おせっかい宣言おせっかい宣言

第102回

拒絶される恐怖

2023.02.28更新

 カウンセラーとか、アナリスト、とか呼ばれる方々がいることはよく知っていた。日本でも最近たくさんの方々がおいでになっていると思う。言わずと知れた河合隼雄先生が、臨床心理士という資格のためにご尽力され、実際に臨床心理士の資格を持つ方々も活躍している。

 ロンドン大学に10年ほど勤めていたことがある。上司の女性疫学者は実に優秀な人で、労働者階級上がりだが、あまりに頭が良かったため、親に発音クリニックみたいなところに通わされて中流階級の英語の発音を身につけた人だった。まるで映画の「マイフェアレディ」だが、イギリスには、実際そういう、「他の階級の話す英語」を習得するクリニックみたいなものが存在するのだ、と知って驚いた。おそらくそれは、労働者階級のコックニー訛りなんかを学ぶコースなどあるはずはなく、中流階級、上流階級の自分より階級が上の発音を習得するところであるに違いない。階級社会は民主的な社会では打破されたように語られたり打破されるべきだと言われたりするけど、厳然と存在する。特にイギリスにいるとそれは結構きっちり感じられるのは、ブレイディみかこさんの著作が多くの方に読まれるようになっている日本だから、よく知られていると思う。
 階級社会って大変だな、日本はそんなにはっきりしてないよな、とか思う向きもあるかもしれないけれど、親の収入によって子どもの将来が大体予測できてしまうみたいな調査もあるわけだから、実際には、収入と生まれによって、大体決まっているようなものであるのが人間社会なのである。イギリスの私の上司はあまりにもブライトな子どもであったがゆえに、親は、この子は自分達の知らない世界に足を踏み入れていく、と、直感したわけであろう。自らの話す言葉とは違う言葉を娘に叩き込みたかったらしい。彼女は「この間、自分が喋っているビデオを観たのよ。呆れるくらい、ミドルクラスのインテリ階層の美しい発音だったわよ。たいへんなものね」とやや自嘲的に言っていたが、親の予想通り、ケンブリッジ大学数学科に入学、主席で卒業、あっという間にロンドン大学のプロフェッサーとなった。プロフェッサーというのが、大体、イギリスでは、滅多になれる職ではないのである。大学勤めなら、よほどのことをやらかさない限り、論文書いて長く大学に在籍していれば教授(つまりはプロフェッサー)になれる日本とは違って、イギリスの大学のプロフェッサーは、本当に、限られた人しかならないのである。
 ケンブリッジを主席で出た彼女は、大学の同僚であった、本物のミドルクラス出身の夫と結婚し、二人の子どもを育て、その発音クリニック由来の英語を、まさに、自らの言葉としていった。夫はクリケットばかり観ていて、彼女はアーセナルのサッカーの試合を観に行く、という絵に描いたような階級差のある趣味は温存されたものの、それはそれ。彼女は公私ともにミドルクラスの生活を手に入れた。ロンドンは、イズリントンに自宅を構え、息子はちゃんとしたパブリックスクールに通って、大学での研究成果をばりばりと上げていたのである。

