おせっかい宣言おせっかい宣言

第139回

頭上運搬その後 「お手玉」

2026.03.17更新

 石垣島で知人と話をしていた時のことである。その日初めて会う方と3名で、もう一人の旧知の方が、「この人は、頭上運搬の本[1]も書いた人でね」と私を紹介した。石垣島に住む二人は、とも70代前半で、彼女たち自身は頭にものを載せて運んでいないが、母の世代の女性たちが運んでいるのは日常的にみていた、頭上運搬を日常として記憶する世代である。

 頭上運搬の話題が出たので、初めて会った方の方が、お話ししてくださった。

 そういえばね、デイサービスで高齢女性がたくさんいるところでね、みんな杖をついてきていたりしているの。ある時、お手玉持ってきて、と職員の一人に言われてね、お手玉をして遊ぶのか、と思ったら、違うのね。お年寄りたちの頭に一個ずつお手玉を載せるの。それで歩いてもらうと、もう、それだけでシャキっとして歩ける。姿勢も整ってきれいに歩いているのよね。杖なんか全然いらなくてね。で、お手玉を頭から取ると、そんなふうに歩けないの・・・。

 あちこちで頭上で物を運ぶ人の記憶や記録を辿ってきた。なぜ、頭上運搬ができるのか、というと、「できると思うからできる」という結論に至る。これはなんらかの才能があったり、突出したものがあったりする特別な人ができることではなく、人間が生きていく上で、何か物を運ばなければならないから、自然に、誰もが行うようになってきた、手を握る、とか、物を持つ、ということと同じレベルの、普通に体が動いていればできる、という類のことなのである。

 育ってくる過程で、どのように体の使い方を学び、どのような作法を身につけ、どのような作業をするのか、ということを私たちは、周囲を見て学ぶ。どこまでが本能でどこまでが環境の影響か、という議論には終わりがない気がするが、私たちは一人で生きているのではない社会的存在なので、周囲から学ぶ。ものを運ぶ、という作業は、動物もやると思うが、直立して両手が自由になった人間は、独特な運び方をやることになるわけだ。

 大型類人猿は、手を使って枝などの物を運ぶことはあるが、大きな物を運んでいるのは見たことがない。彼らは必要な物を作るのではなく、自分たちが必要なものがあるところに移動するのだ。大きな物を運ばなければならないということは人間が自然を利用して自然と対峙して、何かを作り上げる、という作業に伴って起こることである。かなり二足歩行することが可能な、チンパンジーやボノボは頭上運搬ができるのだろうか。必要がないからやっていないわけだが、おそらく学べばできる、というか、教えればできる、というか、人間が見せれば、やるのではないだろうか。その辺りは、関係性の問題である。チンパンジーと個人的な信頼関係を築いていた、今はすでにない、岡山県玉野にあったGARIのような研究所があれば、頭上運搬を二足歩行する動物ができるかどうか、試してもらえたような気がする。

 霊長類学者でボノボの世界的研究者である伊谷原一氏に聞くと、チンバンジーは、とりわけ二足歩行を得意とするボノボは、おそらく簡単にやるだろう、という。そもそもチンバンジーやボノボの二足歩行は、両腕でものを掴みたいから立ち上がって二足歩行を始めた、ということになっているらしい。掴みたい、ということは、何かを運びたい、ということである。その場で食べるだけなら、掴む必要はない。掴んでおさえた方が食べやすいだろう、という程度である。食べ物を掴んでどこかに運びたい、どこかに置いておきたい、そういう必要性があって、くわえて運ぶより、両手で持って運ぶ方が効率がいいことを学んだので、立ち上がったということらしい。そもそも立ち上がって二足歩行を始めた、ということ自体が、ものを運ぶための行動であった、ということは興味深い。

 そこで両手で運ぶより、たくさんのもの、重いものを運ぶ必要性が出てきた時に、人間は頭に載せたのだろう。ボノボやチンパンジーの中に、"持つの、重いやん、頭のせた方が、楽ちゃう?"、みたいな個体が一人現れたら、彼らも頭に載せたのであろう。たとえば猿回しで使われているニホンザルはもちろん、両足で立って、拍手したり、芸ができるわけで、彼らにたとえば頭にのせて歩くことを訓練すれば、おそらくできるだろうという。そもそも、猿回しで直立することを訓練されたニホンザルは背骨が他のニホンザルとは異なって、人間のようにS字に湾曲してくるらしい。行動によって、体も変わるのである。

