第122回
「利他」の行き着く先は「共有地」!? ~平川克美×伊藤亜紗『ぼけと利他』と『共有地をつくる』をめぐって~(1)
2023.01.04更新
2022年11月9日、隣町珈琲にて、「平川克美 著者と語る」のゲストとして伊藤亜紗さんが登壇し、『ぼけと利他』をめぐってお二人の対談が行われました。
平川さんによる「ぼけ」の炸裂からスタートした対話は、利他そのものの核心をつくお話から始まり、後半には、共有地としての銭湯と利他をめぐる考察が深まっていきました。
今日と明日のミシマガでは、その対話の一部をお届けします。
全編がおもしろすぎて、詩の話、多様性についてなどなど、記事にしきれなかった部分もたくさんありますので、ご興味のある方は、「ラジオデイズ」で販売されているアーカイブ音声をどうぞ!
(構成:星野友里)
ぼけの世界を生きているのは俺だよ・・・
平川 ぼくが書いた、なんていう本だったかな・・・。
伊藤 『共有地をつくる』ですね(笑)
平川 その大書評を毎日新聞で書いてくださって。
伊藤 書きたいなぁと思って、発売日に隣町珈琲に買いに来たんです。読んで帰ろうと思ってナポリタンを注文したら、隣の席で平川さんが打合せを始めて、そわそわしちゃって全然読めなかったという(笑)
平川 『ぼけと利他』、読ませていただきました。途中までは、とらえどころのない本だなぁと思いながら読んでいたんです。すごくいいことはたくさん書いてあるんだけど、フォーカスしていかないというか。書簡集ですからね。でもだんだんだんだんおもしろくなって、最後のほうは、ずいぶん興奮して読んでいましたよ。このテーマは研究テーマなんですか?
伊藤 そうですね。村瀨さんはぼけの世界を生きていらして。ご本人がぼけているわけではないんですけど(笑)
平川 それ俺だよ。ぼけの世界を生きているのは。
伊藤 利他のほうは、私が大学で研究チームを組んでやっているテーマですね。
平川 利他って、先行研究はあるんですか?
伊藤 親鸞の研究とか、いろいろあるんですけど、結局「利他」ということばが「利他」を殺すんですよね。学問の性なのですが、言葉を置くと現象が変わってしまうということがあって、その最たるものが「利他」なんです。なので、先行研究も大事なんですけど、世の中に起こっている現象から捉えようとすると、ちょっと頭を切り替える必要があるかなと。
平川 僕が最初にこの本を読んで思い至ったのはモースの、いわゆる・・・生き延びるための交換という・・・あのー・・・彼はなんていったかな? それを・・・。
伊藤 全体給付のシステム・・・?
平川 そう! そうやってちゃんと答えていただけると、成り立つんですよ。
伊藤 私は平川先生の本で学びましたけどね、その言葉を(笑)
平川 そう? 最近ね、そういうのが出ないもんだから、途中で講演がズタズタになってしまうというケースが多くてね。ぼけに入ってきてしまっているので。こうやって手に名前とか書いているんですけど、消えてきちゃって読めないんだよね。
伊藤 (笑)
うつわが、ちょっと割れているくらいがいい
平川 まあ、そういう交換システムとしての利他、利他という言葉は使っていないですけど、分配というのが一つありますよね。それとは別に、新自由主義的な、近代合理主義の文脈の中で、利他というのは利己を満足させるための最も有効な手段だ、自分が生き延びるために利他をすべきだというジャック・アタリ的な考え方がある。それとはまた別に宗教的な利他もある。ここに書かれているのは、それらとは違って、それを説明するのに伊藤さんは、えー・・・「おわんモデル」じゃなくて・・・なんでしたっけ。
伊藤 うつわですね。おわんでもいいですが(笑)
平川 おれ相当きてるな。これ、なかなか理解できなかったので、ちょっと説明してもらっていいですか。
伊藤 そうですね、うつわモデル、最近は違うかなと思ってきているんですけど・・・。利他はうつわに宿るというか、余白とかスペースがないところには生まれないということで。
平川 人間と人間の間ということですね?
