第35回
編集力は変容力?!
2021.09.04更新
まずは『地域編集』という言葉を掲げてみること。さらに、自身のこれまでの活動を整理していくことから、僕なりの「編集とは何か?」を見出し、シェアしたいとスタートしたこの連載。できる限り現場のリアルな葛藤や失敗なども明らかにして、さまざまな地域の人たちの参考になる記事になればと思っていたけれど、コロナ禍に入ってからの僕はもうそれどころじゃないほどの苦悶の連続で、それらを整理して書く余裕すらなかった。
なにより物理的に地域の現場に伺えないことが、僕をとても苦しめた。しかしその一方で見えてきたことや気持ちの変化について、ようやく整理できるようになってきたので、ここで明らかにしていきたいと思う。
まず僕はこれまでずっと、自分の目線を「よそ者」にセットしてきた。しかしいま僕はこの初期設定を変化させなきゃいけないんじゃないか? と考えている。さまざまな地方でのリアルな参考事例には事欠かない世の中で、それを自分なりに咀嚼して、我が町にあった形に編集し実践している人も多い。つまりもう、よそ者が必要な時代は終わりつつあるんじゃないかと思う。いや、もちろん、よそ者の強みや、よそ者だからこそ果たせることというのはあるけれど、もはや必要なのは、よそ者そのものではなく、よそ者感覚なのだろう。
つまり、僕がこれまで進めてきたやり方や方法論というのはすでに過去のものとなりつつある気がしている。
そこで僕はいまあらためて、地域の人たちが持つとよいはずと思っていた「編集力」というものについて考え直している。編集力とはいったいなんだろう? その答えは意外にもスッと出た。
僕が地域の人たちに求めていた編集力とは、変容力だ。
僕の会社の屋号である「Re:S(りす)」は「Re:Standard(リスタンダード)」の略で、スタンダードはつねに変化するということが前提にある。社会や思想、環境の変化にともなって変容していくチカラが編集にとってとても重要だと考えている。
それは、裏を返せば世の多くが「変化を恐れ」「変化を諦め」ときに「変化を否定」するからだ。
決めてしまうこと。結論づけること。それは「済印」を押してしまうことに近い。それは次に進むために必要なことではあるけれど、それらの結論には遠からずモデルチェンジのタイミングが訪れることを忘れてはいけない。
変化していくということは、考え続けることと同義だ。
僕が昔「マイボトル」という言葉を掲げて、マイ水筒を持つ文化を広めようと頑張っていたとき、大手新聞やNHK、民放各局などからたくさんの取材を受けた。しかしそのすべてが「マイボトル=エコ」という文脈と筋道があらかじめ決められた取材だった。僕はステンレスボトルをたくさん作ることも大きな環境負荷があるのだから、マイボトルを持つことが=エコとは思っていない。それよりもペットボトルのようなもはや水筒のごとし立派な代物をバカバカとゴミ箱に捨てる所作が身に付いてしまうことを危惧している。と、そんな風にいちいち返答していたけれど、全ての記事や放送で僕の意見は綺麗にカットされていた。
もちろんマイボトルを持つことがエコにつながる側面はあるのだから、多少はそれを受け入れてもいいように思うけれど、当時の僕がなにゆえあそこまで抵抗したのか? それは「マイボトル=エコ」という短絡的な答えを流布させることで人々の思考をストップさせたくなかったからだ。マイボトルは確かにエコにつながるかもしれない。けれど、それって本当なの? このパッケージは無駄じゃない? こんなビニールに包まれている必要あるの? などと、その先へ先へ思考を深めてほしかったし、何より僕自身がその過程にいた。いまも。
つまり安易に答えを出してしまわない力。わからないものをわからないままにして進んでいく力。そういうものが編集力なんじゃないかと考える。編集とは決まったルールに準じることではなく、世の中の変化や、未来のイメージにあわせて変化し続け、いまの最適解を提案し続けることだ。
だから僕はいま自分が言ってきたことの多くを再考し、大いに前言撤回していきたい。
地域にはもはや僕のような「よそ者」は必要ない。「よそ者目線」や「よそ者思考」こそが必要で、それこそそこに「編集」という作業の大切な視点が詰まっているように思う。次回はその視点について書こうと思う。