第146回
子どもを抱くよろこびに
2026.10.16更新
夢を見た。次男の夢だった。洗面台にやっと届くくらいの背丈で、黄色っぽいパジャマを着ていた。歯を磨いているので、じょうずにみがいてるね、とか、声をかけていた。にこっ、と笑った顔がすごくかわいらしかった。4時過ぎの時過ぎのことだ。
君の小さい頃の夢を見たよ、といまや30代半ばである次男に連絡すると、返事が返ってきた。今、寝るところで歯を磨いていた、偶然だね、と。そうか、歯を磨いていたのか。現実でも。シンクロニシティ。
もう、ずいぶん前になるけれど、ある子育て雑誌に寄稿した文章がある。その後、主婦の友社で出版した「五感を育てるおむつなし育児」に掲載された。口コミで広がって、曲をつけてくれた人もいる。「詩」と紹介してくれている人もいるが、もともと、エッセイとして書いたものだ。しかし皆さんが紹介してくれているのを見ると、これは詩、と呼んでもいいな、と思う。
「こどもを抱くよろこびにひたってほしい」
今あなたはとても忙しいと思う。
慣れない幼い子どもとの日々に翻弄され
やってもやってもやるべきことが終わらない
家の中のあれこれにため息をつき、
まして外で仕事のひとつもしていれば、
なんで私だけがこんなにがんばらなきゃいけないのよと、
腹のひとつもたち、
穏やかにぐっすり眠ってとろとろと夢を見る、
ということ自体が、
どこか遠い世界のように思うのかも知れない。おむつもかえなきゃいけないし、
おっぱいもあげなきゃいけないし、
ちょっと大きくなったら
「ママおしっこ」と起きてくるし。ああ、わたしは毎日忙しい。
ゆっくり夢をみること自体が「夢」
ゆっくり眠りたいだけ眠った、
なんていつのことだったかしら。残念なことに、
とうか幸いなことに、
というか、時間というものはゆくりなく過ぎ、
いま、あなたがやっていることはあと数年と続かない。彼らは学校に行くようになり、
あなたの知らないところで
あなたの知らないことをする時間が増え、
あなたは夜はもう少しよく眠ることができるようになる。そうすると朝早くから起きて弁当のひとつも作り、
子どもの外のおつきあいの後始末などもしなければならなくなってくるけれど。つまりはフェイズが移る。
私はもう50を過ぎている。
2人いる子どもは青年になり、
文字通り毎日どこで何をしているのやら。
見上げる青年になって、
私の知らない彼らの日常はまぶしい。この人たちはもう私の「手の内」では生きていないのだ。
ときおり私は夢をみる、
夢の中には子ども達2人がよく出てくる。
その彼らは、けっして今のような「男に育った」彼らではない。
夢に出てくるのは幼い彼らだ。お話ができて、
自分のひざにのってくれるくらいの子どもである彼ら。おそらくあと50年生きても、
夢の中の私の子どもは、
この大きさであるに違いない。あのね、ママ、あのね、と、
とても高い声で私を見上げ、
「つまらないこと」をいちいち聞きに来たリ、
報告したりする息子たち。私がしゃがまないと、
彼らの視線とは合わず、
抱きしめれば腕に足り、
抱き上げれば、そのまま移動できる重さ。
私の手の届くところにいる彼ら。おかあさん、
今あなたのひざにいるお子さんのなんといとおしいこと。母として、
いちばんよい時期。
いちばん印象に残る時期。あなたの子どもはいつもその大きさで、
あなたの夢の中で位置を占め続ける。あなたが人生でつらいことがあった時、
あなたの子どもたちは、
そのような大きさであなたの夢の中に現れる。それが現実と交錯する今こそが、
あなたの幸いでなくてなんであろうか。涙ぐむようにして、
幼い子どもをかきいだく喜びにひたってほしい。
この文章を書いたときに、すでに私は、この幼い子どもを抱く喜びの季節の過ぎた悲哀を十分に知っていた。さらに10数年が過ぎ、私は今、70が手に届くくらいの年になった。ひざに乗っていた息子たちはすでに30代半ばである。上の子には、ちょうどこの文章に出てくるくらいの子どもたちもいて、つまりは、私には孫もいる。そんな私も、いや、そんな私だから、まだ、幼い彼らの夢を見る。
昨夜の夢はあれこれ過去の交錯する夢だった。親しい友人が隣に寝ていて、眠れなくてお腹が空いたから、料理をしていた、なんて言っているが、私はそんなことは何も知らないのだった。夢の中の私はまた、夢を見ていて、その夢は、津田塾大学が昭島市に移転する、という妙にリアルな夢だった。昭島市の広大な敷地に、近代的な建物が並んだ構想図があり、そこに移転する、というのである。