伊藤 それもそうですし、たとえば往復書簡なんていうのは、やりとりにすごく時間が空く、スペースがありますよね。組織でも、がちがちに制度が決まっていて、まったく計画変更できないという組織よりは、臨機応変な余白があるほうが、利他に近いのではないかと思っていたんです。
平川 それが違うと?
伊藤 そうなんです。うつわが、ちょっと割れているくらいがいいのではないかと。
平川 (笑)
伊藤 最近は、動詞でいうと「漏れる」が大事な気がしていて。これはミシマ社の『縁食論』という本で、藤原辰史さんが書かれていることなんですけど。植物なんかも、最近の研究だと、木は葉っぱで光合成してつくった養分が根っこから漏れ出していて、それによって近くのほとんど日が当たらないところにいる幼木も、根っこから養分をもらって生き延びることができるとか。
人間でもたとえば、はじめて隣町珈琲にきたときに、隣の席の平川先生の話が漏れ聞こえてきたのが気になったり、そうやって境界をこえて染み出てくるところに、ふっと相手にかかわろうという衝動が生まれる。あるいは、与えたつもりがないものを他の人が拾ってしまうということが起こって、そういうことのほうが利他に近いんじゃないかと思うんですね。
つまり、利他というのはずっと、与えることだと思われてきたんですけど、「漏れる」は与えているわけでもないし、それによって収支が記録されたり、お互いを縛ってしまうことが起こらないといいますか。
平川 なるほどね。
人間の存在のありようとしての利他
平川 たぶん、ぼくは最初に感じたこの本のわかりにくさというのは、『ぼけと利他』というタイトルがついているから、利他の効用を探すように、目的論的に読んでしまうんですよね。何かを達成するために、利他が利己的なものの考え方よりいいんですよという話なのかなと。でも今お話を聞いたり、あるいはこの本を読んでいてだんだんわかってきたのは、我々が「人間関係はこうあるべきだ」「こういうやり方がいいんだ」と言っているのはどうやらある種の幻想で、「本当の存在のありようというのはこうなんじゃないの」ということを、何かうまく定義しようとされているのかなと思いました。
伊藤 確かにそうかもしれないですね。よく利他を研究しているというと「どうしたら利他的な人になれますか」とか「これは利他的な行為ですか」とか、すごく聞かれるんですけど、たぶんそういう構えを人につくってしまう言葉だと思うんですよね。でもその姿勢だと、利他には到達できないというか、与えるモデルから出られない気がしていて。おっしゃってくださったように「存在としてある」みたいなところにむしろ利他が生まれてくるんじゃないかと。
平川 落語の「百年目」ってご存じですか?
伊藤 わからないです。
平川 昔の大店の話で、旦那がいて、番頭さんがいて、その下に丁稚たちがいるのですが、現場を仕切っているすごく厳しい番頭さんが、内緒で遊びに行ったときに旦那さんと出会ってしまって、説教をされる。
せんだんという立派な木の下に、ナンエン草という何の役にもたたない草が生えていて、その草を取ったら、せんだんの木が枯れてしまった。せんだんは、その草から養分を得て生きながらえていて、そのせんだんのおかげで草も生きていた。
あなたは自分の仕事をちゃんとやっているし、何の役にも立たないと思っている部下たちをうまく指導しようとしているけど、じつはその人たちも自分の役割をちゃんと果たしている。それが見えていないだけなんだよと。旦那がそういう説教したということで「だんな」が「ドナー」の語源になったというんですね。江戸時代の話で、まあ「ドナー」の語源は別にあるんでしょうけれども。
なかなかいい話で、それぞれのポジションに人がいて、その関係性というのは、自分ではよく見えないんだけど、たぶんもし僕らに俯瞰する目があるとすれば、その関係はじつは非常に密接に関連していて、お互いに助け合っているはずだということなんですよね。
伊藤 おもしろいですね。利他のことを考えると「一員である」ということが重要な気がしていて。大学の研究メンバーで話していても、音楽のバンドでのセッションの話が、よく出てくるんです。みんな専門が違うけど、それが組み合わさることで一つの音楽ができる。ある意味みんな自立していて、「ああしろ」「こうしろ」とお互いに言わないけど、それぞれが持ち場で仕事をしているという一員感が、利他につながるんじゃないかなと。
左:平川克美さん、右: 伊藤亜紗さん