町田 康×江 弘毅 「大阪弁で書く」とはどういうことか(1)

第5回

町田 康×江 弘毅 「大阪弁で書く」とはどういうことか(1)

2018.09.06更新

 2018年6月22日、編集者であり長年街場を見つめてきた江弘毅さんがはじめて「ブンガク」を描いた、『K氏の大阪弁ブンガク論』が刊行になりました。司馬遼太郎や山崎豊子といった国民的作家から、黒川博行、和田竜など現代作家まで縦横無尽に書きまくっている本作で、2章を割いて江さんが絶賛しているのが、作家・町田康さん。唯一無二のそのブンガクを、江さんは「大阪ブンガクの金字塔」と表現しています。

 本書の刊行を記念して(そして江さんが熱望して!)、紀伊國屋書店梅田本店にておこなわれた、お二人の対談の様子をお届けします。

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『K氏の大阪弁ブンガク論』江弘毅(ミシマ社)

(構成・写真:新居未希、2018年7月16日紀伊國屋書店梅田本店にて収録)

順調にいって「俺すごい」じゃ面白くない

 町田さんとは一番はじめに大阪府のイベントか何かで対談させてもらったんですが、その後、今はもう休刊になってしまった雑誌「大阪人」で原稿をいただいてました。「ジャンルに入らへんようなものを」と言うたら、町田さんが「よし、ほんなら食べ物についてでいきます」と言うてくれて。この連載はのちに『関東戎夷焼煮袋』(幻戯書房)という本になってますね。

0906-shoei.jpg『関東戎夷焼煮袋』町田康(幻戯書房)

 町田さんはわりと時間を変形させるというか。僕らは時間を、時計の秒針とか砂時計みたいに空間的に認識してます。でも町田さんはそうじゃない、時間の歪み方みたいなものがあるなと思ってるんです。

町田 たとえば大阪の芸能、漫才でもそうですけど、「最近これこれやろうと思ててね」「最近こういうことに興味あってね」「ちょっと憧れてんねん」と言って始まるじゃないですか。でもだいたいにおいて、それができてしまったらだめなんです。「俺、小説家になろうと思てんねん」と言って、それでちゃんと小説家として成立するような話をそこでしゃべったら、「それでええやん」となって漫才にはならないんですね。やっぱりそこで失敗し続けないと、僕の話というのは成り立たない。漫才やってるわけじゃないですけど、それはけっこう文章書いてても一緒で。「それでええやん」って話やったら、ただのHOW TO 本にしかならないので(笑)。

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(左)江弘毅さんと(右)町田康さん

 ははは、わかります(笑)。

町田 「うどん作ります」って言うて、順調にうどん作って「俺はすごい」て・・・まぁそういう文章を書いて、素直に「おお、すごい」といってみんなが憧れてるみたいな人もいるんですけど。でもそれは大阪ではウケないんですよ。ウケないというか、面白くないじゃないですか。順調にいって「俺すごいだろ」と言ったら「アホちゃうか」と言われるような、そういう文化というか。人前で何かを書いたりするというのはそういうことだという、最初からの発想があるというようなことが『K氏の大阪弁ブンガク論』の中で解き明かされてたので、「なるほどな」と思いました。

 ありがとうございます。

 この『関東戎夷焼煮袋』の中で印象に残ってるのが、うどんとか土手焼とかイカ焼とか、料理の材料を街に買いに行って、そっから仕込みに入って、料理をつくる手順はこうでとか、まったくありません。

 これは「時間歪めてるなぁ」と思て。事故したり転けるときにスローモーションになったりする、そういう感覚がある。これは「俺だけが見つけた!」と思てて、それでよく、町田さんの作品について論じさせていただいているんです。

町田 時間を歪めるというよりは、自分の生きてる実感からかけ離れた尺度を使って何かを書きたくないんですよね。自分の生きてる実感というもので考えると、時間ってそんなに整理されたものじゃない。おそらく。ものすごく引き延ばされたりとか、ものすごく薄められたり、すごく濃かったりとか、歪んでたりするものだと思うんですね。

小説家は何によって覚醒しているのか

 あと、この本(『K氏の大阪弁ブンガク論』)の中でも勝手に書かせていただいてるんですけど、町田さんは起承転結とかあんまり考えんとやってはるんちゃうかなぁというか。たとえばジグソーパズルでいうたら、ミロのヴィーナス作ろうということになると世界からそのピースを探してはめ込んでいきますやん。町田さんの場合は、「これミロのヴィーナスにしようと思って進めてきたんやけど、これから鉄人28号にいったろかな」みたいな。さらにそこから、話も鉄人28号になってきたんやけど、こんなキャラクター書いてもしゃあないやん。よし、抽象画にいったれ! みたいな。それが自在というか・・・あの、まちごうてたら言うてくださいね(笑)。

町田 一応、作為とか、多少の計画性というのはあるんですけどね(笑)。でもおっしゃってることもよくわかります。

 『K氏の大阪弁ブンガク論』では、一つひとつの作品に即して「ここがおもしろい」「こういうところが」という、挙げているところは非常にわかりやすいんですけど、じゃあ大阪弁で書くというのはどういうことかという説明になると、モヤモヤッとするところがあるんですよね。気分的に入っていくというか、明確には説明してないんですよ。「こういう感じやねん」ということを、批評的というよりは作者的、文学的な感じで表してらっしゃるので、伝わりにくいところが少しあるかなとは思います。でもそれはそれで僕はいいと思うんですね。