津田塾大学は、20年間私の職場だった。小平市にあり、1930年代に建てられたブリティッシュコロニアル風な本館が正面に見えた。歴史的建造物であるが、まだ、現役の校舎として使われていて、高い天井と、広い階段の重厚な手すり、美しいステンドガラスなど、今思い出しても、あそこで授業できることが私の喜びだった。広いとは言えないが、実に美しく整えられている静かな空間で、そこに通う学生は2000人ちょっとくらいで、自分だけになれる穏やかな場所を見つけることのできるキャンパスだった。丹下健三デザインの図書館は、書庫が全て開放されており、本の森に囲まれてひっそりと机が一つ置いてあったりして、そこでいつまでも本を読んだり、思索にふけったりすることもできた。あんな美しいところに自分の研究室がある喜びを20年間経験していた。正門を入ると、いつもその気の清浄さに心洗われた。「女性によりよく生きてほしい」という多くの人の願いが積み上げられ、その思いとともに磨き上げられると、あのような場ができるのである。東京23区から遠く離れた小平市、最寄駅から15分も20分もかかるようなとても便利とは言えないところにあり、しかも、時代とは添うていない、女子大学だから、都心の共学総合大学志向の今どきの学生さんには人気があるはずもない。でも、なんとかして、あの美しい空間は生き延びてほしい。
と、願っているから、夢の中とは言え、「昭島移転」(それが東京23区外の多摩地区の別の市であることが、夢とはいえ、おかしい)の話が出てきて、私は悲しい思いをしていた。夢の中で退職もしているのだが、衝撃を受けていた。いったいどうなるんだろう、あの美しい校舎、あの美しいキャンパス、あそこに学生が来なくなるのか、廃墟になるのか、あそこで授業が行われなくなるのか、あの場が死んでしまうのか・・・と心配している。そうだ、学校というところは、教職員がいて、学生たちが集まってくるからこそ、生きた場になる。移転すると、学生は来なくなる、教職員の姿も消える。すると、廃墟となり、遺跡となり、崩れ落ちる。そのようにして、歴史が過ぎてゆくのだ、というあまりに正しい現実を、夢の中で経験していた。
津田塾大学の前の職場、国立公衆衛生院も、それはそれは美しい建物だった。港区白金台にあり、こちらも1930年代にロックフェラー財団によって建てられた近代ゴシックの美しい建物だった。東京大空襲の時、このアメリカ自身によって建てられた美しい建物は戦災を免れ(攻撃をはずした、ということらしい)、進駐軍に接収されて、しばらくはアメリカ軍の施設として使われていたという。15年の海外暮らしを終えて2000年に帰国した私は2001年1月1日付けで当時の厚生省に入り、この国立公衆衛生院疫学部に勤務した。正面には大きな大理石の階段があり、その階段を上りきった左側に疫学部の部屋があり、もともと古い建物が好きな私は、久しぶりに帰国した日本でこんな職場に通うことができて、幸せだったが、すでに国立公衆衛生院は移転が決まっていた。
国立病院管理研究所との統合移転であり、省庁の研究所は統合移転するときには名前を変えなければならないようで「国立保健医療科学院」という、公衆衛生という理念ある看板をおろして、言っちゃわるいが、毒にも薬にもならないような名前に変わって、埼玉県和光市に移転した。ピカピカのビルで広い研究室で眺めも良かったが、あの重厚な白金の建物を去ることは、たった1年しかいなかった私にも、悲しいものだった。移転は一挙にはできず、実験系の部は数年かけて移転したから和光に移転してからもこの建物を使うことができて、私はことあるごとにここの部屋を予約して会議をしたり、ミーティングをしたりしていたがそんな時間も長くは続かず、この建物からは研究者と職員と学生たちが消えた。
何度も映画の舞台になったこの建物が廃墟になり遺跡になり崩れ去ることを皆、危惧していたが、結果として、港区の施設となり、今は子育てや介護の中心地となって、洒落たカフェを八芳園が経営したりしている。国立公衆衛生院跡、として、展示もされていて、見事に今に残ることになり、安堵した。学生たちはいないものの、今も職員や訪れる人もいるなかで建物が生かされ[ている。
このことを見ているから、津田塾大学昭島移転、は衝撃の夢であり過ぎたのだ。美しいものを美しいままで保つこと、美しい人の心性をそのままに継承することの難しさを、沖縄の八重山竹富島に移住して、しみじみと感じながら暮らしているので、津田塾の夢を見たのだろうか。津田塾移転に続けて、冒頭の次男の夢も見たのだから、退職年齢のノスタルジー、と言えば、それだけであるのだが。
(ⅰ)「新版 五感を育てるおむつなし育児」三砂ちづる、2018年、主婦の友社




