第12回
書籍から地域への必然
2019.11.17更新
地域編集のはじまりとして、まず書籍編集をするという、僕が広義な意味の編集にこだわる、その根っこを明らかにした前回。ただ、そう書いてしまうと逆に書籍編集を軽んじているように思われるかもしれないので、一応言葉にしておくが、もちろんそんなことはない。それどころか書籍編集に真摯に向き合った結果であるということを説明したい。
自著『魔法をかける編集』のなかで、僕は雑誌や書籍を編集する際に、情報重視な編集をしないことを心がけていると書いた。別に、情報誌を毛嫌いしているわけではなく、鮮度が重要になる書籍編集がシンプルに僕のやり方に合わない。僕にとっての編集の意義は、あたらしい価値づくりにあるからだ。
実は前回の原稿で、
1つ目は、従来のテキストベースな二次元的「書籍編集」。そして2つ目は、場づくりやものづくりに関わっていく三次元的「地域編集」だ。それぞれに使う筋肉は違うけれど、使う脳みそはとても近い。この両方を「編集」と呼ぶことの意味は、ともに、あたらしいモノを生み出すのではなく、あたらしい価値を生み出すところにある。
と断定的に書いたあとに、これはあくまでも僕にとっての当たり前なのかもと思い直した。「いま求められている」という強い気持ちで編集されるものにも当然大きな価値がある。もっと言うなら、その方がその価値をより早く、多くの人と共有できる。しかしながらその価値はあくまでもいま現在受け入れられる価値だ。僕の興味は既存の価値への順応ではなく、あたらしい価値を生み出すことにある。そしてそれが編集の大きな魅力だと思っている。
ただ、そんな思いで編集したからといって、それがそのまま新しい価値を得るわけではない。その後の世の中においてどのように価値づけされるかは誰も予想できない。ならば、すぐに受け入れられなくとも諦めず、持続させていくことについて考えるしかない。ナイナイの岡村さんや、千原ジュニアさんなど、第一線で活躍されている芸人さんがよく言う「面白い芸人は時間がかかっても必ず売れる」という話が僕は大好きだけれど、それを信じる僕は、自分の編集物に対して出来るだけ長く生きながらえる仕組みを最初からセットしたいといつも考えている。その結果として、旬な情報から距離を置いている。
そしてもう一つ、書いておきたいのが「取材」のこと。前回、書籍編集と地域編集の共通点としての「取材」について触れたが、それは「ゴールのない取材」に限る。僕が基本的に台割(だいわり)を作らないことはいろんなところで書いているけれど、それは=スタート時点からゴールを決めてしまわないためだ。
取材と呼ばれるものの多くは、取材をする前から、ある程度のゴール設定がなされている。例えば僕が「マイボトル」という言葉を生み出し、世の中に広めたいと考えた2004年頃、新聞やテレビなど数多くのメディアから取材を受けたけれど、全メディアの人にきちんと話したのに、一社も使ってもらえなかったのが「マイボトル=エコだと思っていない」という言葉だった。ペットボトルをバカバカと使い捨てる文化にNOを掲げたく生み出した言葉だけれど、じゃあマイボトルを持つことが本当にエコなのかと言われたら、それは正直わからなかった。マイボトルの浸透とともに、ひょっとしたらペットボトル以上のエネルギー負荷をもってステンレスボトルが量産されていくかもしれないし、そんな風に短絡的に地球環境に良い悪いなんてことは言えない。そう僕は取材を受ける度に必ず話した。だけどそれはメディア側にとっては不要な意見で、彼らはみんな「マイボトルでエコ活動」といったゴールにむかって材料を取りに来ていただけだった。
そんな経験をしたからということではないけれど、僕はそういう取材に違和感を感じた。取材とは、もっとゼロな気持ちで取り組むべきものなんじゃないか? 取材をもって聞くこと、知ることから、現状を打破せんとする人たちの背中を押すことができるような、新しい価値を抽出することが取材者に必要なチカラなんじゃないか? と思ったのだ。
前回の記事では地域編集のはじまりとしての書籍編集と書いたけれど、つまりはそんな取材の先に見えてくる意図せぬゴールに真摯に向き合うほど、そのアウトプットのカタチは書籍だけでは収まらなくなっていった。「地域編集のはじまりとしての書籍編集」は、確かに僕の今のスタンスだけれど、そのはじまりは、真摯に書籍編集に取り組んだ結果だったのだ。