 小説を書くことの意味とか意義、目的ってなんだろうと考えたときに、ひとつの小説を完成させて「これはどうだ」とか、売れる売れないとかそういうことが目的なのかというと、別にあんまりそんなこともないなと、最近思い始めたんです。

 小説家は何によって覚醒してるのか。それは文章を書くことによって覚醒してるんですね。じゃあミュージシャンは何のために音楽を演奏しているのか。たとえば、1曲3分の曲をイントロからエンディングまで間違いなく譜面通り弾けました、ミスはありませんでした、それどころかノリがすごくよかったです。というためにやってるのか、ということなんですよ。ワーッと拍手がおきて「報われた」「拍手がもらえた」と思ってるのかどうなのか。俺、違うんじゃないかなと思って。

 はい、はい。

町田 つまり、演奏してる一瞬一瞬にすでに目的があるんじゃないかなと。1秒よりももっと細かい、ワンショットやワンストローク、そのときの自分の意識と力とが働いて音が出た瞬間にこそ達成の連鎖があるんじゃないか。これは文章を書いても一緒だなと思うんですよ。

 つまり、書いてるときに何かが、書いたことによって自分にもたらす作用がある。そのもたらす作用によってまた何かを書く。だから書いてる瞬間瞬間に何かがわかったりわからなかったり、ストーリーの先の道筋が見えたり難しくなったり、「あっ、こんな道が拓けた」と思ったり。その思うこと、瞬間そのものに文章を書くことの意味ってあるんじゃないかなと思うんです。

 だから文章ってべつに完成させるために、「了」って書くために、最後までいって「やった、俺才能あるな、すごいな!」「うどん作るのもうまいし」みたいな感じではないんですよ(笑)。

 ははは、おもろいなぁ(笑)。

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町田さんの話をとっても嬉しそうに聞く江さん。会場には笑いがあふれていました

猫「で」書くか、猫「を」書くか

町田 最近、大阪弁に限らず方言を使った文学というのが前よりも数が多くなってきてますね。大阪弁が徐々に増えてきたというのがそうなんですけど。前回の芥川賞の若竹(千佐子)さんは、東北弁の小説です。東北弁は、その以前にも宮沢賢治とかもありますけど。

 方言を書くことの意味がそこにあるかどうか、ということを見分けるひとつの方法があります。たとえば九州弁で書かれてるとしますよね。じゃあそれを東北弁で翻訳しても成立しうるか、しないか。

 はいはい。

町田 それが成立したとしたら、九州弁である必要はないじゃないですか。大阪弁でもいいわけですよ。単に「大阪情緒」とか「上方の風情」をなんとなく出したいだけで、べつにその言葉じゃなくていい。

 この物差しはもうひとつ使えて。犬や猫なんかの動物が出てくる話ありますよね。「猫が死んでかわいそうだ」という話が多くて腹立つんですけどね、「猫殺すなお前、殺すんやったら人殺せアホ」と思うんですけど(笑)。そういうときに、「鳥でもいいんじゃないか」「豚でもいいんじゃないの」と。猫じゃなくても。よく読んでるとべつに犬でもいいんですよ。ただなんかかわいそうな話が書きたくて、自分の手近にあったのが猫だったから猫を使ったと。

 方言使うときもそうなんですよね。何かの技というか道具として、大阪弁を使って大阪弁で書いてるに過ぎないのか、それともその大阪弁そのものを書こうとしているのか。「猫『で』書こうとしてるのか」「猫『を』書こうとしてるのか」、この差というのは大きくて。

 だから一概に方言書いてるからなんか違う感じやねというのじゃなくて、方言を使ってても「有効だな」と思って使ってるだけだったりとか、ただ単に自分がその言葉になじみがあって、自分の気持ちをドライブさせるのに都合がいいから作者が使ってるだけとか。そういう見分け方があるんですよ。

 何か"意味"を伝達するとか、映画でリアリティを持たせるために「こういう衣装にしましょう」みたいなことなのか、単なる道具立てとして、味付け、フレーバーとして使ってるのかというのは大きいなということが、その曰く言い難いこの本の「大阪弁で書くとはどういうことか」ということで僕は書かれてるように感じたんですね。

(つづく)


プロフィール

町田 康(まちだ・こう)
1962年大阪府生まれ。作家、歌手。1996年に発表した初小説「くっすん大黒」で1997年にドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞、2000年「きれぎれ」で芥川賞、2001年『土間の四十八滝』(ハルキ文庫)で萩原朔太郎賞、2002年「権現の踊り子」で川端康成文学賞、2005年『告白』(中公文庫)で谷崎潤一郎賞、2008年『宿屋めぐり』(講談社文庫)で野間文芸賞を受賞。最新刊に『ギケイキ②』(河出書房新社)がある。

江 弘毅(こう・ひろき)
1958年、大阪・岸和田生まれの岸和田育ち。『ミーツ・リージョナル』の創刊に携わり12年間編集長を務めた後、現在は編集集団「140B」取締役編集責任者に。「街」を起点に多彩な活動を繰り広げている。著書に『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『濃い味、うす味、街のあじ。』『いっとかなあかん店 大阪』(以上、140B)、『有次と庖丁』(新潮社)、『飲み食い世界一の大阪』『K氏の遠吠え』(以上、ミシマ社)など。津村記久子との共著に『大阪的』(ミシマ社)がある。神戸松蔭女子学院大学教授。また2015年から講義している近畿大学総合社会学部の「出版論」が大ブレイク中で、約200名が受講している。

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