 そう、サルもできる。二足歩行して、ものと地球の間に直立する姿勢をとった動物は頭上運搬できる可能性がある。じゃあペンギンとかどうなのかとかエリマキトカゲとか頭にモノ載せて走れるだろうかとか考えてしまうのだが、進化の過程を考えると、こちらはものを運ぶ必要性にまでいたりそうにないから、やらないだろうか。などなど考えることは広がっていくが・・・。

 でもやはり、「なぜできるのか」という根本には、近づけるようで近づけない。なぜサルでも運べるのか。いや、運べていないけど、運べると、研究者が思うのか、というと、そこに意図と学習というプロセスが入って、そこに二足歩行する動物の体は適応していくであろうと考えるからである。意図。つまり頭に何か載せて運びたい、という意図である。その意図がどのような身体意識となって、実際に体の方向性を決めて、歩くことができるようになるのか。

 「お手玉一個」で、高齢女性たちがすっと歩けるようになる、ということは、頭の上に何か載せる、それを落とさない、という体づかいが何かを喚起する、というか、呼び覚ます、つまり、それがなかったときには使っていなかった何か、が立ち上がる、ということだ。それは、何だろうか。まずは、「お手玉を落とさない」という思い、お手玉を落としたくない、という意思、落とさないようにしよう、と思うこと。その意思と思いに向けて、何が喚起されるのか。私たちはこの地球に生かされている生物であり、重力と天の関係によって、ここに、在る。そこにある物質は、落ちる。何かが地球の重力の中心に向かっていく。落としたくない、という思いは、その地球の重心と、落としたくないものの間に、何かをおかねばならない、そして、自分の体から落としたくないのだから、自分の頭の上にあるものと地面の間にある自分の体を、調整しなければならない。自分の体の調整、とは、自分の体がその物質と地球の中心との間で、じゃまをしない、ということであり、自分の体が動いても、動く刹那に連続的に調整し続けていく、という意味での調整である。あたかも、もの、が、地面の上に載っているのと同じように。自分の体が存在しないかのように。そのような調整ができるということ。

 できない人は何ができないのか、というと、載せているものと地面の間にある自分の体を、まるで何もないかのように動かすことができない、ということか。体が硬いとか固まっているとおそらく、載せているものと地面の間にある自分は、じゃまするような存在になるだろうと思うのだが、高齢女性は、からだが固まってきているから歩きづらくて杖を使っているはずなのだ。それでもお手玉一個が載ることで、自らの意識は、自分の体の状態を把握することより、お手玉一個を落とさないことの調整へと向かうので、落とさないのか。これができるのは、体が自在に動いた頃に、そういうことをやっていた体の記憶があるからか。ここまで書いてみてもまだ、完全に必要なことを書き尽くせた気がしないままでいる。

 書き尽くせた気がしないのでやはり、実践しかない。お手玉があいにく手元にないので、みかんとか菓子袋とか、頭に載せやすい小さなものを周囲に見つけて頭に載せてみる。頭上運搬を結構長い間研究してきて、本まで書いているので、私は軽いものなら頭上運搬できる。軽いもの、というのは、まあ、普通の荷物程度のことで、もともと頭上運搬していた人が運んでいた20キロとか30キロの芋とか魚とかタンスとかブロックとかは運べません、ということだ。このちょっと軽めのものを頭に載せて運ぶということと自分では載せられないくらい重たいものを載せる、ということは全く別のことのように感じられる。私の稽古程度では、20キロを載せるところまで至っていない。

