第173回
『RITA MAGAZINE』発刊特集 伊藤亜紗×中島岳志×北村匡平×塚本由晴×山本貴光「利他をつくる/つくるの中の利他」(4)
2024.04.19更新
2月に発売となり、好評いただいている、『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』。
3月2日に、本書にも収録されている「利他学会議」の2024年の回が開催され、その分科会のひとつで、本書をめぐり、上記5人の先生方によるトークが行われました。
お話は、まさに『RITA MAGAZINE』の続きのよう。結論ありきではない中で、どんどん話がリンクしドライブし、旋回して、着地しそうになったかと思いきや、また飛ぶ、という縦横無尽の展開。これはもうぜひ、要約したりせずに、このうねりのままにお届けしたい! ということで、ここから4週連続、全19000字でお届けいたします。
『RITA MAGAZINE』をすでに読まれた方にも、これからの方にも、お楽しみいただけたら嬉しいです!
第1週 何かを意図して設計し、意図せざる者と出会う
第2週 どうやったら時間の帝国を崩すことができるか
第3週 「いる」ことと「する」こと問題
第4週(本日) 制度に取り込まれていくテクノロジーに利他はない
なお、ウェブでたくさんの文字を読むのがつらい! という方には、「2024年のいま読みたい、利他の本」フェアを開催いただいている書店にて、トークの一部を収録したフリーペーパーを配布しています。よろしければ、そちらもどうぞ。開催店舗の一覧は、記事の最後「編集部からのお知らせ」に掲載しています。
(構成:星野友里)
4 制度に取り込まれていくテクノロジーに利他はない
塚本 ちょっと話をテクノロジーに戻すと、私なんか工学系でかつ建築の設計をして、実際の現場にも行って管理したり、技術的なことを検討したりする立場なので、テクノロジーというと、わりとはっきりとしたイメージがあるんですけど、この本でいうと、どのあたりまでテクノロジーなんですかね。
中島 僕自身は広く取りたいという感じですね。別のプロジェクトで、弔いとテクノロジーの研究をやっていて、亡くなった死者の存在が、この世界でどういう意味を持っているのか、というのをずっと考えてきたんですけれども。
たとえば、NHKの紅白歌合戦で4年ぐらい前に、AI美空ひばりっていうのが出てきた。今は、VRとかAIによる死者の再現というのが、そのころよりもっと簡単にできるようになってきて、ChatGPTを使うと、亡くなった人と、ある種疑似的な会話も十分可能になってきている。中国では、そういうものがもう商品化されようとしているとか、そういう時代に入ってきている。
一方で、AI美空ひばりが出てきたときに、親友だった中村メイコさんが「なんかこれは違う」と言ったんですよね。「私からひばりさんが離れていく気がする」と思った。これは「不気味の谷」という問題もあると思うんですけれども、それ以上に、リアルに再現すれば死者との対話が始まるかというと、どうもそうじゃない。むしろ、その人が好きだった花が道端に咲いていたりすると、その花を見て、その亡くなった人がリアルにうわーっと迫ってきたりする、というような想起する力が、私たちの中にあるんだと思うんです。
そういう死者との対話を促すようなテクノロジーとなると、どこまでをテクノロジーという範囲に入れるのか、というのは難しいですね。たとえば人3.11で亡くなった人たちの写真を見ながら、「おもかげ人形」というのを作った人がいて、ぱっと見ると全然似ていないのですが、面影がある部分があると、私達はそれに喚起されて、故人との対話が始まる。こことAIの違いは何なのか、どこまでがテクノロジーなのか。
『RITA MAGAZINE』より、伊藤亜紗さんの「まえがき」
塚本 なるほど。私も、学生と図書館を設計する課題をやるときなどには、たくさん本があるけど、著者はほとんど死んでいる、という話をしますね。だから図書館というのは、じつは知らない人に会いに行く場所でもあるし、そう見ると、接し方がいろいろ想像できるんじゃないか、という投げかけをしています。
そうか、だから、テクノロジーというのは、必ずしも工学的なものじゃなくてもいいと。でもどうなのかな、テクノロジーって、どんどん進歩させていくために、制度になっていかざるを得ないところや、あるいは制度によってオーソライズされている部分もある。まったくゼロから、その技術の安全性とかを疑うことなく、いきなりアプリケーションとして使えるようになるところに経済性も拡張性もあるんですけども。
でもそれが行き過ぎると、全然利他的ではなくなるというのは、私が今、本当に建築をやっていて思うところです。要するに、「これやってれば安心安全だよね」とか、「間違いないよね」っていうのが、答えとして用意されてしまって、そもそもなぜそうなっているのかを考えなくなってしまう。
