おせっかい宣言おせっかい宣言

第114回

教師生活の終わり

2024.02.29更新

 二十年間女子大学の教師をしてきたが、今年度末で終わる。その前に、3年半、厚生労働省の研究所で働いていて、そこでも大学院生にあたる人たちを教えていたから、日本での教員生活は二十四年ほどだった。教員をもっと長くやって終わる人ももちろん多いが、私の教員生活はここまでである。

 大学の教員は、「教え方」など習わない。大学の教員免状、というものは特になく、研究者としての研鑽を積み、大学に入職すれば大学の教師となる。他の人がどんなふうに教えているのかも、ほとんど知らないし、このように授業せよ、と言われる事もおおよその大学ではないと思う。小中高などであるらしい「研究授業」なるものもない。他人の授業を聞く機会は大学ではほとんどない。優れた研究業績を上げている人が優れた教師である、とは必ずしも言えないのだけれど、おおよそ、何か専門の研究をする人なら、その教育もやるであろう、という前提のもとに大学教員が職を得ていく。私はたまたま中高教員の免許は持っているのだが、それが大学教員に役に立つようなものであるかどうか、というのはまた別の話である。

 大学の教員は「一瞬の勝負」であるといつも思っていた。小中高のように、クラス担任が毎日様子を観察するわけでもなく、教科の教員が一週間に何回も会うわけではない。一週間に一回、講義もゼミも会うだけ。通年の授業であっても、年間、三〇回より少し少ないくらいの授業があるだけである。学生に会う機会はまことに限られている。そこでは、教師のどの言葉がどのように学生に「拾われて」いくか、どのように、先入観を崩すことができるのか、学びにつながりうるのか、教師には予測もつかない。

 参加型授業、ということが言われるようになって半世紀くらい経つ。私もパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を訳したから、「銀行型教育」ではなく「参加型教育」を、という言い方を意識していたつもりだ。教師が「知識を持てるもの」として「知識を持たない」生徒に「銀行にお金を預けるように」知識を積み重ねていくような教育では民主的な人間は育たない。教師は生徒一人一人が対話のもとに教育に参加し、そのファシリテーターとなるような資質を持っている必要がある、と。参加型教育とは、グループにわけてディスカッションをしたり、お互い話し合うことによって、学びを深めていくこと、と理解されていると思う。しかし、なんでも話し合わせれば良いのか。はい、グループに分かれて、このことについて議論して、というだけで良いのか。

 元宮城教育大学学長だった林竹二(1906-1985)は、ある小学校における研究授業を担当した時のことを語っている。彼は、子どもたちの前でずっと話し続け、特に生徒たちに意見を聞くこともなく、話し合いをさせることもなく、研究授業を終えた。参加していた別の先生たちは、林先生がずっと話し続ける授業の、どこが、参加型授業なのか、なぜ、生徒たちにもっと話をさせないのか、と、質問をする。林竹二は、子どもたちは小学校三年生とか四年生になる頃にはすでに、多くの「鎧」を身につけているのだ、と語るのである。そして、その鎧を身につけたまま、意見を述べさせたり、グループディスカッションをさせたりしても、「鎧同士」の言葉は、生きた言葉にならない。鎧をつけたままのもの同士で話し合っても、生き生きした本来の言葉は出てこない。鎧をつけたままで話し合う、そういうものは、本来の参加型学習とは言えない。生徒たちはむしろ、その、すでに築いてしまっている鎧をどのようにすれば下ろすことができるのか。下ろすことができて、初めて、本来の参加型学習が立ち上がる。話し合いをするからには、まず「鎧」を下ろさなければならない。林竹二は、その「鎧を下ろすきっかけ」になるような話を教壇から投げかけていたのだ、というのだ。

 小学校三年生程度で「鎧」を身につけるというのに、すでに二十前後まで生きてきた学生の、すでに身につけて久しいと思われる鎧を、どのように下ろすきっかけを提供することができるか。あるいはまた、この場ではその鎧を下ろしても良い、と思えるか。それは、教師である私の一貫しての課題であった。いわゆる講義においては、「鎧を下ろすきっかけ」、「何らかの先入観を突き崩すきっかけ」を、専門性の範疇の中で提供できるように考えていた。少人数でメンバーが固定されるゼミでは、どうすれば「ここは鎧を下ろしても大丈夫だ」と思ってもらえる雰囲気を作り出せるか、にかかっていると思っていた。そのような講義とゼミは、だから、その時、そのように自らに課した課題をクリアできるか、「一瞬の勝負」だと思っていたのだから、意識を集中して臨んでいた。講義もゼミも大好きだったが、やはりそれなりにエネルギーと時間を費やしていたのだろう。全部終わった今となっては、眠くてたまらない。寝ても寝てもまだ寝られる。二十数年教壇に立つことは、思ったよりもなかなかに力がいることだったのだろう。

 そのように私は授業とゼミに臨んでいたが、実際には、どの部分が学生に届いたのか、届いていなかったのか、私の言葉はどう解釈されていったのか、解釈されなかったのか、は、それはよくはわからない。

 先日、卒業生が結婚した、という知らせが届いた。お相手はパイロットとだという。学生時代からパイロットと結婚します、と言っていたから初志貫徹、と言える。すごいね、本当にパイロットと結婚したのね、素晴らしい、と書いたら、返事が来た。「もちろん職業で選んだわけではないのですが、結果として、有言実行したことになりますね。学生時代にゼミで結婚の話題になった時、先生がケイト・ミドルトンは戦略的にウィリアム王子と結婚したとおっしゃっていたことに感化され、何となく、自分の理想の結婚のための人生計画を立てることにしたのですが、意図せずしてその通りになっていました」。

 ケイト・ミドルトン? そんな話、したっけ? と思ったが、そういえば、ウィリアム王子が結婚したとき、どこかの記事に、ケイト・ミドルトンは、そもそも王室と結婚するにふさわしいような家柄の出身のお嬢さんであったが、ウィリアムと結婚することを目指して、戦略を持ってウィリアムと同じ学校に行ったり、同じサークル(?)に入ったり、とシステマティックに近づいた、ということが書いてあるのを読んだような気がする。本当かどうか、今は確かめようもないが、その時、彼女のいるゼミで、私はぽろっと、そう言ったらしいのである。まさに一瞬のことである。それを聞いた彼女は、そうか、結婚とは戦略を持ってしなければならないものである、と理解した。就職先は航空会社総合職。パイロットやC Aなどを研修する立場の仕事をするようになる。今のご夫君の研修も担当し、それをきっかけに親しくなったのだという。やさしそうで、本当に素敵なご夫君だった。お相手としても、自分の選んだ職業に憧れを持ってくれる女性がいるのは、決して悪い気はしなかったのではないか。自らの属性の一つを好意をもって受け止めてくれた、と思うであろう。

 本当にどんな話がゼミや授業で拾われて学生の頭に残るか、わからない。また、同時に彼女のいたゼミのみんなが彼女の計画を知っていたようだから、うまく「鎧」も降ろせていたのであろう。全くどの言葉、どんな話が拾われるかわからない。しかし、そのこと自体も私の喜びであった、と気づくのである。

 さらば、私の教師生活。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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