第38回
坊さん、本屋で語る。白川密成×辻山良雄(1)
2020.03.18更新
『坊さん、ぼーっとする。』を出版した白川密成さんのトークイベントを開催しました。元・書店員でもあるミッセイさんが、Title店主辻山さんと、本のこと、仏教のことなど語り合い、和やかで豊かな時間になりました。ミシマガでは、このイベントの様子を2日間にわけてレポートします。
(構成・写真:岡田森)
坊さんと本屋さん
白川 Titleさんの存在は友人たちから聞いていて、東京で一番行ってみたい本屋さんだったんです。僕はもともと、新卒で一年だけ本屋さんで働いていたことがあるんです。だから、辻山さんの『本屋、はじめました』を読んで、すごく感銘を受けたというか、楽しかったんです。
辻山 ありがとうございます。実は私も学生の頃、坊さんに憧れていた時期がありました。
白川 あー、雰囲気ありますね(笑) そんなわけで、今日は本屋の話と坊さんの話をそれぞれしたいと思っています。辻山さんのこの本は、いつ頃出たんですか?
辻山 単行本が出たのが、2017年1月なので3年前ですね。それで、ちくま文庫になったのが今年の1月です。
白川 そうなんですね。辻山さんが本の中で「コンテンポラリー」つまり「同時代」ということを意識していると書かれていて、自分の仏教観と照らし合わせても共感しながら読みました。
辻山 実は、このお店はTitleという名前なんですけど、当初、「コンテンポラリー・ブックストア」という名前で企画書をつくっていたんです。長くて覚えられそうもない名前だったので、ボツになりましたが。
白川 そうだったんですね。僕も美術館でトークをするときに、英語はわからないのに「コンテンポラリー・ブディズム」ってタイトルをつけたりしていたんです(笑)。だから、辻山さんの本を読んでいると、まさに同時代を生きている感じがして、おもしろいだけではなく、うれしく読みました。
辻山 密成さんも、同時代の人、いまを生きる人に、仏の教えをいかにつなげていくかということをすごく考えていらっしゃると思うんですけど、私の場合は、本屋としていまを生きる人に本を伝えていきたいと思っています。私がだれかに読んでほしい本というよりも、「その人がその人になる」ための本とはどういう本だろう、ということを考えています。
白川 本屋と言えば、さっきも、ここに来るまでにミシマ社の人たちと道を歩きながら、前職の時に辛くなると本屋に行った、という話をしていたんです。お昼休みに近くの本屋を一階から三階まで回ってみた、というような話を(笑)。
僕も書店員を辞めたあと、坊さんになってお寺でいろいろ大変なこともあって、そんな時になぜか本屋に足が向かうことがありました。そういう、本が持っているささやかなマジックみたいなものには、いろいろな触れ方をしてきたなと思います。
辻山 本を前にすると、みなさん押し黙るというか、静かになるんですよね。
白川 しゃべりながら読めないですもんね。
辻山 そうなんですよ。店にご友人同士でしゃべりながら入って来ても、ぱっと見ると、スーッと静かになっていることがあります。そういう光景をカウンターから見ると嬉しくなります。
それぞれの人が読む本というのは違いますけども、なにかしら自分に合った本というか、いろんなものを見ているうちにふっと目の前の本とつながる瞬間がある。本屋では、だんだん黙って「その人に戻っていく」という感覚が見ていると感じられるんです。
同時代の仏教
白川 僕が住職をしているお寺が今治市の田舎にあるんですけど、高野山大学に行って修行をして今治に戻ってきたときに、仏教とかお寺、僧侶というものが、あまり同時代的なものとして見られていない、という問題意識がありました。仏教が生活の中で義務的というか、法事だからやらなきゃ、とか。すごくこう、なんというんだろう・・・。
辻山 季節ものじゃないですけど・・・。
白川 はい。あくまで、自分のいる寺ではということですが、人生の中で近しい存在だとあまり思われてもいないようだし、仏教は自分の人生の大問題に結びつくようなものを本当は抱えているはずなのに、そこにもあまり関心を持ってもらえていなように感じました。「大きなテーマ」と「小さなテーマ」が両方足りない。
