第138回
今年の目標
2026.02.18更新
・・・と言ったものを、たてなくなった。昨年からである。明確な変化である。勤めていた大学を退職し、八重山竹富島に家を建てて移住した。そこからやらなくなった。要するに、なにかを「達成したい」とか、毎年、何か意味のあることを積み重ねてそこに至りたい、とか、今ある自分ではなくて違う自分になっていきたい、というようなことがなんだかなくなったことに気がついた。
やる気がなくなったわけではない。書くことも毎日続けているし、女性性の本質の追求、という本来の興味を追い続けて、手仕事の復興に加わりたいと思ってもいる。意気消沈とかアパシーとか無気力とかそういうものとも無縁である。この上もなく幸せに生活している。竹富島にすみはじめて、ごく小さなことにでも、ああ、ここにいられてうれしいなあ、と感じることがしょっちゅうあって、それはすごく幸せなことだ。
2025年度より竹富町の昼12時の時報は、竹富町の島々の八重山民謡となった。竹富町は、八重山のうち、石垣島と与那国島以外の島、と思ってほぼまちがいがない。石垣島にも与那国島にもたくさんの素晴らしい八重山民謡があるのだが、竹富島、西表島、小浜島、黒島、鳩間島、波照間島、新城島・・・のある竹富町は八重山民謡の宝庫である。で、どなたの慧眼か、お昼の時報は味気ないチャイムより、八重山民謡にしようという話が出たのであろう。2025年4月から、各島の民謡が流れる。竹富島の真栄節、黒島のペンガントーレ、小浜島の小浜節、新城島のくいぬぱな節・・・1月は西表島古見の、やりくぬひょうだった。演奏しているのは町役場の職員である、というのがまた、よい。このように書くと町役場の職員さんにもそういう趣味がある方があるんだ、すごいなあ、とおもわれるかもしれないが、趣味、とか、そういう感じではなく、この職員さんたちは、それぞれの島の地謡をつとめる方々であるはずだ。それぞれの祭りの地謡をつとめる方々は、結果として、その島で最も唄三線、笛などにすぐれた方で、結果としてセミプロ、あるいはプロの唄い手にもなれる方である。そういう方で、町役場の職員をしている人は、おそらく何人もおられるのである。12時に民謡が流れると、ああ、私は八重山にいるんだ、竹富でこれをきいているんだ・・・と思って感動する。
石垣島のスーパーに行けば、島豆腐とか、きりこぶとか、細切りこんにゃくとか、八重山かまぼこ、とか地元の料理の食材が買える。二十代に那覇に住んでいた頃から沖縄料理は大好きだったから食材が買えることだけでうれしい。2003年から着つづけたきものを着るとき、久米島紬に20年以上締めたミンサー帯であることに気づく。わたしはいま、ミンサー帯の産地にいるんだ、と思う。沖縄で沖縄の着物をきて、竹富で竹富発祥の帯をする。ああ、このきものや帯にどれほど惹かれていたかしら。この帯に引っぱられるようにしてここにきた幸せを思う。夜8時からの古謡の会にでるために、懐中電灯で道を照らして公民館に向かう。白い砂の竹富の道。星が映える。竹富島にいて、夜、古謡を習いに行く。そのことがうれしくて、なんてすてきなの、と思う。
こういう小さなことにいちいち喜びを感じるくらい、大枠としての新居を建てて竹富島に移住、は、私を幸せにしている。というか、いるべきところにいるのだ、という気持ちがしみじみとしてくる。生まれ故郷でもない、学んだ地でもない、それでも竹富島にいる時の、いるべきところにいる、という感覚はゆるぎない。どこにいても、なにかここではないなにか、を探していた。なにをやっていても、今の自分とは違う自分、をみつけて精進しなければならないと思っていた。でもそれが、ない。もう、私はここ以外のどこにもいきたくない。島にいるのが一番幸せだ。私はもうどこにも行かなくていい。ただ、淡々と毎日書いて、訪ねてくる人を迎え入れて、会う人にうれしく接して、家族にはできる限りの献身を。亡くなった親戚を思い、生きている親戚を訪ね、友人や周囲の人を大切にする。島の神様を身近に感じ、神様の声を聞き、神様が喜ぶことをするようにつとめる。そんな毎日も、もう直ぐ、2年目が終わる。
