おせっかい宣言おせっかい宣言

第109回

呪縛

2023.09.29更新

 義務教育の歴史の授業で習うから、白人世界が世界の富を蓄積し、世界を従えて、さらに富んでいき、その文化や仕組みや哲学や倫理を世界の"良識"として作り上げていったことを私たちは知っている。音楽も美術も文学も演劇も舞踊も、世界に広がっていった基礎となる形は西欧社会が作った。美しいものを美しいと見る基準も、優れたものを優れたものと認定する基礎も、人間の理性を恃みとする精神のありようも、さらに、近代というシステム自体もなかなかによくできあがっていたから、また、そのシステムは確かに人間の衣食住をとんでもなく豊かにしたから、端的に言えば魅力的でありすぎた。その呪縛からは、のがれることができないし、のがれなければならない、とも思えなくなっていると思う。自由も人権も民主主義もみんな、白人世界で作られ、洗練されていったものだから。その価値を私たちはどれほど享受しているだろう。その価値を享受するのみでなく、幾世代にもわたって、どんな環境にあろうと、私たちはどれほどその文化に憧れただろう。バッハのブランデンブルグ協奏曲に、クリムトの絵画に、ディケンズの小説に、チェーホフの舞台に、そして、ディズニーのお姫様に。人魚姫が色黒で登場しても、ポリティカリー・コレクトネスが話題になっても、憧れはそう簡単には変わらない。意識も世界の構造も簡単には変わらないのだ。いや、意識が変わらないから、世界の構造は変わらない、というべきか。白人とそれ以外の扱いがいかに議論されようが同じではあり得ない、という現実の構造が。

 2020年はじめから世界を席巻したCOVID−19パンデミックは3年を経たのち、2023年5月に、WHO(World Health Organization:世界保健機関)は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」宣言を終了する、と宣言した。日本でも同時期に新型コロナ感染症の感染症法上の位置付けが5類に変更され、いわゆる普通の呼吸器感染症と同様の扱いとなった。パンデミック終焉に向けて世界中が一歩を踏み出したわけである。このパンデミックにより、世界中ですでに700万人が死亡している、と発表されたりしている。誠に甚大な健康被害であることは間違いない。
 この新型コロナパンデミックが世界中の話題になる前から、世界の「三大感染症」と呼ばれている感染症が存在した。HIV/AIDS、結核、マラリア、である。これら三つの感染症により、毎年250万人の人が亡くなっていると言われていたし、さまざまな障害を引き起こしてきた。死亡数は減少してきているとは言え、多くの、いわゆる発展途上国、つまりは低・中所得国では、これらの感染症が主要な死因の一つであり続けていたのである。これらの三つの病気は原因も感染経路も予防策もわかっていて、治療法もはっきりしている。
 HIV/AIDSにおいてHIV(Human Immunodeficiency Virus:ヒト免疫不全ウィルス)はウィルスの名前、AIDS(Acquired Immuno Deficency Syndrome:後天性免疫不全症候群)は病気の名前である。AIDSにかかったら死ぬ、といまだに思っておられる方は多いと思うが、実はそれは正しく、AIDSを発症したら、体の免疫機構がやられてしまっているためにさまざまな外部からの病気、病原体を撃退することができなくなるため、死に至る。実際に、HIVウィルスが1980年代はじめに発見されてから1990年代なかばまで、多くの人がAIDSを発症して亡くなった。クイーンのフレディ・マーキュリーも、バレエ・ダンサーのジョルジュ・ドンもAIDSで死んだ。しかし、1996年、カナダのトロントで開かれた国際エイズ会議で多剤併用療法と呼ばれる、抗ウィルス剤をいくつか組み合わせて使う、という療法により、HIVウィルスに感染してもAIDSを発症することは避けられるようになった。現在、「エイズ治療薬」と呼ばれているのはこの薬のことで、HIVウィルスを体から完全に取り除くことはできなくても、AIDS発症を防ぐことができるし、継続した服用によって、ウィルスがほとんど検出されない状況に持っていくことも可能である。精液、膣粘膜液、血液の濃厚接触によって伝搬するHIVウィルスを予防するためには、とにかくコンドーム使用を推進することであるから、世界各地でコンドームを無料配布するキャンペーンが行われていたことは、日本でも記憶があるかもしれない。
 結核は、結核菌が引き起こす病気であり、BCGというよく知られた予防接種もある。戦前、戦後すぐは治療法の確定しない不治の病として恐れられていたが、1944年にストレプトマイシン、のち、パス、ヒドラジドが登場し、薬物療法で治療することができるようになった。現在はリファンピシン、ヒドラジドなどを軸に、数剤を重ねて六ヶ月使うことで治療する。
 マラリアは、マラリア原虫を持ったハマダラ蚊によって媒介される病気で、こちらも予防も治療もはっきりしている。とにかく蚊に刺されないようにするためにベッドネット(いわゆる蚊帳、である。若い世代はご存知ないかと思ったら国民的映画「となりのトトロ」によって、知られているようだ)を使ったり、ボウフラ対策をしたりして予防できるし、治療する薬物もある。
 つまりはエイズも結核もマラリアも予防や治療の手段はあるのだが、費用が安くないことや、社会的な背景により、貧しかったり、社会的に弱い立場に置かれている人たちに予防や治療のサービスが行き届かない、というわけである。予防できる死亡が予防できていない、ということで世界中の国々に啓発活動を行い、この発展途上国でなくならない死亡をなんとかしたい、ということが、国際保健と呼ばれる分野の大きな課題であった。課題であったが、世界の反応は、冷ややかであった、と言わざるを得ない。要するに、「貧しい国」で被害を及ぼしている病気であり、先進国では、予防も治療も行き届いているので問題にならない病気だったから、である。
 新型コロナパンデミックの初期、イタリアをはじめとしたヨーロッパの国々やアメリカで多くの被害が発生した。国際機関で、長年、エイズ、結核、マラリアの三大感染症対策に携わっていた国際保健の友人は「ヨーロッパが影響を受ける感染症ならこれほど騒げるのか」と、憮然としていた。まさに、身も蓋もない言い方であるが、西洋諸国、白人の国で被害が広がれば、世界は大騒ぎし、有色人種の発展途上国で起こっていることには、世界は冷ややかなのである。新型コロナパンデミックも、まず、アフリカで被害が拡大したりしていたら、世界の対応は全く違っていたことであろう。

 ロシアによる侵攻でウクライナの人々が苦しんでいる。それはまちがいのないことだ。しかし、理不尽な侵攻や内戦で苦しんでいるのはウクライナだけではない。シリアでもアフガニスタンでもイラクでも、同じようなことが起こっていたのだが、注目される度合いが全く違った。家族を失う悲しみも、理不尽に家を追われる苦しみも、人種や国によって違いがあるはずはないのだが、報道のされ方にも、個人の扱われ方にも、ひとりひとりによりそう思いにも、ウクライナ難民と、その他、つまりは、中東の難民、あるいはアフリカの難民、あるいはまだ記憶に新しいカンボジア難民、ベトナム難民は、同じである、あるいは同じであった、とは、とても言えない。白人世界であり、西洋文化を体現している人たちが被る被害は、非白人世界で起こる被害と同じように扱われることはないのだ。南アフリカがアパルトヘイトという政策上での人種差別を堂々とやっていた頃、経済上の理由から「名誉白人」という不名誉な称号を受け取っていた日本人の精神構造は、さらに、今でも、誠に不名誉な方向に呪縛され続けているのではあるまいか。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。1981年、京都薬科大学卒業。1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。著書に『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『少女のための性の話』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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