たとえば里山で今活動していても、かやぶきというのは、今新築では日本中どこでもできないのですが、たどっていけば、農業の一部だったのが、建設業の一部に組み込まれたことによって、資源循環ができなくなったという悲劇でもある。どぶろくなんかも、酒税法がなければ、いくらでもできるはずなんですけども、禁じられているし、麻の産地でもあったんですけれども、大麻禁止法というのがすごく強くあるので、農業的な産物としてはこの地域ではできない。厚生省とか国土交通省とか、農林水産省とか、いろんな省庁が管轄する法律によって、物事の関係性が断たれたり妨害されたり、ある一方向に仕向けられたり、しているわけなんですよね。
私はテクノロジーの問題は、そういう制度とかとの関係性を見ることが多くなってきていて、そういう意味で、テクノロジーに対して、懐疑的とまでは言わないんですけど、できるだけ遡行するような形で付き合うようにしようかなと思っているんです。まあでも、インターネットなんていちいち遡行してたら使えないですからね。今日このウェビナーにつなぐ前に、そもそもどうしてインターネットがこの離れた空間の人間をつないでくれるのか、とかって考え始めたらもう終わらないですから、しょうがないかなっていう感じはしますけど(笑)。
伊藤 制度の話は、私もすごく興味があります。この前、佐賀県の松隈というところに行ったんです。吉野ヶ里遺跡の近くにある40戸ぐらいの集落で、かつてはみんな農業を営んでいたんだけど、もう農業を辞められた方がほとんどで、田んぼとかも荒れている。そこが、小水力発電というのをはじめて、今、日本中でやられていますけど、かなりうまくいった例として、注目されているみたいなんですよね。
40戸の家がみんな4000円とか5000円出資して株式会社を作って、そこが融資を受けて、30kWhぐらいの、すごくちっちゃな発電をしているんです。で、面白いのが、昔の農業用水から少し水を取ってきて発電をしているんですけれども、社会制度的には、再生エネルギーのプロジェクトとして回っているんです。いろんな融資を受けたり、売電するときにちょっと優遇されたりしているんだけれども、実際にその場所に行くと、再生エネルギーとかカーボンゼロとか、そういう話はまったくなくて、農業用水の管理が楽になったね、という話になっているんです。
要は、水路の中に葉っぱとか砂利が入っていると、うまく発電できないので、取水口のところにうまくそれを除去する仕組みを作っていて、じつは発電そのものよりも、そっちのほうに、みんな感謝している。それまでは、もう農業もやっていないのに農業用水を手入れするのが面倒くさい、みたいな感じだったのが、機械的にそれができるようになった。そこには昔ながらのテクノロジーが使われているそうです。何かいい意味で二枚舌というか、外からの見え方と中での見え方が違うというのがすごく面白くて。うまく制度を乗りこなしている例として、いいですよね。
塚本 建築家としては、やっぱり自分は最先端テクノロジーを駆使して、こんなことやってます、というのはやってみたいわけですよね。もちろんそれでやる人もいるんですけど、教育の経済格差問題と同じで、やれるプロジェクトとやれないプロジェクトは、お金のあるプロジェクトとないプロジェクトで、先端的な技術というのは、必ずその貧富の問題に結び付いちゃうんですよね。
たとえば再生可能エネルギーなんか、もう基礎技術はたくさん用意されていて、それを導入すればいくらでもエネルギーは作れるし、カーボンフットプリントも減らせて、地球に優しい住宅は作れるんですけども、それをやろうとすると、イニシャルコストが非常に高く、そこまでできるのはある特別な枠組みの、たとえば国からお金もらってやるようなプロジェクトとかなんですよね。一般的にはなかなかできない。
それは、テクノロジーが純粋じゃない、ということなのかな。必ずそういう社会的構築物といいますか、別のアーキテクチャに取り込まれている、あるいはそれに乗っている状態があって、私はそれがあんまり楽しくないなというのが、里山に行ってやっている理由の一つなんです。
ここでは、技術的にはプリミティブなことばっかりなんですけど、マーケットで流通している材料なんか使わなくても、その場にある材料を使っていくらでもいろんなものが作れちゃうし、それが同時に里山全体の風景を美しく整えることに役立っている。非常に何ていうか、気持ちとして整うんですよ。サウナ用語ですけど、なんかそんな感じが、テクノロジーとの付き合い方でも、もう少し再導入できるといいなと思って。いったん引いたところから、もう1回立て直すにはどうしたらいいか、というのを今、考えているところです。
『RITA MAGAZINE』より、塚本由晴さんレクチャーのページ
山本 今のお話をうかがって、少し別の角度から重ねると、ひょっとしたらインターネットの歴史を、そのつもりで1回ちゃんと振り返る必要があるかもしれないと思うんですね。というのは、インターネット以前、パーソナルコンピュータが出始めた1970年ぐらいの段階では、パソコンは「これからは個人がコンピュータを手にできるから、プログラムさえできれば自分のやりたいことを何でもできるぞ!」という自由の象徴だったわけですね。インターネットが一般普及した90年代半ばぐらいも、まだその気配はあって、これからは直接民主制が実現する、みんなの意見を出し合って、これまでのろくでもない意思決定から脱せるんだ、ぐらいのことを夢見ていた。