そんな中で、第一作の『ボクは坊さん。』の元となる連載を、「ほぼ日刊イトイ新聞」でさせて頂いたんですけども、そこで一個ルールを決めていて、「宗教のことは書かない」ことにしたんです。
白川 それで、仏教がどうというより、一人の24歳の男、人間が、突然住職になってどんなことに喜んで、どんなことに悲しんで生きているかを伝えます、という形にしたんですね。
それが逆に新鮮だったのか、インターネットでビビッドな反応がきたんです。実は仏教やお坊さんの世界というのにはすごく興味があるんだけど、アクセスのしかたがわからなかったとか、実は子どもの頃に尼僧さんになることが夢だったとか、そういう声がどんどん来始めたんですよね。
弘法大師の思想に興味があるとか、仏教を生きる糧にしたいとか、そういうことを思うピンポイントの人たちでなくても、なんとなく興味を待たれてるんだな、という感触をインターネットで得られた貴重な経験でしたね。
お寺の役割は、古い伝統的なものを守り続けること
白川 僕は村上春樹さんがすごく好きで、彼にウェブ上で質問ができる企画があったときに、質問してみたんです。「村上さんから見て現代のお寺とか僧侶にできることってなんだと思いますか?」って。「それは、僧侶である自分自身が繰り返し考えるべきことなんですけれど」と書き添えて。
その時の村上さんの答え方が、細かい表現は違うと思うんですけれども、「宗教的な雰囲気をしっかり味わえるような場所をひたすら守り続けることじゃないですか」ってことを書いてくださったんです。
結構意外だったんですけど、やっぱりそういう部分も仏教が大切に培ってきたとことかなと思ったんです。日本の仏教が「できなかったこと」もたくさんあるけれど、「やってきたこと」もずいぶんある。先日、ミシマ社の企画で、FC今治の岡田武史さんと対談させていただいたことがあって。
辻山 「ちゃぶ台Vol.5」に載っている対談ですよね。
白川 はい。で、その時にミシマ社の方が来られて、「施餓鬼(せがき)」って行事にも出てくれたんですね。この行事は、10人ぐらい集まって、餓鬼という腹を空かせた霊たちがいっぱいいるはずだから、真っ暗にしてお経をあげて、ご飯を投げて食べさせるというものなんです。
毎年のことなんで、四国の方ではお坊さんのこと「おっさん」って言うんですけど、「はい、おっさん、電気消して!」みたいな感じでかなりラフにやってるんです。
でも、何十年何百年と、餓鬼にご飯を食べさせるっていう一種不思議なことを、形に見えないものを相手にして、村の人が集まってお坊さんがいてやってきたことって、意外と大きなことだと思うんです。
なにか大事なものがそういうものの中にもあるのかなと、僕自身は思っています。だから、そんな雰囲気を追体験できるような側面が今回の本にもあるといいですね。
僕なりにですけど、今までの本で、僕の生活と、弘法大師の言葉とかブッダの言葉とかが組み合わさったときに、「仏教とはなにか!」みたいな大きなテーマではなく、「あ、なんかそこに大事なものが含まれてるよね」「自分たちが生きてることに関係がある話だよね」ということが言えているんじゃないかと思っています。
辻山 さっきの村上春樹さんの話じゃないですけど、どうしても何かの裾野を広げようとすると、それを簡単なものにしようと考えがちなんですよね。例えば本屋でも、いま本を読む人が減っています。
白川 今日書店をまわってきたんですが、その話が多かったです。
辻山 じゃあ簡単な本を、読みやすそうなものばっかりを置けばいいのかっていうと、そうではない。やはりそうした棚はずっと本を読んできた人にとっては読み応えがなかったりします。
山があったとしたら、高い山をずっと見せてないと、なかなか山というものの持つ良さはわからないと思うんです。だから、お寺の世界でも、やっぱり「本物感」じゃない、「本物」がずっとそこにあって、ちゃんと続いているということが大切なのだと思います。
(続く)