第196回
Ready to change my life!ーー『心の鎧の下ろし方』刊行記念 三砂ちづるさんインタビュー(3)
2025.06.12更新
2025年6月12日(木)、リアル書店にて『心の鎧の下ろし方』が先行発売となります。
ミシマガでおなじみのロング連載「おせっかい宣言」を元にした、3冊目の書籍。刊行にあたり、著者の三砂ちづるさんのお人柄を読者の方々にも改めて知っていただきたく、ミシマ社のスタッフたちからの質問も預かり、はるばる竹富島にうかがって収録したインタビュー、本書の紹介も交えながら、3回にわたってお届けします。本日はその3回目です。
(聞き手・構成:星野友里)
できるだけ闇が大きくならない環境に、自分を置く
――本書に「心の闇は誰にでもある」という話も出てきますが、そこにも通じるお話かもしれません。
いや、心の闇って、別に誰でも抱えるものだ。どんなに理想的な環境に育っても自我に傷を負う、と言ったのは、村上春樹であるが、まさにそのとおりであって、心の闇など誰にでもある。心の闇があるのが人間というものだろう。
――『心の鎧の下ろし方』p188「心の『杖』」より
三砂 その闇は、ある意味成長の裏に張り付いているもので、誰しもそういうものを持っている。
――そんな中、自分の闇に自分の日常が脅かされないための闇との付き合い方って、どんなものでしょうか?
三砂 大人になるということは、自分が生きていく場所を選べるということだから、たとえ家族であっても、自分の闇を大きくするような人を避けるというのは大事だと思います。
――なるほど。
三砂 親もよかれと思ってしてくれたことかもしれないけど、傷ついてるのは自分なんだから、自分で親が問題だと思ったら、できるだけしばらく会わない人生を自分で選ぶ。そのうち自分が親の年齢になったら、また考えも変わるかもしれない。いずれにせよ、できるだけ、闇が大きくならない環境に、自分を置いてやる。
自分を救うために勉強する
――闇まではいかない、自分がなぜか毎回こだわってしまう心のクセ、滞りみたいなものについてはどうでしょうか?
三砂 出版社のインタビューだから言うんじゃないですけど、そのために本って読むんじゃないですか。私は自分の学生にも、本読みなさいって、すごく言ってきたんですよね。 とくに、19世紀20世紀の西洋文学、ドストエフスキーとかトルストイとかディケンズとかバルザックとか、読んだほうがいいよと。結局、自分が抱えている心の闇というのは、自分だけがここで抱えているものではない。こんなに時代も世界も違う人が、同じような闇を抱えていたということがよくわかるので、自分を相対化できる。歴史を学ぶ、ということでもある。
もう1つは、大きな歴史と同時に、自分の育ってきた環境と家族の歴史を振り返ってみること。祖先崇拝とか墓参りというのは、そのためにあるんだと思います。私は先祖の影響というのは科学的なものだと思っていて、曾祖父がこんな人だったから祖母はこんなふうに育ったとか、あんな祖母に育てられたから、こういう父になった、こういう親に育てられたからこういう私になった、という連綿たる環境要因の果てに自分がいるわけですよね。だから自分のじいちゃんばあちゃん、その先の人たちのことをいろいろ知ることによって、心の闇は、祖先が負ってきたものを、自分も抱えることになったにすぎない、とか彼らの影響で、どうしようもなかったこともある、というふうにも思えるようになる。
――本にしても墓参りにしても、この本で言うところの、ロングショットを持つためのツールになりうるというか。
本を読む、ものを書く、ということは、ロングショットの視点を持ち続ける、という作業なのだ。すぐれた、書かれた「歴史」でさえも、また。思えばそれは、演劇や舞踊や音楽や......すべての人間の創作に共通する視点なのかもしれない。
――『心の鎧の下ろし方』p315「再 ロングショットの喜劇」より
三砂 ああ、そういうことですね。自分と時代や場所が違う人の生き方も、さほど自分と異なっていない。つまり、自分の抱えている悲劇は、別に自分単独のものでもない、ある意味、ありふれたことだということが救いになることもある。でも逆に、これは自分だけが抱えているものだ、ということを大切にしたいときもあるから、まあ、人間って難しいですよね。だから何のために勉強するのかって、自分を救うために勉強するんだと思うんですよ。
文体を鍛える
――少し話が変わりますが、三砂先生は常々、文体を大切にしていると仰られていますね。
三砂 そうですね。これまた村上春樹さんが、「一に足腰、二に文体」っておっしゃっていて、体をいい状態にして、あとは、文体がすべてって言っているんですよね。文体がなかったら、どんなものも、ただのあらすじじゃないですか。小説でも、エッセイでも、それを読ませることができるのは文体があるからなんですよね。 だから、鍛えなきゃいけない。
――文体を鍛えるというのは、具体的に言うと・・・。
三砂 音楽やっている人は毎日練習する、踊りをやる人やスポーツをやる人は毎日基礎レッスンやトレーニングをする、それと同じように書くこと、読むことを続けることが文体を鍛える、ということでしょう。毎日必ず書くこと。仕事を辞めてからは1日2000字書けるようになりました。あとは読むこと。 好きだと思った作家さんのものをまとめて読めるだけ読んだりしますが、そうするとその直後は文体に影響されますね。
――自分をチューブと考えるというお話ともつながりますね。チューブが文体で、その中を通るものが、文章の中身で。
三砂 だから「書きたいものは何ですか?」と聞かれてもうまくこたえられなくて・・・。書きたいものがあるから書いているのではなくて、書いていたいので書いている。書いているのは私なので、結果として今書いているような内容になる、という感じです。
その人にしかない、人生のテーマ
――一方で本書では、渡辺京二先生のことを書かれているところで、膨大な知識をもとに、1人の人間が系統立てた思想を立ち上げる、それがその人が生きるということだ、というお話が出てきます。それはチューブになるとか、文体があるということよりも、もう1つ踏み込んだその人固有の何かのお話であるようにも思います。
三砂 それはすごく鋭い指摘ですね。私の役割は、チューブの通りをよくしていくことなんですけれども、私たちは有限の人生を生きているので、この与えられた命の中で、どこかに自分の収束点みたいなものができてくると思うんですね。 つまり、私のチューブを流れていくものの行き先が、ある程度方向づいてくる。それがいわゆる、その人の人生のテーマみたいな、結果としての、その人が負ったものということになると思います。 私の場合であれば、女性のありようとか、近代社会に人間がどうやって生きていくかとか、そういうことになりますね。それは半ば選んできたものでもあり、結果の集積だとも言える、どっちでもあるという感じです。
――なるほど。
三砂 その収束の仕方は、その人にしかできないもので、人間のオリジナリティーというのも、そこにしかない。
――一周して、アイデンティティの話に戻ってきた感じがします。
三砂 渡辺京二先生のご存じのこと、読んでおられる本、それらの量は、本当にすごかった。でも先生が亡くなったら、先生の中で体系化されたそれは、誰も引き継げない。それが死ぬということなんだなって。同時に、その思いとか仕事を継いでいく人というのは、全然自分には見えていない、思わぬところから現れるというふうにも思っています。
――なるほど。
三砂 そのためにも本が、大切なんですよね。竹富では、郷土史とか方言の辞典とかも、地元の人の手によって、すごく細かく丁寧に記述されて残っています。本というのは、自分が感情移入できるか、ということよりも、視線をロングショットに引き上げてくれるような、そういうものとして大切だと思っています。
――今日はありがとうございました。
(終)