第64回
展覧会を編集するということ
2024.02.08更新
島根県の松江市にいる。山陰を代表する写真家、植田正治の生誕110年を記念した展覧会『植田正治と塩谷定好』(2024.4.15まで)が島根県立美術館で開催されているからだ。
植田正治は現鳥取県境港市に生まれた。大山の麓、建築家・高松伸設計による、植田正治写真美術館に訪れたことがある人も多いのではないだろうか。米子写友会といったローカル写真クラブの活動を通して写真に夢中になった植田正治は、上京して写真学校に通うなどした後、故郷の境港に戻って写真館を営む傍ら、写真雑誌の懸賞に次々入賞して頭角を現していった。
2000年に逝去した植田正治だが、国際的な評価はますます高まっているという。それは、山陰の豊かな土壌からモダンな空間を切り取り、そこに静物のごとく人物を配しながらも、人間味と詩情あふれる表現を数々生み出していった、彼独特の写真スタイルが、「UEDA-CHO(植田調)」という言葉となって広く流通していることに象徴されている。
一人の作家のスタイルが、そのような「言葉」を生むまでに広く届いていったのは何故か。そこに僕は編集のチカラを見ている。
島根県立美術館に蔦谷典子さんという主任学芸員がいる。僕はこのかたを、広義な意味での編集者として尊敬し続けている。この展覧会はそんな蔦谷さんのお仕事だからこそ、しっかり見ておきたかった。
今回の展示はコレクションがベースになっているゆえ、たった300円で観覧することが出来る。なんとありがたいことだろうと、美術館という存在の重要性を思う。しかもそこでは、「写真家・植田正治の物語」と「写真家・塩谷定好の物語」という2冊の冊子が無料で配布されており、まさにこれこそが蔦谷さんの仕事だと感じ入った。
蔦谷さんは写真史の専門家であると同時に、西洋近代美術史の専門家でもある。蔦谷さんは、アマチュア写真の世界で有名人だった植田正治の作品に、西洋近代美術の影響を見出した。そこを理解の入り口にして、生前の植田正治さんとの深い交流が始まっていったことが、植田正治という写真家の世界的な評価へとつながっていく。
つまり、蔦谷さんが果たした仕事を平たく言えば、「境港で写真館を営みながら月例懸賞で入賞しまくっていた、写真好きおじさんの稀有な写真表現を、西洋美術の大きな流れのなかに捉え直した」ということだ。
それを展覧会に編集して表現。そこで生まれる副産物としての「図録」が、植田正治を世間に知らしめた。「展示」という身体感覚を伴う体験と、「図録」という紙メディアが持つ、伝搬性とアーカイブ性。この二つをもって、植田正治を写真史における重要な作家と位置付け、それどころかそのスタイルを一つのスタンダードとしたことが、「UEDA-CHO」を生んだ。これを編集者と言わずしてなんと言えよう、と、僕は思う。
そうやって、植田正治の師匠とも言える、塩谷定好を。植田正治の作品に憧れた奈良原一高を。さらに、写真の解体と再構築を繰り返した、森山大道をも、世の中に知らしめていった。これらすべてを見出し、まとめ、編み、伝えたのが、蔦谷典子さんだ。
生憎の天気だったが、宍道湖には雲が似合う。いや、宍道湖というよりは山陰と言うべきか。植田正治さんも通ったという宍道湖沿いの喫茶店で、シジミ漁の船を眺めながら、編集者の役割について考える。