第153回
『日本宗教のクセ』発刊特集 内田樹さん×釈徹宗さんの対話を一部公開!
2023.08.04更新
本日、『日本宗教のクセ』が、リアル書店発売日を迎えました!!
内田樹先生と釈徹宗先生の対話により、「無宗教」と言われることも多い日本に、古くから深く根づいている、独特な宗教性のクセが炙り出されていく本書。
まさかつながるとは思っていなかったキーワードが、お話の中で急に結びついて、驚きの仮説が生まれたり、自分が無意識のうちに拠り所にしているような、祖先のイメージや死生観が、じつは日本古来の宗教性とつながっていることを知って腑に落ちたり、読んでいると、発見が多すぎて、頭と心が忙しくなること必至です。
本日のミシマガでは、発刊を記念して、そんなワクワクする対話の一部を、引用公開いたします!
「これは!」と思われた方は、ぜひ書店へ!
そして明日5日(土)19時~、発刊記念イベント「今年のお盆の迎え方〜 日本宗教のクセを生かして」もありますので、ぜひそちらもご参加ください!
「行をとても大事にする」というクセ
~「第一章 日本宗教のクセを考える」より
釈 ところで今日は、「日本宗教のクセ」がテーマとして設定されていますが、内田先生は日本宗教のクセにどういうものがあるとお考えでしょうか。まずひとつに「習合信仰(シンクレティズム)」がある、というお話をこれまでしてきました。これは大きな特徴であるのは間違いありません。また、強い原理原則を避ける傾向を挙げることもできます。
内田 もうひとつの日本宗教の特徴は、「行」を重んじるということではないかと思います。キリスト教の場合でも、鞭打ち苦行のような壮絶な荒行をする修道士もいますけれども、日本の場合は、行の種類がすごく多いし、別に世俗のことすべてを放棄しなくても、カジュアルなかたちで行に関わる入口がいろいろ用意してある。行をする人の数が多く、裾野が広い。その点が特徴じゃないでしょうか。
カトリックの場合、体を鞭で打ったり、飢餓状態になったりとか、無言の行をするとか、ファナティックな行はありますけど、「カジュアルな行」ってあまり見かけないでしょ。日本は、行の種類が多いし、難易度もピンからキリまである。千日回峰行から朝のお勤めまで幅があるけれど、どれも「行」ということでは同じカテゴリーに収まる。
それに日本の場合、聖地巡礼は必ず観光とセットになっていますよね。宗教的な行が娯楽を兼ねている。宗教的緊張がどこかで世俗的な弛緩の仕組みで緩解されるようになっている。かなり厳しい行の場合でも、終わった後は必ず「直会」があって、緊張をほぐす。深海に潜った後に、急に海面に出ないで、だんだん身体を大気圧にならすようにするのと同じで、宗教的な緊張を保ったまま、現実世界に戻るとうまく順応できないんです。だから、じわじわと心身を「世俗化」してゆく。そういう技術が日本の宗教ではかなり洗練されているんじゃないかと思います。
キリスト教の場合、信仰心が嵩じるとファナティックになってしまう。神の意志を地上にただちに実現するという原理主義的な方向に向かう。「悪魔を探し出して殺せ」という攻撃的なマインドになった人は「行ったきり」になる。霊的な緊張と世俗的な弛緩の間をゆるやかに往還するとか、宗教儀礼と娯楽をセットにするというようなことはキリスト教ではあまりやらないんじゃないかと思います。
釈 そういう相違がありますか。そういえばキリスト教は、一気に劇的な転換が起こる事態を高く評価する傾向があるかもしれません。初期の宗教心理学の研究でも、キリスト教系の研究者は大きな人格転換である回心への関心がとても高い。そちら側から見れば、薄紙が一枚一枚積み重ねられていくような、気がついて振り向けば「ああ、自分はこの道を歩んで来たんだなあ」とじっくり味わうような日本の「行」のあり方は、パッとしないと言いますか(笑)、なんだか冴えない印象を受けるでしょうね。
日本宗教文化として根づいている「行」って、あらためて「信仰心で実践しているのか」と問われると、「まあ、信じているかと言われたら、信じているのかなあ。よくわからないけど」的な感じだったりします。たとえば外国人の宗教研究者に「あなたはよく信じてもいないのにこういうことをするのですか」などと言われても、「まあ、そう言われても困っちゃうけど」なんて感じで。これは、まず行為が先立って、あとで心がついていくような道筋なんですね。内面重視じゃなくて、行為先行です。
このような形態は、キリスト教のプロテスタンティズムのような内面重視傾向が強い宗教と比較すれば、とても茫洋とした宗教性だと言えます。曖昧模糊としています。プロテスタントの内面重視傾向の影響なのかどうかは明言できませんが、いつの間にか現代人は、宗教というのは「信じているか信じていないか」の二者択一が明確なものだと捉えがちです。
けれど、伝統的な日本宗教文化から見れば、「信じる宗教」だけじゃなくて、「行う宗教」とか「感じる宗教」みたいな文脈も、とても豊かに息づいているわけです。むしろ、近代・現代の宗教観のほうが、ずっと貧しいと言うこともできます。線が細い、とでも言いましょうか。
「私の供養は誰がしてくれるのか」という実存的不安
