第48回
仲間集めの原点
2022.10.08更新
弱みの吐露から始まる仲間づくりの原点について、自身の歩みを振り返った時、思い出すのは僕が初めてつくったフリーペーパーのこと。年齢は23歳頃だったろうか。当時小説家になりたかった僕は、東京の某出版社の新人賞に応募して佳作をいただき、意気揚々と東京に行ってみたものの、たった数日の滞在のなかで出会った同世代の若者たちの熱意と活躍の兆しに圧倒されてすぐ関西に戻ってきた。帰りの新幹線のなかで僕は、関西でも、東京で出会ったような夢を持った同世代の若者がいるはずだと思い、なんとかしてそういうやつらに出会えないかと考えていた。そこで思いついたのがフリーペーパーという場所づくりだった。
お金もなければコネもない。だけど思いと若さだけは十分だった僕は、そこで一枚のチラシをつくることにした。なんとかしてまだ見ぬ仲間たちと出会いたいと思ったのだろうが、今思えばこの行動はとても正しかったように思う。フリーペーパーというのは、究極たった1人でもつくれるもの。だけど当時の僕は1人でそれをやるという選択肢がゼロだった。まずは仲間を集めないことには始まらないとそう信じて疑わなかったのだ。
当然、桃太郎じゃあるまいし黙って向こうから仲間が尋ねてくるわけはない。その一歩目として行動したのがチラシづくりだった。当時、関西では小劇場ブームと呼ばれる演劇ブームが起こっていた。関西の深夜テレビ番組では、演劇の世界で活躍する若い役者たちが活躍し、そこにはいまなお第一線で活躍される古田新太さんや、生瀬勝久さん、升毅さんなどがいらっしゃった。そんな大盛り上がりな関西演劇界の聖地になっていたのが「扇町ミュージアムスクエア」という劇場だ。大阪ガスの企業メセナ的に運営されていた複合文化施設で、小劇場のほかミニシアターや雑貨店。そして2階には雑誌ぴあの編集部まであった。その建物に僕は、上述のチラシを置かせてもらった。
まだパソコンがいまみたいに普及していない時代、ワープロで懸命につくった一枚を、できるだけ目立つようにカラー用紙に50枚ほどコピーした束を置かせてもらった。それはいわば僕の編集者としてのはじまりだ。チラシには、大阪から新しいフリーペーパーをつくりたいんだという闇雲に情熱的な文章と、僕の携帯番号が書かれているのみ。正直に言って中身なんてほぼなかった。まるで禅問答のようだけど、あるとしたら僕の「何もなさ」と「空虚さ」だけ。バンドに憧れたやつがろくに楽器もできないのに「当方ボーカル。ギター、ベース、ドラム募集」と書いた張り紙をライブハウスに貼るようなもので、そこには「ライター、カメラマン、イラストレーター、デザイナー募集」とも書いた。あの頃の僕はその滑稽さにすら気づかないほど必死だった。
もしあの時「ところでお前は何ができるんだ」と聞かれたらなんと答えただろう。「いや、すでに僕はこのチラシをつくった」とでも言っただろうか。そう思うほどに無謀で馬鹿で生意気な典型的な若者だった。しかしその馬鹿さや空っぽさが伝わったからこそ、僕の携帯に見知らぬ何人かから電話がかかってきたように思う。余白は余地と言えばスマートだけど、言わば、隙とか甘さに溢れていたはずだ。それは意図するしないは別として弱みの発露に違いない。
当時、連絡をくれた人たちのなかで、もっともありがたかったのは三澤くんというデザイナーだった。彼はまだ宝塚造形大学の学生だったけれど、学生とは思えないほどスキルがあって、かつ、既に自分のスタイルのようなものを持っていた。僕が拙い原稿を渡すと、彼は素晴らしくクールなデザインに仕上げてくれて、いま思えばそれがどれほど奇跡的なことだったろうかと思う。この時点で僕は、才能をアウトソーシングすることの強みを知らず体感していたのだ。これはとても大切なことだといまは思う。そして僕は、彼と出会ったことからMACを購入。PowerMacintosh G3 DT266。それが僕のはじめてのMacだ。彼に手取り足取り使い方を教わり、僕自身もイラストレーターやフォトショップなどのAdobe製品の作法を覚えていった。そして1998年11月、『The BAG magazine』通称バグマガというフリーパーの創刊準備号を発行。翌年1999年1月に無事創刊号を発行した。
同じように小説家になりたい、イラストレーターになりたい、映画監督になりたい、役者になりたい、いつしかそんな若者たちがこのメディアに集うようになり、僕はなんだか浮かれていた。仲間が増えていくようなそんな心地になったのだろう。それもこれも、僕が空っぽだったからこそだ。何かをやりとげたとか、評価されたとか、そんな経験も後ろ盾も何もない若造は、足りないものだらけだった。だからこそ僕には偉大なる余地があった。はっきりと言う。この余地や余白は年を重ねるについて消えてく。生きていく限りは経験がそこを埋めていくのだ。その内情や中身がどうであれ、人間の外側の器はせいぜい成長期でストップだ。それ以上は何かしらが中に詰められていく。そこに何を詰めていくかは自分次第。
とにもかくにも、若気の至りは特権で才能だ。これほど全ての人に等しく与えられた才能がほかにあろうか。僕はこの通称バグマガと呼ばれたフリーペーパーでさらなる若気の至りを繰り返していく。でもそれが50近くなった僕の確かな基礎になっているのは間違いない。結論だけ先に書くと、僕はこのフリーペーパーの原稿をみんな無償でいただいていた。告白すると、それが友近やケンドーコバヤシさんのような吉本の芸人さんであれ、ヨーロッパ企画の上田誠くんであれ、映画監督の山下敦弘くんであれ、イラストレーターの福田利之さんであれ、いぬんこさんであれ、すべての人がだ。
それこそ僕の若さと馬鹿さが、強いディレクションを生んで、バグマガは関西においてはとても人気なフリーペーパーに育っていった。