だから、今年の目標、を立てる気がしない。ただ、淡々と書き続け、家の掃除をして、暮らしの環境を整え、良い状態であること。そして起こってくることを受け入れて、受け身でいること。これから、それで生きていっていいんだ、と思えること。年のかわるときには、いわゆる運勢をみると良いという。次の一年をどのようにすごすか、指針を得て、よりよく過ごす、ということだろう。詳しい人が周囲にいるし、やっていた年も少なくないが、今年はいまひとつきもちがのらなくて、やらなかった。いわゆる占いごとに興味があるのは、指針がほしいからだ。これからどう生きていくのか、これからどのように日々を過ごすのか、先にまっているのは何か、どうか良きことであってほしい、と。占いごとと祈りは深く結びついている。
女性たちが一貫して担ってきた、祈りの役割。あちらの世界とこちらの世界をつなぎ、どうかこちらの世界が安寧でありますように、あちらの世界の指針と助けをもらうのが、祈りである。女性たちは太古の昔からその役割を担ってきた。この役割を担った男もいたが、女の方が圧倒的に、その体のつくりからして、あちらの世界とこちらの世界をつなぎやすい。それは、女が命を育み、命を産み出し、いのちを育てるようなからだになっているからで、そのプロセスで、いくら忘れている、と思っていても、いやおうなしに、あちらの世界とのつながりを感じざるを得ないことを身体的に経験させられるからである。お産は"あっちの世界にいっちゃった"ような感じになると、生まれる、と経験ある助産婦さんはいうし、女性たちも、お産の時、時間の感覚がなくなったような、とか、宇宙のチリになったような、そんな感じがした、とかいう。性的な体験自体も女性のほうが深いことはよく知られている。女性の性と生殖に関わることはからだの構造自体が、あちらの世界を暗喩できるような作りになる経験を担保しているようなものなのである。そういう女たちは、結果として、人間とあちらの世界をつなぐ役割を担うことが多く、神との交歓もわかりやすい形で感じることもできるから、世界中でそういう姿がみられ、いまも、琉球弧では南に行くほど色濃く見られることになる。
とはいえ世界中の多くが人工光に照らされ続けて闇を失い、人間の意志の望んだ通りの衣食住と暮らしの豊かさが先端技術によって支えられていくようになり、祈りの力は以前ほど必要ではなくなり、また、必要ではなくなったから担う必要もなくなった。女性たちは元々持っていた力を発揮する必要がなくなったことは、それだけちょっと楽になったところもあるので、経済活動に邁進できるようになったりして、男女共同参画社会が進んだりしたのである。
祈りの力は必要とされなくなっても、女性たちの中には、その世界への郷愁とあこがれは存在し続けていて、だからこそ彼女たちは占いが大好きなのだ。星占いとか手相占いとか血液型占いとか本格的な四柱推命とか女性はみてもらうこともみることも大好きである。これは要するに、祈りの世界をになっていた女性たちが近代社会においてそのヴァリエーションとしての占い(とか、スピリチュアル系とか、パワースポット巡りとか)にシフトしている、とみるのが妥当であるように思う。それらは真剣な指針が求められていることもあるが、単にエンターテインメントというか、楽しみ、として行われているところもある。そう、祈りや占いは、もちろんきびしいところもあるけれど、交歓するよろこびがあるのでつづいている。
で、わたしは2026年初頭、祈りの世界の健在である竹富島で生きているので、結果としてほかのことに向かわなかった。とにかく、いま、を存分に楽しみたい、と思う。色々なことも起こるだろう。人間がたくさん住んでいて、自分のご縁も広がっているから。いろいろな天候条件や政治的案件や所与の条件に左右されるから、なにがあるかも、わからない。それでも、なにがあっても、この島と、ここに住まう人と生きていく、そして、なんとかする、なんとかならなくなっても、みんなでなんとかしようとする・・・と思うから、先を案じていても仕方がない、という気になるし、実際、案じているひまもないくらい、今を生きることが嬉しく、また、実りに満ちて、そして受け身であることも幸せなのである。みなさん、ありがとうございます。だからもう、これでいきたい。ことしの日記の抱負、目標のページに書くことがあるとすれば来年のお正月は竹富にいようかな・・・程度なのである。