~「第三章 お墓の習合論」より
内田 先ほど、如来寺の山の上にある凱風館の合同墓道縁廟のお話が出たので、その話からとっかかりにしていこうと思います。あの合同墓をつくったのは平成三十年ですけれども、思いついたのはそれより一年ぐらい前です。きっかけになったのは、凱風館の寺子屋ゼミで、お墓について発表された女性の方がいて、僕はそのとき初めて、お墓というのが、こんなに緊急な問題なのかということを知ったんです。
その方は独身で五十代くらいの方なんです。代々のお家の墓があるので、ご両親はそこに入る。その墓は自分が守る。でも、自分が死んでその墓に入ったとき、私の供養は誰がしてくれるんだろう、と言うんですね。「私の供養は誰がしてくれるのか」って、たぶん僕は初めて聞いた文字列だったんです。
これまでずっと「墓というのは家で守る」ということを自明の前提としてきたけれど、今はそうではない。独身の方もいるし、子どもがいない人もいる。そのときに、「私の墓は誰が守るのか。私は誰が供養してくれるのか」ということがリアルな不安としてあるということを知ったんです。それはお墓をどう管理するかという現実的な問題であるより先に、自分の「弔い」を僕たちが深く気にかけているという霊的なレベルの問題なんだと思います。自分が死んだあとに、しばらくの間でいいから、自分のことを思い出して、語り継いでくれる人がいないと、どうしても気持ちが片付かない。
興味深いのは、これが「しばらくの間」でいいということなんですよね。別に五十年も百年も供養してくれなくていい。僕たちが知っている人たちが、まだ生きている間だけでいい。知らない人に供養してほしいわけじゃない。
釈 そうですね、五十回忌以上はかなりレアだと思います。平均すると十三〜十七回忌までが一番多いそうです。でも、地域差が大きいです。この前、島根県で聞いたところによると「このあたりでは、百回忌や二百回忌をつとめますよ」とのことでした。驚きました。一方、都市部だと三回忌で終了も珍しくありません。
内田 百回忌ってすごいですね。たしかに閉ざされた集落であれば、先祖代々同じ家に暮らして、同じ家具什器を代々使い回していると、百年前に死んだ祖先も「わりと身近」に感じるということがあるのかもしれない。でも、釈先生も僕も、死んだあと百年後まで供養していただきたいと思うかと訊かれたら、「いや、もうちょっと早めに終わりにしてもらっていいです」と答えると思うんです。でも、三回忌で「もういいか」と言われると、それはちょっと薄情なんじゃないかと思う。不思議なものですけどね。(略)
ゼミで発表した方の場合でも、自分が死んだあとに、「あの人はこういう人だったね」と友人知人が集まって彼女の思い出話をしてもらう以上のことは望んでいないと思うんです。別に墓の管理をどうするとかいう話じゃなくて、彼女のことを懐かしく思い出す人たちが、生きて、集まれる間は、集まって昔話をしてほしい。その人たちもだんだん年を取って、亡くなったりしたら、そこで静かにフェードアウトする。それでいい。そういうのが一番自然な供養だ、と。
「誰が自分を供養してくれるのか」というのは、実存的な不安としてたしかにある。だったら凱風館でお墓を建てちゃえばいいんだとそのとき思いついたんです。凱風館でお墓を守ってゆけば、生涯独身だった人も、子どもがいない人も、自分の供養については心配が要らない。道場が続くかぎり、門人たちは、直接自分が知っている先輩たちのことを語り継いでくれる。新しい人が来て、「みなさんがお参りしている方はどんな人だったんですか?」と訊いてくれたら、「あの人はね......」と言ってちょっとずつ短い思い出話を持ち寄って話す。それだけで十分に供養になると思うんです。
「日本人は無宗教だ」という言い方の未熟さ
~「第五章 戦後日本の宗教のクセ」より
釈 あと、日本人の宗教に関するクセというところでは、「日本人は無宗教だ」とする見方があります。国際比較調査では、中国や日本がいつも「無宗教」の一位〜二位です。
ただこれは、何をもって「宗教」と呼ぶかを考えないと、実態と合わない数字になってしまいます。
日本の場合、「宗教」といえばキリスト教とか仏教とか、浄土真宗とか創価学会とか、○○教とか××宗というふうに、特定教団の信者を指すと思っているようです。でも、もっと大きく宗教や信仰を考えたいと思うのです。
たとえばこのシリーズでやってきた、死者を弔うとか、夕日の聖性とか、このような宗教性まで含めると、もちろん日本人が世界で突出して無宗教ということはありません。むしろ、我々の暮らしは多くの宗教的な営みに彩られています。無宗教どころか、過宗教という見方もできます。
そもそも、「宗教」という言葉自体が、すごく負のイメージ。「それって、宗教みたい」という言い方は、もう完全に悪口になりますので。このような「宗教」という言葉へのアレルギーも、やはり戦後強くなったとする指摘があります。
そこで、内田先生は「日本人は無宗教だ」について、あるいは「日本人は、クリスマスも祝って、お寺で除夜の鐘も撞いて、神社へ初詣も行って、宗教についていい加減過ぎる」などという見方について、どんなふうに思われますか?