 別に階級をかわったから、というのが原因ではないと思うけれど、でも、彼女は深い心の闇を抱えていた。いや、心の闇って、別に誰でも抱えるものだ。どんなに理想的な環境に育っても自我に傷を負う、と言ったのは、村上春樹であるが、まさにその通りであって、心の闇などだれにでもある。心の闇があるのが人間というものだろう。ただ時折その闇があまりに深くなり、広くなり、現実に手を伸ばしすぎて、にっちもさっちも行かなくなってしまう、みたいな感じになってしまう時、現代人は、カウンセラーとかアナリストの皆さまの助けを借りる。別に現代人じゃなくても、心の闇は抱えていたわけだろうけれど、美しい空があり、きれいな海と、深い森があって、そこの濃密な人間と土着の神の交歓のうちに生活が存在しているようなところで育つと、カウンセラーの皆さまに相談する以外の方法で、心の闇はコントロール可能になっていく、というのが定石だったに違いない、と、先日、バリ島で数日過ごして実感した。
 そういう空と海と森と人間の営みと神様との交歓、みたいなものがあるところには共通な独特の受容感に満ちた雰囲気がある。まあ、一言で言えば、人間の闇を飲み込んでくれるような光に満ちている。バリ島も、ハワイも、八重山諸島も、みんな、そうだ。すごく似ているなあ、と思った。都市に住まう現代人たちは、そういう心の闇をどうしたらいいかわからなくなるから、光にあいたくて、光に包まれたくて、そういう場所に大挙して出かけていく。まあ、新型コロナパンデミックで、そうそう出かけられなくなったけれど、また、出かけられるようになると、すぐ出かけていく。あなたの周りにもおいでになるであろう。解禁になったら、すぐ、ハワイに行った人。まさに、観光地、というのは"光"を"観"にいくところ、なのである。あのバリにもハワイにも八重山にも通底する"光"にさらされたくて、つい、行くのである。
 で、そうそう簡単に光のあるところに身をおけない人たちのために、カウンセラーやアナリストも、いるのであろう。上記のロンドン大学の女性上司は、私が会った時点で、すでに10年近くアナリストの元に通っていた。彼女の心の闇は深く、つらかったようだった。眠れないのでスリーピング・ピル(就眠剤)も飲んでいた。もっともロンドンで出会った、アカデミアの皆さまの8割がたはスリーピング・ピル、飲んでいたような気がする。日本の大学でもちょっと話を聞くと、結構みんな、飲んでいる。眠れないのである。みんな。アカデミアって、大変なところ。
 彼女のアナリストはユング系の方で、カウチに横になってセッションを受けるようだった。その頃子どももまだ小学生で、夫も忙しく、大学のデパートメントを率いて国際的な仕事をしている彼女はもっと忙しいのに、アナリストの元に週3、4回、通っていた、と記憶する。週3、っていうだけで、すごい。月火水木金土日、週3通おうとすると、ほぼ一日おきに行かなきゃいけない。それにね、お金もかかる、と彼女は言っていた。一回のセッションで日本円にすると一万は下らないお金を払っていたから、大して高くもないアカデミアの給料の多くの部分をつぎ込んでいたようである。話を聞く限り、そのアナリストのところに通うことは決して楽しそうではなかったけれど、それが彼女の「杖」になっていたのだ、ということは理解できた。もう結構な年齢になっているはずだが、まだその活躍を論文や大学のホームページで知ることができるから、彼女は、そのアナリストを「杖」として、心の闇と闘い切れたのだと思う。いや、アナリストの皆さまからすれば、それは闘うものではない、と言われるかもしれないけれど。

 前置きが長くなってしまったけれど、私もカウンセラーのお世話になったことがある。主人がまだ生きていた頃だから、もう10年以上も前のことだ。同居していない子どものことを気にして、あれこれ、言っては、この子は、カウンセラーにかかってみたら良いのではないか、と口にした私に、主人はぽろっと、「カウンセリングが必要なの、君じゃないの?」と、のたもうたのである。「カウンセリング、行ってきたら?」と、なんと、私に、ぽん、と十万円くれた。普通のサラリーマンであった彼に、十万は大きなお金だ。私たち家族にとっても結構なお金であった。それを今も覚えてるけど、ばさっと私に渡してくれた。

 それで、一回一万円のカウンセリングに10回通ったことがある。たまたま近所にお住まいで、自転車で行けるところにクリニックがあって、そのカウンセラーさんのプロフィールが気に入ったので、まさに飛び込みで行ったのだ。大嶋信頼さんのグループの方で、当時、それぞれの人の"根底の恐怖"を見つけて、自分がつらくなった時は、その恐怖を7回唱える、ということを推奨されていた。私の場合は、「拒絶される恐怖」であることが判明し(カウンセリングでそれを見つけていく)、7回唱えることを始めて、なるほど、亡くなった主人が言うように、これは子どもの問題じゃなく、私の問題なんだなあ、と頭が凪のようになって腑に落ちた。十万円は、私の"杖"となってくれたのである。
 しばらく忘れていて、えっと、「拒絶される恐怖」を何回唱えるんだっけ、と思い出せないくらいだったのだが、このところ、非常に打ちのめされるようなことがあった。まだ、あるんだ、還暦過ぎても。自分でびっくりしたが、心の闇は深いな、と実感した。それで当時のことを思い出して、あ、「拒絶される恐怖」と目を開けて7回ゆっくり唱えるのだった、と思い出した。唱えていたら、頭が凪となり、はい、この原稿も書けてしまったのである。結構、効きます、これ。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。1981年、京都薬科大学卒業。1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。著書に『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『少女のための性の話』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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