 でも、まあ、軽めのものなら載せて歩ける。米袋とか、砂の入った袋など頭に沿うものなら10キロくらいはいけそうな気がする。その程度が私の現在の能力である。つまり私は頭上運搬の基礎のキくらいはわかる気がするので頭にのせられる。で、みかん一個、菓子袋一個を載せて歩こうとすると体に起こることは何か。やはり姿勢を適切にして、頭上に意識を持ってきて、落ちないように体を調整していく、ということだと感じる。頭にものが載っている、ということを忘れることはありえない。そこに載っているものを運ぶ、という意識は常に消えることがない。そこにものは載っているが、じっとしているわけにはいかない。これを運びたい。とすると足を出していかねばならない。足を出すので体は動くが、上半身がふらついたり頭が傾いたりしたら、当然おちる。だからそうしては、いけない。少しあごを引いて、視線は歩く方向へ。肩は落として、上半身は伸びて、しかし足を動かすことによる振動が上半身に伝わってはいけないから、足の動きと体が動くことをどこかで吸収しなければならない。その動きを吸収しているのはおそらく腰である。腰から下の足を動かし、上半身にはできるだけぶれを少なくする。少しぶれたときはすぐに調整する、そういう動きを腰を中心にして察知し、上半身で吸収するようにする。上半身に力が入っていると、腰で察知した動きを吸収できないから、自然と肩は落ち、背骨はゆらりとした状態になる。

 この姿勢は、覚えがある。琉球大学大学院在学時、八重山芸能研究会で稽古のたびにやらされた、「歩行」である。腰は少し後ろに引いて、足は摺り足のように歩く。上半身はまっすぐにキープする。体は決して上下してはいけない。すーっと並行移動のように動く。重心と軸がそのまま移動するように動く。美しい姿勢であり、美しい移動の仕方である。「気をつけ」の体育姿勢で、体をまっすぐに伸ばし、膝裏も伸ばし、腰はそりぎみにして背骨を伸ばす(気になる)ようなカチッとした姿勢をいい姿勢だと長年誤解してきたが、これは違うのだ。膝裏を伸ばそうとする姿勢では、私は自ずとO脚になってしまう。友人はX脚になる、と言っていた。それは膝裏を伸ばすからそうなるのだ。脚の自然な姿勢は、膝裏を伸ばした姿勢ではなく、膝裏に、運動科学研究所を主催する高岡英夫師範が「膝玉」と呼ぶ体の中心軸の通り道である膝裏に「玉」を感じる程度に、自然な姿勢というのは膝が少し屈曲する。ゆるんだ軸の通った立ち方は、膝がまっすぐに伸びないのである。そういう膝の状態だと自分の足もO脚にならない。その状態で真っ直ぐかどうかをチェックすることができる。八重山舞踊で学んだ姿勢ではまさに膝がまっすぐに伸びない。

 頭の上に何か載せて、それを落とさないで歩こうとすると、膝は必ず少し曲がるのである。頭の上にあるものを意識し、そのまま歩こうとすると頭からまっすぐに地上に落ちる線、つまりは軸の存在が必要になり、そうなると自ずと膝は曲がるのである。高岡師範によると、体の中心軸は内くるぶしから膝裏を抜けて会陰を通るという。会陰は女性は装置があるから男性より自ずと意識しやすい。男性は、そこが意識できるようになるように武道のトレーニングとして会陰をさすったりすることもあるらしい。女性は会陰に装置があり、そこを月経、性行動、出産、と、生殖人生の間に会陰を意識することが多いわけだから、結果として軸の通る場所を意識する機会が男性より多くなる。アフリカ以外の地域では、ほとんど頭上運搬を行うのは女性のみであり、アジアではとりわけ女性は頭上、男性は肩に載せて運ぶ。男性が肩で物を運ぶためにももちろん軸は必要なのだが、頭上からまっすぐに地に向けておちる線は、装置のある女性の方が意識しやすかったのかもしれない。だから女性だけに頭上運搬が残った、ということもありうるか。残った、というのは、古い絵巻ものなどでは日本でも男性が頭上運搬している様子がうかがわれ、女性だけが頭に載せる、と言われるようになったのはかなり時代が進んでからであるように見受けられるからだ。

 頭上運搬をめぐる思索は尽きない。



[1] 三砂ちづる「頭上運搬を追ってー失われゆく身体技法」光文社新書、2024年

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載を元に、『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『心の鎧の下ろし方』(ミシマ社)が発売されている。

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