内田 う〜ん、僕は「日本人は」と括るよりも「日本人にもいろいろいます」という立場ですね(笑)。
釈 ええ、ほんとですね。
内田 「超越」とか「他者」とか「外部」とか、自分たちの人間的なロジックや語彙では語り切ることのできないような境位が、僕たちの生活のすぐ横にあって、それとのやりとりの中で、人間というのは生きていくしかない。そのことについての敏感さを、僕は「宗教的感受性」とか「宗教的成熟」と呼んでいるんです。
そういう考え方をまったくしない人、人間には人間世界しかないと思い込んでいる人は、要するに「幼稚な人」だということです。だから、この世の中でもあまり使い物にならない。世の中の仕組みや決まりがどうしてそうなっているのかについて根源的に考えるということもしないし、人間の感情や心の動きの複雑さもうまく理解できないんですから。人間世界の内部的価値にしか興味がないという人は、実は当のその世界の成り立ちや人間がどういうものかをわかっていない。だから、人間的世界でもあまり「いいこと」には恵まれないと思います。それよりはできるだけ豊かな宗教性を備えた人間になったほうが「いいこと」があると思います。宗教と無宗教に截然と区分できるという考え方自体が、先ほどから何回も言っていますけれど、宗教的に未成熟な感じがします。
釈 ここでも成熟・未成熟の問題というわけですね。
それに、熱心にあちこちお参りへ行ったり、お札をもらったり、占いに凝ったり、いろいろ拝んだりしているわりには、宗教的感性が悪い人っていますよね。
内田 いっぱいいます。まったくそうですね。
釈 それも、いろいろ手を出しているわりには未成熟、ということなのかもしれません。となると、成熟・未成熟の目安というのは、ひとつは「他者の宗教性・信仰に対して鈍感ではない」や「自分の信仰の加害者性に自覚的」といったところを挙げることができそうです。やはり信仰・信心というのは、信じている人と信じていない人との境界を生み出すわけです。それを避けることができない。だから、信仰や信心は常に他者を傷つける可能性をはらんでいる、そのことに自覚的であるかどうか。また、宗教に無自覚な人は、他者の信仰や信心に対して鈍感になりがち。それは、無自覚に他者の尊厳や人格を棄損してしまいがちだということです。このあたりも宗教的センスの問題になってくると思います。
編集部からのお知らせ
お盆にぴったり! 刊行記念オンラインイベント開催!
『日本宗教のクセ』の刊行を記念し、オンラインイベントを開催します!
「今年のお盆の迎え方〜 日本宗教のクセを生かして」
日時:2023年8月5日(土) 19:00〜20:30(予定)
※申込者の方は、一週間限定でアーカイブ動画をご覧いただけます。
出演:内田樹、釈徹宗
内容:
発刊ほやほやの対談本『日本宗教のクセ』で、両先生は、「宗教センスを身につける」ことの大切さを訴えています。
そのまたとない機会が、お盆。
日本人にとってお盆とは? 現代人が忘れがちだけど、これだけは守りたいお盆の迎え方とは?? そもそも今年という年は宗教の視点からはどういう年に位置付けられるのか??? 日本の宗教特有の「クセ」をちゃんと知っておけば、お盆にかぎらず、さまざまな機会で「宗教センス」を磨いていける!
表題にとどまらず、縦横無尽に繰り広げられるおふたりの対談は、きっと、現代の諸問題とのむきあい方、考え方にまで展開するにちがいありません。
お盆を10日後に控えた今宵、内田、釈、両先生のことばに、知見と感覚の両方をひらかれてみませんか?
★チケットは、書店さんでお買い求めください!
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