊だった。「女性の身体性を取り戻す」というサブタイトルがついており、もともと、そのタイトルで出そうとしていた本だったのだ。光文社新書は2001年に創刊したばかりで、勢いがあった。担当編集者であり、その後20年以上、光文社新書で数多のベストセラーを出し、牽引する役割を一貫して担うことになる草薙麻友子さんが編集者、まだ20代だった。朝日新聞「ひと」欄に、月経血コントロールのことで掲載された私の記事を見て、会いにきてくださり、新書を作ることになった。最後は、光文社の会議室で、隣のロイヤルホストで一緒にカレーを食べながら仕上げた。月経血コントロール、自然な出産・・・女性としての身体を生き切ることについて、ブラジルで学んできたことも含め、さまざまに書き上げて、今も訂正したいと思うところは一つもない。
「女性の身体性を取り戻す」というタイトルは今ひとつぱっとしない、何か良いタイトル、手に取ってもらえるタイトルはないものか、と草薙さんがずっと考えておられたところ、朝風呂に入っていた時、「オニババ化する女たち」というタイトルが「降って」きて、これはどうでしょう、ということになったのである。当時まだ小学生だった子どもたちに読んでやっていたオニババの昔話には、山にこもって一人で暮らしているオニババが、小僧さんを家に引き入れ、お尻をべろんべろんとなめた、という場面が出てきて、すごいな・・・と思っていた。妊娠、出産を中心に性と生殖の周辺の女性性のエネルギー、それを上手に昇華できないと、こうなってしまうのではないのか、この鬼婆譚はそのことに対する注意喚起ではないのか、というようなことを本文で書いていたからだ。
光文社執行部は、草薙編集者の提案に内容は大変おもしろいし、重要な本だと思うが、こんなタイトルで本を出したら、筆者は大変なバッシングにあうことが想定される、著者は大丈夫なのか、そういうことに耐えられる人なのか、そう言っていた、と草薙さんに聞いた。私自身はもちろん「女性の身体性を取り戻す」の方がいいに決まっているが、まあ、いいか、と同意して、「オニババ化する女たちー女性の身体性を取り戻す」は、2004年9月に発行された。私は9月はじめに46歳になったばかり、そしてその年4月に今や5000円札の顔にもなった津田梅子が1900年に創立した女子英学塾を母体とする津田塾大学国際関係学科教授として赴任したばかりだった。「オニババ化する女たち」は発売直後から売れた。最終的に24万部を売っている。文字通りのベストセラーになった。
女性にとって妊娠・出産は重要な経験であり、妊娠・出産を経験する方が体の勢いというかエネルギーをきちんと使っているわけだから、妊娠・出産を経験しない人の方にこそ、ケアが必要だ・・・というようなことが、当時の日本のフェミニストの皆様に好意的に受け入れられるはずはなかった。1990年代のブラジルで、4500人を超える妊娠中絶を追う研究をしていた私は、ブラジルではフェミニストの皆様とも一緒に活動したし、仕事もしたし、女性の権利と女性の健やかなありようについて追求していたし、ラテンアメリカを含む西洋では「男性論理である産科医療介入は女性の産む力、赤ちゃんの生まれる力を抑圧しているから、女性のもともと持つ力を活かすようにしたい」という出産のヒューマニゼーション、自然な出産の追求は、フェミニズムの運動の一環だった。上野千鶴子氏があまりに優秀だったために、日本のフェミニズムは彼女の牽引するマルクス主義フェミニズムの影響が大きかったから、この西洋で言われているようなフェミニズムとは違うだろうな、ということは分かってはいたのだが、それでも日本のフェミニズムの枠をもっと広げることができればいい、と思って出した本だったが、今に至るまで「出産」分野は日本のフェミニズムの範疇から外れ続けている。
バブル期の日本にずっとおらず、2000年終わりに15年の海外生活から帰国し、2001年から働き始めた私は、日本のバブル期、1990年代の雰囲気がもちろん良くは分かっていなかったわけで、多くの人には「日本にいなかったから、あの本が書けたのでしょう」と言われた。そういう意味では怖いもの知らずだったのかもしれない。