それが気がついたらどうなったかというと、ネットもすっかり商売の道具になっている。いたるところ目障りな広告だらけ。人びとは毎月のようにネットを使うために通信費を払う。企業は人びとからデータを集めて、高いコンピュータで電力を使ってAIに機械学習させて、そのAIでまたお金を稼ぐ。お金を持っている者がよりお金を儲ける道具にもなっている。それこそマルクスが『資本論』で書いていたまんまというか、剰余価値が自動的に再生産されるという状態に、インターネットが半分乗っ取られていると言っても過言ではない。
どこでどのようにそんなことになったのか。インターネットの使われ方の歴史を見直すと、ひょっとしたら、制度と資本、時間と自由といったものと、テクノロジーとの関係を見直す、けっこう大事な教訓になるんじゃないかしら。というふうに、お話を聞いておりました。
塚本 そうですね。うん。だから、制度に取り込まれていくテクノロジーに利他はないと、そういうふうに言えるべきなんじゃないかなと思うんですよ。けれども、制度に取り取り込まれないと普及しないとか、あるいは開発予算が継続的に確保できないとかっていう問題もあって、そこのところは大変難しいわけですね。
山本 そうですね。これはあまり応用がきく例ではないかもしれないですが、デジタルコンピュータを使ったゲームの世界では、隅から隅まで開発者が全部作ることもありますが、他方でそのゲームで遊ぶユーザーを半分開発者のように巻き込むやり方があります。ゲームの中にユーザーが自分でいろいろ作ってもいいですよ、という仕組みを仕込むんですね。そうすると、元々のゲームが設定した目的とは関係なく、別の遊びをそこでみんなが発明して盛り上がっていくことがある。
近年うまくいった例に「マインクラフト」があります。レゴブロックを3D化したような空間で遊ぶゲームです。ユーザーは、その世界で建物その他のいろいろなモノをつくったり壊したり組み合わせたりできる。ルールはゲーム側で用意してあるけれど、なにをどう作るかはユーザーに委ねられている。ビジネスとしても成功しているのですが、たぶん当初これを作った人が思ってもみなかった形で広がって、例えば学校の教育などにも応用されたりしています。「マインクラフト」でプログラムの初歩を学んだりとか。
話を戻すと、ある仕組みを設計する際、目的とコストは決めて作る。これを1段階目の設計とすれば、そうして作られた仕組みを、利用者の工夫次第で別のことにも使えるという、2段階目の設計の自由を確保する。そういう設計のあり方は、もうちょっと考えてもいいかな、という気がします。思いがけない転用の余地と言いましょうか。
伊藤 さっきの佐賀の小水力発電も、売電するので、お金が入るんですよね。そのお金は年間で190万とか、小さい額なんです。でも集落の元々の予算が120万とかなので、1.5倍ぐらいはある。それがなぜ大事かというと、いわゆる過疎地域の振興というのは、全部制度の枠の中にあって、行政からお金の使い道が決まった状態で来るんですよね。でも売電して得たお金は、何に使ってもいいし、さっきの正しさの議論ができるというか。
たとえば使い道として、男の料理教室といって、自分の酒のさかなを自分で作ろう、みたいなことをやって、真っ昼間から公民館で飲んでいたり。何とかさんが100歳になったから、誕生日会を公民館でやろうみたいな感じで。つまり、集落の人が100歳になったら公民館で誕生日会をする、というルールがあるからやっているんじゃなくて、その人は、やっぱり公民館で誕生日会をするべき人間だからやる、という感じで。たぶん、公平ではないというか、平等ではないけど、みんなが納得するからいいよね、というふうな感じでお金を使っているんです。
だから、経済的に儲けていくことが別に悪いことではなくて、どう使うかということの自由度であったり、そこに変な外部の基準を持ち込んで、どんどん縛られていったりとかがなければ、こんなに自由に、町を作っていくことに使えるんだな、ということにすごく感激したんです。
山本 それはなんだかよい事例ですね。お金を稼ぐことを唯一最大の目的にしないというのがポイントかもしれませんね。価値や効果を測るモノサシを1つじゃなくて複数持っておく。ただしそれだと、塚本さんがおっしゃった、裁量労働制の人と定時の人のあいだに摩擦が生じる問題みたいなものも出てくるかもしれない。時間の尺度も含めて、モノサシの運用を考え直すというのかな。お金も時間も制度も、モノサシ1つだけで何でも解決しようというのは、もっともよろしくないし、かといってモノサシをたくさん作ると法律の複雑化みたいなことにもなる。そのあたりを、それこそテクノロジーで何か考えられるんじゃないかな、とちょっと気楽なことも思ったりして。
伊藤 今日は、なんだかすごくヒントをいただいた気がします。我々は未来の人類研究センターですけど、じつは大事にしたいのは過去で、どういう経緯で今、テクノロジーや我々の生活や社会が、そういう仕組みになっているのかを遡って考えると、何か別の可能性が見えてきて、むしろそっちのほうが未来に近いのではないか、ということをすごく思いました。ぜひ皆さん、この本をお買い求めいただいて、一緒にテクノロジーと利他のことを考えられたらと思います。ゲストの皆さん、どうもありがとうございました。
(終)