第147回
やっぱりやめたほうが
2026.11.05更新
2026年秋、祭りのシーズンで、だんじりや山車の太鼓台などの事故による訃報が続いた。痛ましい事故で、働き盛りの方を亡くされたご遺族にも、真摯に奉納芸能に尽力されていた方々にも、かける言葉がない。地元でご尽力されている方々におかれては、いろいろなご意見も矜持も主張もたくさんたくさんおありとは思うが、もう、こういうことは、見直した方がよいのではないだろうか。
私たちの働き方がずいぶんと変わってきたことについて、いまさら、いうまでもあるまい。たとえば、重い水を頭上に載せて運ぶのは、女性たちの仕事であった。30キロ以上のイモや穀物や、工事が始まった頃はセメントからブロックまで、女たちは頭上に載せて運んでいた。琉球弧での印象が強いと思うが、女性の頭上運搬は、南の地方のものというわけではなく、日本では宮城県江島が北限と言われている。頭上運搬が頻繁に行われていたのは、日本中に水道が通ったり、車の運搬が離島周辺でも普通のことになったりする前のことだから、だいたい1970年前後までであると思われる。いわば、50年ほど前のことだ。世代で言えば、二世代ほど前までは行われていた。今の女性たちは、頭にものをのせて運ぶ、ということは、練習なしには、ほぼ、できない。男性たちは、日本では頭上運搬は行わず、重たいものは肩に載せて運んでいた。載せる重さはもちろん男性のほうが重いものを運べたとは思うが、女性も遜色ないほどであったのではないかと思われる。
重いものを運ぶ時の体の使い方、というのは、現在の私たちが、はい、頭に載せて運んで、と言われてすぐにはできないように、日々の必要性と鍛錬に応じて、鍛えられてこそできる、というものではないのか。倒れそうになる、落としそうになる時に、重力と自分の体の軸を合わせて、落とさない、倒さない、という感覚とそれを支える身体意識の鍛錬は、物の運搬に代表されるが、同時に農作業、山での作業、漁労などで絶え間無く行われていたはずだ、というか、それが生きることそのものであったはずだ。
現代でも体を使った仕事はもちろん存在しており、体を使った仕事だからこそAIと競合しないから、新しいブルーカラーにむけて若者が興味を示している、とも聞く。しかし体を使った仕事自体が、一昔前とはかなり変わっている。少しでも安全に、楽に、作業ができるように人間がさまざまな機械をつくってきたし、それらの恩恵に私たち全員があずかっているように、現場で働く人もまた、恩恵をこうむっている。そんななかで、この「重いものを運搬する」に代表されるような体使いが、だんだん疎遠なものとなってきているのではないだろうか。
もともと、だんじりや山車などを支えたり、動かしたする男たちは、体全体を使って重たいものを持ったり、運んだり、作業したり、そういう体使いを、元々日常で会得せざるを得ない状況におられて、十分に会得していたことだろう。そういう男たちが祭祀の時に重たいものを支えたり、ひきまわしたり、その時に生じる予測不能な慣性の制御、などを、それこそ体を張って担っていたわけである。どの瞬間にどれだけの力をいれたり、体重をかけていったりしたら、だんじりや山車の車体が制御できるのか、ということが日々の労働の結果として、よくわかっていたのではないか、と思う。残念ながら、現代は違う。そのような体使いが必要でないように、機械や技術を発展させていったのだから、日常的にそのような動きをしなくて済む時代になったのだ。それは良いことで、人間社会の発展、である。
日常ではそういう動きとあまり縁のないところにいて、祭祀のときだけそういう動きを求められても、十分な練習を積み重ねるとはいえ、対応することはとてもむずかしいのではあるまいか。危険であるという直感、制御できる、というポイント、などは、日常的な体使いの中で育っていくものだ。自分と共にその場にいる人の身体能力やその時の調子などを鑑みながら動く、ということもまた、求められるが、そういうことを訓練する場も、日常的にはあると思えぬ。「管理体制の不備」とか「運行システムの問題」とかいわれるまえに、現実に「重いものを持ち」、「体で制御する」人間の側が、体の使い方をしっかりと会得する日常機会のないまま、祭りに突入せざるを得ないことに思いを致す必要があるのではないだろうか。結果として、人間の力で制御できなくなっている。だから危険なのだ。そういう意味で、考え直した方がいいのではないか、と思うのだ。
祭りはそもそも、神様へのこれまでと今への感謝を示し、神様とつながる感覚を取り戻し、今後の安寧と豊穣を祈るためのものである。祭事の中心は、祈りである。祈りが中心にありはするが、その祈りの周囲で、できるだけ神様に喜んでもらいたい、そして神様に喜んでもらいつつ、自分たちも喜びあいたい、という思いが、それぞれの文化圏で多彩な奉納芸能、伝統芸能の発展につながっていった。とりわけ日本本土の祭りでは、「お祭り」というと「おみこし」、「屋台」、「浴衣に夕涼み」、「盆踊り」みたいなイメージがすぐ浮かぶくらい、お祭りというと、祈りではなく、その周辺のエンターテインメントに意識がいってしまっているから、伝統芸能による地域おこし、みたいなところだけ、強調されることが多くなっている。
しかし、再度言うが、祭りは神への祈りである。誰かが命を落とさねばならないような祭りを、神様は喜ばれない。参加する人々にも、事故があれば、悲しみしか残さない。そんなことを、伝統芸能だからといって、する必要があるとは思えない。再度言うが、奉納芸能、伝統芸能は、あくまで祈りの周辺にあるものだ。命をかけなければならないようなことは、そろそろ考え直してもよいのではないだろうか。はっきりいって、やらないほうがよろしいのではないか、と思いながらニュースを見てしまったのだ。