これだけ売れたため、「オニババ化する女たち」はフェミニストおよび、フェミニズムに親和性を持つアカデミア(日本のおおよそのアカデミアはそうであっただろう)から総バッシングに合うことになった。思えば、売れたから、話題になったし、話題になったから、もっと売れたのであるから、これは文句を言うのは筋違いである。大学関係者で著書のある親しい友人には「大学の先生で、学術書以外に本が書ける人はそんなにいない。数少ない書き手になってるんだから気にするな」と言ってもらったりしたし、誠にその通りである。SNSはまだ広がっていなかったが、すでにネット社会であったから、ネット上には批判の嵐、アマゾンの書評は一つ良いのが出るとシステマティックに悪い評が重ねられて、また落ちる、ということになっていた。この友人には、また、「ネット上で自分について書かれているものを一切読んではいけない。書くことを続けていくためには自分を守らなければならない。一切読むな」と言ってもらったのはありがたいことだった。あれからずっと、私は、私について、あるいは著作について書かれているものが見つかっても意識して読まないようにしている。いいものがあるよ、と紹介されたものは読むが、他は、見つけると見ないようにする習慣がついた。アマゾンの書評も放っておくことにした。いわゆるエゴサーチとかする人は本当に勇敢だな、と感心するが、私にはできないし、やる気もない。この時、自分を守れたのが、そういう態度だったから、変える気はないのだ。
しかし、津田塾大学には赴任したばかり、廊下でおはようございます、と言っても無視する女性教員がいたりとか、「週刊金曜日」に、名前の売れている卒業生から「津田塾の恥」と書かれるとか(書かれたけどその後20年勤め平穏に退職した)、学内の大学院生にいいように言われて引っ張り出されて某国立女子大某研究所で吊し上げ状態にあう、とか、覚えているだけでも結構気が滅入ることもあった。しかしなんと言っても、上記の田中美津氏が2005年2月号の朝日新聞の雑誌、「論座」(その後廃刊)で何ページにもわたって内容というよりも個人攻撃を重ねた「トンデモ本『オニババ化する女たち』を批判する〜津田梅子もオニババなの?」、は、すごかった。
ウーマンリブの元祖、ラテンアメリカに渡ってラテンアメリカ男性と子どもを作り帰国して、鍼灸院をやっている、という田中美津という人を、もともと自分と関係ない人、とは思えていなかった。しかし何より、衝撃的だったのは、私の母がこの田中美津氏の論考の載っている「論座」を買い求め、わざわざコピーをして、別居中だった私の父に、ファックスで送ったことである。父と母は、私の子ども時代から一貫して仲が悪く、2004年の時点では事実上の離婚状態で、別居していた。母から父に連絡するのは年金の振り込み通知くらいだったところ、この論考は父に全ページファックスした、というのだ。
驚いた父から連絡が来た。「これは、お母さんが書いたのか?」。一瞬、何を言われているのかわからなかったが、すぐに、理解した。母の結婚前の姓名は「田中美津子」というのである。字も同じだ。田中美津という人が社会的にどういう人か、知る由もない父にとって、田中美津、の書いた文章を、母が書いたのかと思った、ということだ。書くはずないだろうが。母は一貫して主婦で、いや、一貫して主婦でも文章を書く人はいるが、母は書いたことがない。しかし、父は、母が書いた、と思った。お父さん、違うよ、と言いながら、一応母には電話した。「なんで、こんなにひどいことを書かれているものをわざわざお父さんにファックスしたの?」。「あんたが載ってるものはなんでも読みたいとおもって」、と言うのを聞いて、背筋が冷たくなった。母は母だから、それだけで感謝している。この人がいないと私はこの世にいないのだから。しかし、これは一体どういうことなのか。そして、その文章を書いた人は「田中美津」と言う。
田中美津氏の逝去は私にこれら一連のことを思い起こさせることになった。田中美津氏は確かに日本の女性にたいへん大きな影響を及ぼした方だ。再度書くが、ラテンアメリカで子どもを作って帰国、身体性に興味を寄せた彼女と、会えば、共通項も多く、話すことはたくさんあったかもしれない。そういう機会はなかった。母と同じ名前の田中美津氏、ご冥福をお祈りする。合掌。